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第二話 帰りの遅い人

真帆の帰る時間は、日によって違った。


朝の光がまだ白いうちに帰ってくる日もあれば、昼近くになってようやく階段を上がってくる日もある。夜勤のあと、仮眠も取らずにまた出ていく日もあった。犬は時計を知らないが、空の色と匂いでそれを覚えていた。真帆が帰るころの若草荘には、夜の湿り気がまだ残っていることもあれば、昼の熱がもう壁にこもり始めていることもある。どちらにしても、真帆の足音はわかりやすかった。急いでいるときは細く速く、疲れているときは、靴底が床を引きずるように鳴った。


その週、真帆の足音はずっと重かった。


夜明け前、犬が階段の下で目を覚ますと、門の外から小さく咳をする声が聞こえた。真帆だった。肩から大きなバッグを提げ、白いスニーカーの先を少し汚して帰ってくる。髪はひとつに結んだまま崩れ、目の下の影は前より濃い。犬は立ち上がって近づいた。


「ただいま」


真帆はそう言ってしゃがみこみ、犬の頭を撫でた。手のひらは冷たく、指先だけが少し熱かった。消毒液と石鹸、それから眠れていない人の匂いがした。


「きょう、長かった」


犬は真帆の膝に鼻先を寄せた。真帆は少し笑ったが、その笑いはすぐに消えた。立ち上がるとき、ほんのわずかによろける。犬はその足元を見上げた。真帆は「大丈夫」と誰に言うでもなくつぶやき、二階へ上がっていった。


その日、真帆の部屋のカーテンは昼を過ぎても閉まったままだった。


一〇二号室の前には、前の晩に置かれたスポーツドリンクの空きボトルが出ていた。ゼリーの袋もなくなっている。真帆が置いたものを片岡が取ったのだとわかるだけで、犬は少しだけ安心した。けれど一〇二号室の匂いはまだ重いままだった。中で人が生きている匂いはする。だが、暮らしている匂いではない。


昼過ぎ、美空が学校から帰ってきた。


「ただいまー」


門の外から声がして、犬は顔を上げた。美空はランドセルを背負ったまま階段の下へ駆け寄ってくる。


「ねえねえ、きょうね、図工で犬描いたの。ちょっと似てた」


犬は前足を伸ばして体を起こした。美空はしゃがみこみ、犬の耳の先を見て笑う。


「きょうはね、ユイって感じ」


その言い方は、昨日までのサビやレインと同じくらい気まぐれだった。けれどその音だけが、妙にやわらかく犬の耳に残った。


「ユイ?」

「うん。なんか、ユイ」


美空は自分でも理由を説明できないらしく、そう言って笑った。そこへ早苗が帰ってきて、「また勝手に名前つけてる」と少し呆れた声を出す。


「だって毎日違う顔してるもん」

「犬の顔はそんなに変わらないの」

「変わるよ。きょうはユイ」

「はいはい。手、洗って」


美空は「はーい」と返事をして立ち上がったが、部屋へ入る前にもう一度だけ振り返って、「またね、ユイ」と言った。犬は首を少し傾けた。


夕方、真帆の部屋のドアが開いた。


犬はすぐに顔を上げた。真帆は部屋着のまま、髪をほどいた状態で廊下に出てきた。寝ていたのだろうが、眠れた顔ではなかった。頬に枕の跡がつき、目は赤い。手には空のマグカップがある。階段のところまで来て、しばらく立ち止まり、下を見た。


犬が見上げている。


「……お腹すいた?」


真帆はそう言って笑おうとしたが、うまく笑えなかった。階段を下りて、共用の水道でマグカップをすすぐ。蛇口をひねる音が、夕方の静かな敷地に響いた。犬はそのそばに座る。


「私も、お腹すいてるんだけどね」


独り言のように言って、真帆はしばらく水を流したままにしていた。何かを考えているというより、考える力が切れているような顔だった。


そこへ、二〇三号室の相馬が帰ってきた。


今日はスーツだった。ネクタイは少し緩み、手にしたクリアファイルの角が折れている。門をくぐったときから、うまくいかなかった日の匂いがした。犬はそれも知っている。相馬は真帆が水道の前に立っているのを見て、少しだけ足を止めた。


「こんばんは」

「こんばんは」


真帆は振り向いて答えたが、その声は薄かった。相馬は何か言いかけて、やめる。犬が二人の間を見上げている。


「……仕事、ですか」

「うん。夜勤明け」

「大変ですね」

「そっちも、面接?」

「まあ」


それだけで会話は切れた。相馬は階段を上がりかけたが、真帆が蛇口を閉めたあとも、その場を離れなかった。真帆はマグカップを持ったまま、少しぼんやりしている。


「大丈夫ですか」


相馬がそう言ったのは、たぶん反射だった。真帆は一瞬、何を聞かれたのかわからないような顔をした。それから、いつものように「大丈夫」と言おうとして、言葉が出なかった。


