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第四話 雨の染み

朝から、雨だった。


夜のうちに降り始めたらしい雨は、明け方になってもやまず、若草荘の古い屋根や手すりや外階段を、同じ調子で濡らし続けていた。鉄の踏み板に落ちる雨粒は、乾いた日よりも低い音を立てる。錆びた手すりを伝う水は細い筋になって、階段の角からぽたぽたと落ちた。犬はいつものように階段の下で目を覚ましたが、すぐには体を起こさなかった。湿った毛布の匂いが鼻につく。土は水を含み、ブロック塀の隅には濃い苔の匂いが立っていた。


いつもなら、雨の日でも階段の下はもう少しましだった。完全に乾いているわけではないが、体を丸めていればやり過ごせる程度には落ち着ける。けれどその朝は違った。地面の冷たさが、いつもより近い。どこかから細く入りこんだ水が、毛布の端をじわじわ濡らしている。犬は鼻先を下げて匂いを確かめ、それから立ち上がった。


雨の匂いだけではない。


古い木が水を吸う匂い。壁の内側で湿気がふくらむ匂い。長く閉じた場所に水が触れたときの、鈍い匂い。犬は階段の下から出て、建物のまわりをゆっくり歩いた。軒下を選んでも、風向きによっては細かい雨が吹きこんでくる。犬は一度立ち止まり、二階の壁を見上げた。薄い染みが、昨日よりもはっきりしている。色が濃くなり、輪郭が広がっていた。


二〇一号室のドアが開いた。


真帆だった。今日は日勤らしく、髪をひとつに結び、レインコートを腕にかけている。犬は顔を上げた。真帆は階段を下りかけて、犬がいつもの場所にいないことに気づいた。


「どうしたの」


犬は答えない。ただ、階段の付け根のあたりを見ている。真帆はその視線を追い、コンクリートの隅に小さくたまった水を見つけた。雨の吹きこみだろうと思えば、それだけのことだった。けれど犬はまだ落ち着かない様子で、少し場所を変えては匂いを嗅いでいる。


「濡れるね」


真帆はそう言ってしゃがみこみ、犬の背を撫でた。毛先が少し湿っている。犬は撫でられながらも、耳だけは立てたままだった。


「今日、帰り遅いかも」


真帆は独り言のように言い、立ち上がった。階段を下りる途中で、一〇二号室の前に目をやる。郵便受けは空のままだ。ドアの向こうにはまだ重い空気があるが、前ほど完全に止まってはいない。真帆はそれを確かめるように一瞬だけ見て、それから門の外へ出ていった。


雨脚は昼に向かって少し強くなった。


美空が学校へ行くころには、傘の縁からしずくが絶えず落ちていた。早苗は片手で自分の傘を持ち、もう片方で美空の肩を引き寄せるようにして歩く。美空は長靴の先で水たまりを踏みたがったが、早苗に「やめなさい」と言われて口を尖らせた。


「ユイ、びしょびしょだよ」

「学校遅れる」

「でもかわいそう」

「帰ったら見なさい」


美空は何か言いたげだったが、結局「いってきます」とだけ犬に向かって言った。犬は軒の下からそれを見送った。早苗は門を出る前に一度だけ振り返り、犬の寝床のほうを見た。毛布の端が濡れているのに気づいたのか、少しだけ眉を寄せたが、そのまま行ってしまった。


午前の遅い時間に、三浦が軽トラックでやってきた。


ワイパーが忙しく動いている。三浦は車を降りるなり空を見上げ、「よく降るな」と言った。誰に聞かせるでもない声だった。犬は階段の下から出てきて、少し離れたところに立つ。三浦はそれを見て、「おまえ、今日はそこじゃないのか」と言った。


犬は返事の代わりに、階段の付け根へ歩いていった。三浦は眉をひそめる。犬のあとを追ってしゃがみこみ、コンクリートの隅に手を触れた。冷たい。水がたまっている。吹きこみだけにしては、奥まで湿っていた。


