第三話 空の郵便受け
相馬は、郵便受けを開ける前に一度だけ息を止める癖があった。
門をくぐり、一階の並んだ金属の箱の前に立つ。鍵はかかっていない。古い郵便受けは口のばねが弱く、指をかければすぐに開く。そこに何が入っているかは、だいたいわかっている。求人誌、クレジットカードの案内、携帯会社の広告、たまに大学時代の友人からの結婚報告。封筒の厚みで、期待していいものか、そうでないかも、だいたいわかる。
その日、白い封筒が一通入っていた。
角がきちんと揃った、事務的な封筒だった。差出人の会社名を見た瞬間、相馬はそれを開ける前から中身を知った。知っていて、それでも一度だけ周囲を見た。誰もいない。階段の下に犬がいるだけだ。犬は伏せたまま、こちらを見ている。
相馬は封を切った。
拝啓、の次の一行で、もう十分だった。慎重に選考を進めた結果、今回はご期待に添いかねる結果となりました。今後のご活躍をお祈り申し上げます。どの会社も、だいたい同じことを書く。違うのは社名と日付くらいで、断られる側の気持ちに合わせて文面を変えてくれるところなど、ひとつもない。
相馬は紙を半分に折り、さらに半分に折った。ポケットに入れようとして、やめた。郵便受けの上に置きかけて、やめた。結局、コンビニのレジ袋に押し込んだ。
犬はまだ見ていた。
「見るなよ」
相馬はそう言った。犬は目をそらさない。責めているわけでも、慰めているわけでもない。ただ、そこにいるだけだった。その無関心さが、かえって腹立たしかった。
二〇三号室に戻ると、部屋は昼の熱をためこんでいた。カーテンを閉めたまま出たせいで、空気がよどんでいる。机の上には履歴書の控え、開いたままの求人サイト、飲みかけのペットボトル、昨日脱いだシャツ。床には読みかけの本と、コンビニの袋。相馬はネクタイを外し、ベッドに倒れこんだ。
天井の染みが目に入る。
若草荘に越してきたときからあった染みだ。最初は気になったが、今ではもう、そこにあるのが当たり前になっている。相馬は目を閉じた。眠いわけではない。何も考えたくなかった。
けれど、考えないでいると、余計なことばかり浮かんだ。
大学を出て、最初の会社に入ったときは、こんなふうになるとは思っていなかった。営業は向いていないとわかるまでに半年、辞めるまでに一年半かかった。辞めたあと、少し休むつもりが、その少しが長くなった。転職活動はしている。しているが、うまくいかない。面接で何を聞かれても、前の会社を辞めた理由をどう言い換えても、最後には自分でも信じきれない言葉だけが残る。頑張ります、成長したいです、御社で学びたいです。どれも嘘ではない。けれど本当でもない気がした。
ドアの外で、小さな足音がした。
美空だった。学校から帰ってきたらしい。犬に話しかける声が聞こえる。
「ユイ、きょうね、国語でね、ゆうびんって漢字やった」
相馬は思わず目を開けた。郵便、という言葉が、さっきの封筒を思い出させる。美空は続ける。
「でもね、わたし、郵便受けって好きじゃない。なんか、こわいときある」
「美空、手洗って」
「はーい」
早苗の声がして、足音が遠ざかる。相馬は天井を見たまま、少しだけ笑った。小学生でも、郵便受けがこわいときがあるのかと思う。自分だけではないのだと知って、救われるほどではないが、少しだけ可笑しかった。
夕方、相馬はゴミを出しに一階へ下りた。
袋を集積所に置き、戻る途中で、階段の下にいる犬と目が合う。犬は前足のあいだに顎をのせていたが、相馬が近づくと顔を上げた。
「……ユイ、だっけ」
口に出してから、自分で少し驚いた。美空が勝手につけた名前を、自分が使うとは思っていなかった。犬は耳を動かしただけだった。
「反応すんなよ」
そう言いながら、相馬は階段を上がりかけた。けれど二階の踊り場で足を止める。一〇二号室のドアが、少しだけ開いていた。
片岡だった。
ほんの数センチの隙間から、外の様子をうかがうように顔を出している。相馬と目が合うと、片岡はすぐに引っこもうとした。相馬はとっさに言った。
「……あ」
それ以上の言葉が出ない。片岡も止まったまま、ドアの縁を握っている。
「具合、どうですか」
ようやく出たのは、それだけだった。片岡は少し黙ってから答える。
