第一話 止まった部屋
一〇二号室の郵便受けには、いつも何かが挟まっていた。
水道修理の広告、近所のスーパーの特売チラシ、見学会の案内、選挙の広報。雨に濡れた日には端がふやけ、晴れた日には日に焼けて反り返る。誰かが毎日きちんと暮らしている部屋なら、そういう紙はすぐに抜き取られて、丸められるなり、部屋の隅に積まれるなりするのだろう。けれど一〇二号室の口は、いつ見ても半分ほど開いたままで、紙だけが少しずつ入れ替わっていた。
犬はその下を通るたび、鼻先を上げた。
金属の匂い。濡れた紙の匂い。古い煙草の残り香。閉め切った部屋の空気。そこまでは、前から知っている。けれどここ数日、その奥に別の匂いが沈んでいた。湿った布団のような、冷えた汗のような、長く動かない水のような匂いだった。犬はそれをうまく分けて考えることはできない。ただ、昨日と違うことだけはわかった。
朝、美空がランドセルを背負って出てくると、犬は階段の下から顔を出した。
「おはよう」
美空はそう言ってしゃがみこみ、犬の頭に触れようとして、少しだけためらった。母親に、野良犬にはあまり触らないようにと言われているのを思い出したのだろう。けれど結局、指先だけで耳の後ろをそっと撫でた。
「きょうはね、図工があるの。あとね、テスト返ってくる」
犬は目を細めた。美空はそれを返事だと思っている。
「ねえ、きょうはサビじゃなくて、レインって感じ」
「遅れるよ」
一〇三号室のドアを閉めながら、早苗が言った。鞄を肩にかけ、鍵を回しながら、もう頭の中では今日の仕事の段取りを追っているような顔だった。美空は「はーい」と返事をし、それでも犬に向かって小さく「いってきます」と言ってから門のほうへ走っていった。
早苗はその背中を見送り、それから犬に目をやった。
「ごめんね、この子、毎日うるさくて」
犬は何も言わない。早苗も返事を期待していない。ただ、そう言ってしまったあとで、少しだけ気まずそうに視線を外した。犬に謝ったのか、自分に言い訳したのか、本人にもよくわからないような顔だった。
その朝、真帆は少し遅れて出てきた。白いスニーカーの紐を結び直しながら階段を下り、犬の前で一度立ち止まる。
「おはよう」
しゃがんで頭を撫でる手つきはやさしかったが、目の下には薄い影があった。犬はその匂いを知っている。眠れていない日の匂いだ。真帆は一〇二号室の前に目をやり、郵便受けに挟まった紙を見て、ほんの少し眉を寄せた。
「……また増えてる」
誰に言うでもなくつぶやいて、すぐに歩き出す。急いでいる朝だった。
二階の廊下が静かになると、犬は階段の下から出て、一〇二号室の前まで歩いていった。ドアの前で止まり、鼻先を少し上げる。中は静かだった。静かすぎる、とまでは思わない。ただ、そこにある空気が重かった。人のいる部屋の匂いなのに、人が動いたあとの気配がない。犬はしばらくそこに立っていたが、やがて廊下の端で鳴いたカラスの声に耳を動かし、また階段の下へ戻った。
昼近くになって、二〇三号室のドアが開いた。
相馬は寝起きの顔のまま、片手にコンビニの袋を提げて階段を下りてきた。髪は寝癖で少し跳ね、Tシャツの襟はよれていた。犬は顔を上げたが、相馬は見ないふりをした。門の外まで行きかけて、ふと立ち止まり、一〇二号室の郵便受けを見た。
紙がまた一枚、風に押されて半分はみ出している。
相馬は少しだけ迷うように手を伸ばしかけ、やめた。自分には関係ない、という顔をして、結局そのまま外へ出ていった。
午後、大家の三浦が軽トラックでやってきた。
荷台には脚立と工具箱、それからホームセンターの袋が積んである。犬はエンジン音でそれとわかり、階段の下から出てきた。三浦は犬を見るなり、「おまえはほんとに番犬にもならんな」と言った。言いながら、欠けた洗面器の水を見て、無言で足してやる。
そのあと、共用廊下の切れかけた電球を替え、手すりのぐらつきを確かめ、最後に一階の郵便受けの前で足を止めた。
「またためてるのか」
一〇二号室の口からはみ出したチラシを指で押し込もうとして、うまく入らず、三浦は舌打ちした。犬はその横で座って見ていた。
「前からあんなもんだ」
誰に言うでもなく、三浦はそう言った。けれどその声には、少しだけ苛立ちとは別のものが混じっていた。気にしていないふりをして、気にしている声だった。
その日の夕方、真帆が帰ってきた。
まだ日が高く、夜勤明けではない日の帰宅にしては早かった。犬は階段の下から出て、真帆の足元まで行く。真帆は「ただいま」と言ってしゃがみこみ、犬の頭を撫でた。手のひらが少し冷たかった。
「ねえ」
犬に話しかけるようにして、真帆は一〇二号室のほうを見た。
「最近、見た?」
犬は答えない。けれど立ち上がって、そのまま一〇二号室の前まで歩いていった。真帆はそのあとを追う。ドアの前に立ち、耳を澄ます。何も聞こえない。
「片岡さん?」
返事はなかった。
真帆はもう一度呼んだ。やはり返事はない。けれど、いない部屋の静けさとは少し違う気がした。中に空気だけがたまっているような、息をひそめているような沈黙だった。
「……寝てるだけかな」