「……なんだ、これ」


三浦は立ち上がり、今度は階段の裏側を見た。鉄骨の継ぎ目に赤茶けた筋が増えている。壁際のモルタルは少し黒ずみ、触るとざらりと崩れた。犬はその横でじっと見ている。


「おまえ、これ気にしてたのか」


三浦はそう言ったが、犬はもう別の場所へ歩いていた。今度は一階の廊下の端、雨どいの下だ。そこでは、細い水が本来の流れから外れて、壁を伝って落ちていた。三浦は舌打ちし、脚立を取りに軽トラックへ戻った。


雨どいの詰まりは、落ち葉だった。


手を突っこむと、去年の枯れ葉と泥が固まって出てくる。三浦は顔をしかめながらそれを掻き出した。水は一度ごぼりと音を立てて流れたが、すぐにまた鈍くなった。完全には抜けていないらしい。犬は脚立の下で座り、見上げている。


「見てても直らんぞ」


三浦はそう言った。けれど犬がいなければ、今日はここまで気づかなかったかもしれないと思った。雨の日の不具合は、晴れた日には見えない。見えないものは、つい後回しになる。若草荘にはそういう箇所が増えすぎていた。


昼過ぎ、相馬が傘もささずにコンビニから戻ってきた。


頭と肩を濡らし、レジ袋をぶら下げている。門をくぐったところで、脚立に乗った三浦を見て足を止めた。


「何してるんですか」

「見りゃわかるだろ」

「雨どいですか」

「詰まってる」


相馬は見上げた。壁を伝う水の筋が、いつもより太い。階段の下の毛布も濡れている。犬はそこに戻らず、廊下の端にいる。


「手伝います?」

「おまえが乗ると余計危ない」

「そこまでじゃないです」

「そういう問題じゃない」


三浦はぶっきらぼうに言い、脚立を下りた。相馬は苦笑して、代わりに脚立を押さえる位置に立つ。三浦は何も言わなかったが、追い払わなかった。


「だいぶ傷んでますね」

「前からだ」

「直せるんですか」

「直すしかないだろ」


そう言いながらも、三浦の声には自信がなかった。相馬はそれを聞き取ったが、何も言わなかった。犬が二人のあいだを見ている。雨はまだやまない。


午後の遅い時間、真帆が帰ってきた。


レインコートの袖口から水が落ちる。疲れた顔をしていたが、階段の下の濡れた毛布を見ると、すぐにしゃがみこんだ。


「うわ、これじゃ寝られないね」


犬は少し離れたところから見ている。真帆は毛布の端をつまみ、濡れ具合を確かめた。かなり冷たい。そこへ三浦が物置から戻ってくる。手には古いブルーシートがあった。


「それ、敷くんですか」

「敷いても蒸れるだけだ」

「じゃあ」

「上にかける」


三浦はそう言って、階段の横の出っ張りにシートを引っかけ、簡単な雨よけを作り始めた。真帆は少し驚いた顔をしたが、すぐに手伝った。相馬もいつのまにか出てきて、端を押さえる。三人が無言で動くあいだ、犬は少し離れた場所から見ていた。


「これで少しはましだろ」


三浦が言う。犬は近づいて匂いを嗅いだが、すぐには中へ入らなかった。真帆が笑う。


「警戒してる」

「余計なことしたと思ってるんだろ」

「そんなことないですよ」

「犬の考えてることなんかわかるか」

「三浦さんも、わかってるみたいに言うじゃないですか」


三浦は返事をしなかった。相馬が少しだけ笑う。雨音の中で、その笑いは小さく消えた。


そのあと、真帆は二階の壁の染みに気づいた。


「これ、前より広がってません?」

「どれだ」

「ここ」


三浦が見上げる。階段に近い壁の、薄茶色の染み。前からあったが、今日は輪郭がはっきりしている。真帆が指先で触れようとすると、三浦が「やめとけ」と言った。


「中まで湿ってるかもしれん」

「危ないですか」

「すぐどうこうじゃない」


その「すぐ」が、どれくらい先のことなのかはわからなかった。相馬も壁を見上げる。若草荘に住み始めてから、こういう染みは何度も見てきた。けれど今日は、それがただの古さではなく、何かの限界に見えた。