「……うん」


代わりに出たのは、曖昧な返事だった。


その夜、真帆はまた仕事へ出た。犬は階段の下から見送った。真帆はいつものように「行ってきます」と言ったが、声が少しかすれていた。


翌朝、帰ってきたのはいつもより遅かった。


空はもう明るく、近所の家の洗濯物が揺れ始めている時間だった。犬は門のほうを見ていた。真帆の足音がする。けれどいつもより遅い。重い。階段の前まで来たところで、真帆は立ち止まった。バッグを肩から下ろし、片手で額を押さえる。


犬は近づいた。


真帆は一歩、階段に足をかけたが、そのまましゃがみこんだ。座りこむというより、膝から崩れたような形だった。バッグが横に倒れ、中からペンケースが少し飛び出す。


「……やば」


小さく笑うように言ったが、笑えていなかった。犬は真帆の膝に鼻先を押しつけた。真帆の呼吸は浅く速い。汗の匂いがした。熱のある匂いだった。


二階の廊下でドアの開く音がした。相馬だった。Tシャツにジャージ姿で、寝起きの顔のまま階段の上から見下ろしている。


「え」


真帆は顔を上げようとしたが、うまく上がらない。相馬は一瞬ためらい、それから駆け下りてきた。


「大丈夫ですか」

「……ごめん、ちょっと」

「立てます?」

「うん、たぶん」


たぶん、という言い方の時点で立てないのはわかった。相馬はどう触れていいかわからない顔をしたまま、少し距離を置いてしゃがんだ。犬は真帆の足元から離れない。


「大家さん、呼びます」

「いい、そこまでじゃ」

「いや、でも」


相馬はそう言って立ち上がり、一階の管理用物置のほうへ声を張った。三浦がたまたま来ていたのは幸運だった。すぐに「なんだ」と不機嫌そうな声が返ってくる。事情を聞くと、三浦は眉をひそめながらも急いでやってきた。


「どうした」

「ちょっと、立ちくらみみたいで」

「顔色悪いな」


三浦はそう言って真帆の顔をのぞきこんだ。真帆は「すみません」と言ったが、その声に力はなかった。


「部屋まで行けるか」

「……たぶん」

「たぶんじゃ困る」


三浦はぶっきらぼうに言い、相馬に顎をしゃくった。


「肩貸せ」

「はい」


相馬はぎこちなく真帆の腕を取った。真帆は「すみません」ともう一度言った。犬は先に階段を上がり、二〇一号室の前で振り返る。真帆はその姿を見て、少しだけ息を吐いた。


部屋に入ると、カーテンは閉まったままで、空気がよどんでいた。テーブルの上には飲みかけのペットボトルと、開けていないカップ麺が置かれている。三浦はそれを見て舌打ちした。


「食ってないのか」

「食べる時間なくて」

「時間がなくても食え」

「……はい」


真帆はベッドの端に腰を下ろした。相馬は入口のところで立ったまま、どうしていいかわからない顔をしている。犬は部屋の敷居の外で座った。中には入らない。


「熱あるんじゃないか」


三浦が言うと、真帆は首を振った。


「たぶん、寝不足です」

「たぶんばっかりだな」

「すみません」

「謝るな」


その言い方はきつかったが、怒っているというより困っている声だった。三浦はしばらく考え、それから相馬に言った。


「スポーツドリンクか何か買ってこい」

「はい」

「ゼリーもだ。食えるやつ」

「わかりました」


相馬はすぐに部屋を出た。犬がそのあとを少しだけ追い、階段の途中で止まる。相馬は駆け足で門を出ていった。


部屋には、真帆と三浦と犬だけが残った。


「仕事、休めないのか」


三浦が窓のほうを見ながら言った。真帆は少し黙ってから答える。


「人が足りなくて」

「おまえが倒れたらもっと足りなくなるだろ」

「……そうなんですけど」

「そうなんですけど、じゃない」


真帆は笑おうとして、やめた。代わりに目を伏せる。


「休むの、苦手で」

「そんなもん得意なやつがいるか」


三浦はそう言って、閉まったままのカーテンを少しだけ開けた。細い光が差しこむ。真帆はまぶしそうに目を細めた。


「寝ろ。今日は」

「でも洗濯が」

「死ぬほどたまってからやれ」

「……はい」


その返事に、三浦はようやく少しだけ肩の力を抜いた。


相馬が戻ってきたのは十分ほどあとだった。コンビニの袋を二つ提げ、息を切らしている。スポーツドリンク、ゼリー飲料、バナナ、ヨーグルト、ついでにレトルトのおかゆまで入っていた。