「ましです」
「そうですか」
「……この前、すみませんでした」
「いや、別に」
今度は相馬が、自分の口癖に少しだけ苦い顔をした。片岡はそれを見ているのかいないのか、視線を落としたまま言う。
「飲み物、もらいました」
「ああ」
「助かりました」
「真帆さんが置いたやつですよ」
「バナナも」
「……あれは、まあ」
片岡は小さくうなずいた。会話はそこで切れた。二人とも、次に何を言えばいいのかわからない。廊下の向こうで、どこかの部屋のテレビの音がかすかに聞こえる。犬が階段の下からこちらを見上げている。
「外、暑いですね」
片岡が不意に言った。相馬は少し驚いて、「そうですね」と返した。それだけのことなのに、妙にぎこちなかった。片岡はまたうなずき、ドアを閉めた。
相馬はしばらくその場に立っていた。たったそれだけの会話で、ひどく疲れた気がした。けれど同時に、少しだけ息がしやすくなった気もした。自分よりもっと外に出られない人がいるから安心した、ということではない。ただ、止まっているのが自分だけではないと知ることには、奇妙な重さと軽さがあった。
翌日、相馬は朝からスーツを着た。
面接ではなく、ハローワークへ行く日だった。求人票を印刷し、相談員と話し、応募するかどうか迷って帰ってくるだけの日。けれど部屋着のまま一日を終えるよりはましだと、自分に言い聞かせるための服装でもあった。
階段を下りると、犬がいた。
「行ってくる」
誰に言うでもなくつぶやくと、犬が顔を上げる。相馬は少しだけ立ち止まり、それから一〇二号室の郵便受けを見た。今日は紙が少ない。片岡が少し取ったのかもしれない。そう思うと、ほんのわずかに気が楽になった。
外は蒸し暑かった。駅まで歩くだけでシャツが背中に張りつく。ハローワークの待合室は冷房が効きすぎていて、順番を待つあいだに腕が冷えた。相談員は若い女性で、丁寧だったが、丁寧すぎて遠かった。希望職種、勤務地、給与、前職の経験。相馬は答えながら、自分の話を自分で聞いているような気分になった。何を言っても、どこか借り物の言葉に聞こえる。
帰り道、駅前のコンビニで缶コーヒーを買った。冷たい缶を手のひらで転がしながら、若草荘までの道を歩く。夕方の空は低く曇っていた。雨が近い匂いがする。
門をくぐると、美空が階段の下にしゃがんでいた。犬の前に、何か小さなものを並べている。
「何してるの」
相馬が声をかけると、美空は振り向いた。手のひらには、色の違う小石が三つ乗っている。
「ユイに選んでもらってる」
「何を」
「名前」
相馬は思わず笑った。
「もうユイじゃないの」
「まだ決まってないの。きょうはユイと、ソラと、ポチ」
「最後だけ雑だな」
「ポチ、かわいいじゃん」
犬は小石には興味がないらしく、少し離れたところを見ている。美空は真剣な顔で犬の鼻先に石を並べた。
「どれがいい?」
「犬は選ばないだろ」
「選ぶよ」
そのとき、一〇三号室のドアが開いて早苗が顔を出した。
「美空、宿題やったの」
「これからー」
「これからじゃない」
「今、ユイが」
「だからまだユイって決まってないでしょ」
早苗はそう言いながらも、もう自然にその名前を使っていた。相馬はそれに気づいて、少しだけ可笑しくなる。
「相馬さん、笑ってる」
「いや、別に」
「また別にって言った」
「便利なんで」
美空はけらけら笑った。早苗も呆れたように笑う。その笑い声を聞きながら、相馬は缶コーヒーを一口飲んだ。苦くて、少しぬるくなっていた。
その夜、相馬は珍しく自分から部屋を出た。
共用廊下の端にある自販機まで行こうと思っただけだった。部屋にいると、求人サイトの画面ばかり見てしまう。外に出れば何か変わるわけではないが、少なくとも同じ場所に座り続けるよりはましだった。
階段を下りる途中で、一〇二号室のドアがまた少し開いているのが見えた。片岡が、今度は郵便受けの中身を抜き取っていた。紙の束を抱え、ひどくゆっくりした動きで立っている。
相馬は足を止めた。片岡も気づいて、肩をこわばらせる。
「……こんばんは」
「こんばんは」
昼間よりは少し自然に言えた。片岡は手にした紙束を見下ろし、苦笑ともつかない顔をする。