夕方、美空と早苗が帰ってきた。


美空は新しくできたブルーシートの屋根を見て、「ユイのおうちだ」と言った。早苗は濡れた毛布と壁の染みを見て、顔を曇らせる。


「大丈夫なんですか、これ」

「大丈夫じゃなきゃ困る」


三浦はそう言ったが、冗談には聞こえなかった。早苗はそれ以上言わず、美空の肩を押して部屋へ入れた。けれどドアを閉める前に、もう一度だけ階段の下を見た。


夜になると、雨は少し弱まった。


それでも建物のどこかで、水の落ちる音が続いていた。ぽた、ぽた、と一定ではない間隔で響く。犬は新しい雨よけの下に入ってみたが、しばらくするとまた出てきた。落ち着かないらしい。階段の下だけではなく、廊下の端や壁際を行き来している。


三浦は帰る前に、もう一度建物のまわりを見て回った。


懐中電灯の光で、手すりの根元、壁のひび、雨どいの継ぎ目を照らす。どこも少しずつ悪い。ひとつひとつは、今すぐ崩れるほどではない。けれど、全部合わせると、建物全体が静かに疲れているのがわかる。


若草荘を建てたのは、三浦がまだ四十代のころだった。大工に任せきりではなく、自分でも何度も現場に来た。柱が立つのを見た。壁が塗られるのを見た。最初の入居者が決まったときのことも覚えている。若い夫婦、工場勤めの男、専門学校に通う女の子。部屋は今より明るく見えたし、廊下の手すりも、こんなふうに赤くはなかった。


あのころは、長く持つと思っていた。


いや、長く持たせるつもりだった。少しずつ直しながら、なんとかなると思っていた。けれど人が減り、家賃は上げられず、直す場所は増えるばかりで、いつのまにか「今すぐ困るところだけ」に手を入れるようになった。そうしているうちに、建物は古くなった。古くなるというのは、壊れることより厄介だ。少しずつ悪くなるから、どこから諦めたのか、自分でもわからなくなる。


「……まったく」


三浦は暗い廊下でつぶやいた。犬が少し離れたところから見ている。


「おまえは気楽でいいな」


そう言ってみるが、犬は気楽そうには見えなかった。耳を立て、壁のほうを見ている。三浦はその視線を追い、染みの広がった壁を見上げた。


「わかってるよ」


誰に向けた言葉でもない。犬に言ったのか、建物に言ったのか、自分に言ったのかもわからない。


「このままでいいわけない」


雨はまた少し強くなった。手すりを打つ音が、夜の静けさに混じる。二〇一号室には明かりがつき、二〇三号室ではテレビの音が小さく漏れている。一〇二号室は暗いままだが、人のいる気配はある。一〇三号室からは、美空の笑い声が一度だけ聞こえ、すぐに早苗に静かにしなさいと言われた。


若草荘は、まだ立っている。


けれど、立っていることと、持ちこたえていることは、少し違う。三浦はそれを知っていた。知っていて、見ないふりをしてきた時間も長かった。


壁の染みも、雨どいの詰まりも、階段の錆びも、今日できたものではない。


気づかないまま過ぎてきた時間が、雨の日だけ姿を見せる。


犬は階段の下へ戻り、ブルーシートの影に体を丸めた。完全には安心していないが、さっきよりはましらしい。三浦はそれを見て、物置からもう一枚、古いタオルを持ってきた。誰も見ていないのを確かめるようにして、濡れた毛布の上にそっと重ねる。


「噛むなよ」


いつものようにそう言う。犬は顔を上げただけだった。


三浦は軽トラックに乗りこみ、エンジンをかけた。ワイパーが動き出す。帰る前にもう一度だけ若草荘を見た。雨に濡れた外壁は、昼よりも暗く見える。二階の壁の染みは、夜の中では見えにくい。けれど消えたわけではない。


明日晴れたとしても、乾くだけだ。

傷みそのものがなくなるわけではない。


三浦はハンドルに手を置いたまま、しばらく動かなかった。やがて小さく息を吐き、車を出した。軽トラックの赤い尾灯が門の外へ消えていく。


雨音だけが残る。


犬は目を閉じた。眠っているように見えたが、耳だけは立っていた。壁の内側を水が伝う気配も、雨どいの奥にまだ残る詰まりも、二階の部屋で人が寝返りを打つ音も、全部聞いていた。


若草荘の雨の夜は、静かだった。

静かで、そのぶんだけ、傷んでいるものの気配がよくわかった。


物語は序盤、まだまだ続きます。

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