そうつぶやいたとき、二階の廊下の向こうから相馬が上がってきた。コンビニの袋を提げ、真帆と犬が一〇二号室の前にいるのを見て、足を止める。
「どうかしました?」
真帆は少し迷ってから言った。
「最近、片岡さん見かけなくて」
「前からじゃないですか」
「そうなんだけど」
相馬はドアを見た。郵便受けの紙は朝より増えていた。誰かが入れたのか、風で押し込まれたのか、よくわからない。犬はドアの前に座ったまま、動かない。
「……大家さん、まだいますかね」
「下に軽トラありました」
真帆はうなずき、階段のほうへ向かった。犬もついていく。相馬は少し遅れて、その場に残った。ドアの前に立ち、何か言おうとして、結局何も言わなかった。
三浦は一階の外水道のところにいた。ホースの先をいじっていた手を止め、真帆の話を聞くと、露骨に嫌そうな顔をした。
「大げさだな。あいつは前からそうだ」
「でも、郵便もたまってるし」
「たまることもあるだろ」
「犬も、ずっとあの部屋の前にいて」
その言い方に、三浦は犬を見た。犬は少し離れたところで立っている。三浦は眉をしかめた。
「犬が気にしてるからってな」
「でも、ちょっとだけ声かけてみませんか」
真帆の声は強くなかった。けれど引かなかった。三浦はしばらく黙り、それから「まったく」と言って階段を上がり始めた。犬が先に立って、一〇二号室の前まで行く。相馬はまだそこにいた。
三人と一匹が、狭い廊下に並ぶ形になった。
三浦はドアを拳で二度叩いた。
「片岡。いるのか」
返事はない。
もう一度、今度は少し強く叩く。
「片岡、大家だ。開けろ」
しばらくして、部屋の奥で何かが擦れるような音がした。真帆が顔を上げる。相馬も息を止めたように動かない。犬だけが、じっとドアを見ている。
鍵の音がした。
ほんのわずかにドアが開き、暗い隙間から顔がのぞいた。片岡だった。頬がこけ、髭が伸び、目の下が黒ずんでいる。部屋の中からは、こもった熱と湿気の匂いが流れ出た。
「……何ですか」
声はかすれていた。
三浦が一瞬言葉を失い、代わりに真帆が前へ出た。
「大丈夫ですか。最近、見かけなかったから」
「寝てただけです」
「具合、悪いんじゃ」
「別に」
そう言いながら、片岡の手はドアの縁を強く握っていた。指先が白くなっている。立っているだけでやっとなのが、真帆にはわかった。
「食べてますか」
「……」
「水分は?」
「……あります」
嘘だ、と真帆は思った。部屋の匂いでわかる。何日もまともに食べていない人の匂いだった。けれどここで踏み込みすぎれば、ドアは閉じる。真帆は少しだけ声をやわらげた。
「何かあったら、二〇一です。私、看護師なので」
「……大丈夫です」
「そうですか」
片岡はうなずいたが、その動きはひどく遅かった。三浦が咳払いをひとつする。
「郵便くらい取れ。あふれてる」
「すみません」
「あと、死ぬなら迷惑かけるな」
真帆が思わず三浦を見る。相馬も顔をしかめた。けれど片岡は怒るでもなく、ただ少しだけ目を伏せた。
「……すみません」
その言い方が、妙に静かだった。
犬が一歩、前へ出た。片岡は初めてその存在に気づいたように目を向ける。犬は吠えない。ただ、じっと見上げる。片岡もまた、しばらく何も言わずに見返した。
「……いたんだ」
それは犬に向けた言葉というより、自分の外側にまだ何かがあったことへの驚きのように聞こえた。
ドアはゆっくり閉まった。完全に閉まる直前、真帆が言う。
「あとで、飲めるもの置いておきます」
「いりません」
「置くだけ置きます」
返事はなかった。
夜、真帆はゼリー飲料とスポーツドリンクを一〇二号室の前に置いた。ノックはしなかった。犬がその横に座って見ている。
「食べるといいけどね」
真帆がそう言うと、犬はドアの下の隙間を嗅いだ。中の気配はまだ重い。けれど昼よりは、ほんの少しだけ動いたあとの匂いがした。
少し遅れて、相馬が階段を上がってきた。手にはコンビニの小さな袋がある。真帆と犬、それからドアの前の飲み物を見て、少しだけ気まずそうな顔をした。
「……これ、栄養あるらしいです」
袋から出したのは、カロリーメイトのゼリーと、バナナだった。真帆は一瞬驚き、それから小さく笑った。
「ありがとう」
「別に」
「優しいんですね」
「違います」
相馬はすぐにそう言ったが、声に力はなかった。真帆はそれ以上何も言わず、ドアの横にそれを並べた。
犬はその様子を見てから、ようやく階段の下へ戻っていった。
夜風はぬるく、どこか遠くで雨の匂いがしていた。若草荘の廊下には古い木と湿った壁の匂いが混じり、電球のまわりを小さな虫が回っていた。一〇二号室の前には、飲み物と食べ物が静かに置かれている。誰かがそれを取るかどうかは、まだわからない。
けれどその夜から、一〇二号室はもう、ただ閉じたままの部屋ではなくなっていた。
見えないまま、放っておかれるだけの部屋ではなくなっていた。
犬は階段の下で丸くなり、目を閉じた。眠っているように見えたが、耳だけは立っていた。若草荘のどこかで、何かが少しだけ動き始めたことを、犬は知っていた。