「たまると、余計に開けたくなくなりますね」
「……わかります」
相馬は思わずそう言っていた。片岡が顔を上げる。二人のあいだに、短い沈黙が落ちる。
「相馬さんも?」
「まあ」
「そうですか」
片岡はそれ以上聞かなかった。相馬も説明しなかった。ただ、その「わかります」だけで、何かが少しだけ通じた気がした。
片岡は紙束を抱えたまま、郵便受けの口を閉じた。金属の蓋が、かちゃんと軽い音を立てる。空になった郵便受けは、妙に頼りなく見えた。
「空だと、変な感じですね」
片岡が言う。
「何も入ってないと」
「そうですね」
「でも、たまってるよりは、ましです」
相馬はうなずいた。犬が階段の下からこちらを見ている。片岡もその視線に気づき、少しだけ口元をゆるめた。
「見られてますね」
「いつも見てますよ」
「番犬なんですかね」
「番犬にしては、あんまり吠えないですけど」
「……そうですね」
片岡はほんの少しだけ笑った。笑うと、思っていたより若く見えた。
そのとき、二階の廊下から真帆が出てきた。今日は休みらしく、Tシャツにゆるいパンツ姿だった。相馬と片岡が立ち話をしているのを見て、少し目を丸くする。
「あ、こんばんは」
「こんばんは」
「こんばんは」
片岡の声はまだ小さいが、前よりははっきりしていた。真帆は一〇二号室の前に置かれていた空の袋がなくなっているのを見て、少し安心したような顔をする。
「食べられてます?」
「少し」
「よかった」
「この前は、ありがとうございました」
「いえ」
真帆は笑って、それから相馬の手元の缶コーヒーを見た。
「またそれ飲んでる」
「安いんで」
「便利な言葉だね」
「さっきも言われました」
真帆が笑う。片岡もつられるように少しだけ笑った。たったそれだけのことなのに、廊下の空気が昨日までと違っていた。まだぎこちない。まだ他人行儀だ。けれど、完全に閉じたままではない。
一階から、美空の声がした。
「ユイー、どこー?」
犬が耳を立てる。真帆が手すりから下をのぞきこみ、「ここにいるよ」と言った。美空が駆け上がってくる足音がする。
「いた!」
美空は二階まで来ると、相馬と片岡と真帆が並んでいるのを見て、少しだけ不思議そうな顔をした。それから犬を見て、にこっと笑う。
「ほらね、ユイって呼ぶと、みんないる」
その理屈はよくわからなかったが、誰も否定しなかった。
早苗が少し遅れて上がってきて、「すみません、うるさくて」と言う。片岡は首を振った。
「いえ」
「ご迷惑じゃなければいいんですけど」
「……大丈夫です」
その「大丈夫」は、前にドア越しで聞いたものより、少しだけ本当らしく聞こえた。
美空は犬の頭を撫でようとして、また少しためらい、結局耳の後ろにそっと触れた。
「ねえ、ユイってさ」
「うん?」
「なんか、呼びやすいよね」
「そうだね」
「でしょ」
真帆が相づちを打つと、美空は満足そうにうなずいた。相馬は手すりにもたれ、空になった一〇二号室の郵便受けを見た。何も入っていない口は、少し心もとなく、少しだけましだった。
その夜、相馬は久しぶりに履歴書を開いた。
書くことが急に増えたわけではない。自信が戻ったわけでもない。明日うまくいく保証もない。ただ、空になった郵便受けのことを思い出した。たまっているよりは、ましだ。何も解決していなくても、少しだけ風通しがよくなることはある。
窓の外では、遠くで雷が鳴っていた。まだ雨は降っていない。けれど空気は重く、湿っている。若草荘の壁のどこかで、水を含んだ匂いがしていた。
犬は階段の下で丸くなり、目を閉じていた。眠っているように見えたが、耳だけは立っている。二階の廊下で交わされた短い会話も、空になった郵便受けの軽い音も、遠くの雷も、全部聞いていた。
若草荘では、まだ何ひとつ片づいていない。
相馬の先のことも、片岡の部屋の重さも、真帆の疲れも、早苗の不安も、三浦の諦めも、そのままだ。けれど、止まったままのものの中に、ときどき小さく動くものがある。郵便受けの口が閉まる音のように、誰かの名前を同じ呼び方で呼ぶ声のように、ほんの少しだけ確かなものが。
犬は一度だけ目を開け、二階の壁を見上げた。
薄い染みは、昨日より少しだけ広がっていた。