「買いすぎだ」


三浦が言うと、相馬は少しだけむっとした顔をした。


「どれ食べられるかわからないんで」

「……そうか」


真帆はベッドに腰かけたまま、その袋を見ていた。目が少し潤んでいるようにも見えたが、泣くほどの元気もないのかもしれなかった。


「ありがとうございます」

「いや、別に」

「優しいね」

「違います」


前にも聞いた返事だった。けれど前より少しだけ弱かった。


真帆はゼリー飲料を一本受け取り、ゆっくり口をつけた。喉が動くのを見て、犬は敷居の外で伏せた。三浦は「じゃあ寝ろ」とだけ言って部屋を出る。相馬も続こうとして、ふと立ち止まった。


「何かあったら、呼んでください」


真帆は顔を上げた。相馬は自分で言っておいて気まずそうに視線をそらす。


「……隣じゃないですけど」

「うん」

「起きてること多いんで」

「ありがとう」


真帆は今度はちゃんと笑った。小さく、疲れた笑いだったが、さっきまでよりは少しだけ人の顔に戻っていた。


その日の午後、真帆の部屋は静かだった。カーテンの隙間から細い光が入り、エアコンの古い音がかすかに漏れる。犬はしばらく二〇一号室の前にいたあと、一〇二号室の前へ行った。片岡の部屋の前には、昨夜置かれたバナナの皮が小さな袋に入れて出されていた。中で人が少しだけ動いた気配がある。


犬はまた階段の下へ戻った。


夕方、美空が帰ってくる。


「ただいまー。ユイ、いる?」


犬は顔を上げた。美空はランドセルを揺らして駆け寄ってくる。


「ねえ、お母さん、きょうもユイいたよ」

「いるでしょ、毎日」

「ううん、そうじゃなくて、ユイって呼んだらこっち見た」

「たまたまでしょ」

「たまたまじゃないもん」


早苗は苦笑しながら鍵を開けた。けれど犬のほうを見て、「……ユイ」と小さく呼んでみる。犬は耳を動かしただけだった。


「ほら、見た」

「耳動いたじゃん」

「それは音がしたからでしょ」


そんなやりとりをしながら、母娘は部屋へ入っていった。


夜になって、真帆の部屋の明かりがついた。犬は階段の下からそれを見た。しばらくしてドアが開き、真帆が廊下に出てくる。昼よりは少し顔色が戻っていた。手には空になったゼリーの袋がある。


「助かった」


誰に向けた言葉でもないように言って、真帆は階段の下を見た。犬がいる。


「……ユイ?」


試すように呼ぶと、犬は顔を上げた。真帆は少し笑う。


「ほんとに反応してる」


その声に、二〇三号室のドアが少し開いた。相馬が顔を出す。


「起きてたんですね」

「うん。だいぶ楽」

「よかったです」

「買ってきてくれたの、助かった」

「別に」

「それ、便利な言葉だね」

「便利なんで」


真帆は小さく笑った。相馬も少しだけ口元をゆるめる。廊下の空気はまだよそよそしかったが、昨日までよりは少しだけやわらいでいた。


「片岡さんのほうも、少し食べたみたい」

「そうですか」

「バナナの皮、出てた」

「……ならよかった」


相馬はそう言ってから、少し黙った。


「なんか」

「うん」

「自分のことでもないのに、気になりますね」

「そうだね」


真帆は手すりにもたれ、暗くなった敷地を見下ろした。階段の下で犬が丸くなる。錆びた鉄の匂いに、夜の湿気が混じり始めている。


「でも、たぶん」

「何が?」

「前よりは、見えてる気がする」


真帆の言葉に、相馬は返事をしなかった。けれど否定もしなかった。


一〇二号室の中では、まだ時間が止まったままだ。真帆の仕事のしんどさも、今日一日寝たくらいで消えるものではない。相馬の面接がうまくいったわけでもない。早苗の生活も、美空の寂しさも、三浦の諦めも、何ひとつ片づいてはいない。


それでも、若草荘の夜には昨日までなかったものが少しだけ増えていた。


誰かの部屋の明かりを気にすること。

帰りの遅い足音を待つこと。

倒れそうな人に手を貸すこと。

名前のない犬を、同じ名前で呼び始めること。


犬は階段の下で目を閉じた。眠っているように見えたが、耳だけは立っていた。二〇一号室の明かりが消える音も、二〇三号室のドアが閉まる音も、一〇二号室の中でかすかに何かが動く気配も、全部聞いていた。


夜の終わりに近い静けさの中で、犬はもう一度だけ目を開けた。


二階の廊下の壁に、薄い染みがひとつ増えていた。


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