序章 錆びた階段の下で
若草荘の外階段は、二階へ上がるためのものだったが、犬にとっては屋根だった。
鉄の踏み板はところどころ赤茶けて、雨のたびに錆の匂いを濃くした。晴れた日には乾いた鉄の匂いがし、湿った朝には土と苔の匂いが混じった。階段の下は大人が腰をかがめれば入れるほどの空間で、古いブロック塀に囲まれたその奥に、誰が置いたのかもわからない薄い毛布と、欠けた洗面器がひとつあった。犬はそこを寝床にしていた。
いつからいるのか、はっきり知っている者はいない。
気づけばいた、と住人たちは言った。去年の梅雨にはもう見かけた気がするという者もいれば、いや、その前の冬には階段の下で丸くなっていたと言う者もいた。若草荘に長く住む者ほど、そういうことには曖昧だった。古い建物には、いつのまにかそこにあるものが増えていく。壁の染みや、閉まらなくなった窓や、名前の消えかけた表札と同じように、その犬もまた、ある日から若草荘の風景の一部になっていた。
犬は雑種だった。立った耳の先だけが少し垂れ、背中は煤けた茶色で、腹のあたりは雨に濡れた砂のような色をしていた。大きすぎず、小さすぎず、痩せてもいないが、どこか骨ばって見える体つきだった。人に媚びることはなく、かといって露骨に警戒するでもない。近づけば少し身を引くが、追われても遠くへは行かず、しばらくするとまた階段の下へ戻ってくる。吠えることはめったになかった。けれど、何も見ていないような顔で、いつも何かを見ていた。
朝、いちばん先に若草荘を出るのは、二〇一号室の篠田真帆であることが多かった。白いスニーカーの底が、外廊下の古い床を軽く鳴らす。夜勤明けの日は足取りが重く、日勤の日は少し急いでいる。犬はその違いを知っていた。真帆は階段を下りるとき、たいてい一度だけ犬のほうを見る。余裕のある朝にはしゃがんで頭を撫で、急いでいる朝には「行ってくるね」と小さく言うだけで通り過ぎる。犬は撫でられても尾を大きく振ったりはせず、ただ目を細めるだけだった。
一〇三号室の野口美空は、学校へ行く前に必ず犬に話しかけた。いってきます、とか、今日は算数がある、とか、昨日見た夢の話とか、そういうことを、犬がわかるとも思わずに話した。ランドセルの横で揺れる給食袋の匂い、寝ぐせの残った髪、まだ幼い足音。犬は美空が来ると、少しだけ前足を伸ばして体を起こした。美空は犬に勝手にいくつも名前をつけた。クロでもなく、シロでもなく、きょうはサブロウ、明日はレイン、次の日にはサビ、と呼んだ。犬はどの名にも特に反応しなかったが、美空は気にしなかった。
一〇三号室には美空の母親、早苗も住んでいた。朝はいつも慌ただしく、娘の忘れ物を確かめ、自分の鞄を肩にかけ、鍵を閉めながらもう次のことを考えているような顔をしていた。犬に目を向けることはあっても、最初のころは近づかなかった。野良犬には触らないほうがいい、という慎重さもあったし、何より、何かひとつ余計なものに情を移してしまうことを避けているようにも見えた。それでも美空が犬の前にしゃがみこんでいると、「遅れるよ」と言いながら、声だけは少しやわらいだ。
二〇三号室の相馬は、出る日と出ない日の差が激しかった。スーツ姿で朝早く出ていく日もあれば、昼を過ぎてもカーテンが閉まったままの日もある。出ていく日は、整えた髪に安い整髪料の匂いがした。戻ってくる日は、コンビニの袋と、雨に濡れた紙の匂いがした。犬は相馬が階段を下りるとき、たいてい顔を上げるだけで、それ以上は何もしなかった。相馬もまた、犬を見て見ぬふりをすることが多かった。けれど、夜遅く、誰もいないと思っている時間にだけ、階段の下へ缶コーヒーの残り香を連れて立ち止まることがあった。
一〇二号室の片岡は、いちばん気配の薄い住人だった。
足音が少ない。ドアの開く音もしない。郵便受けにはチラシがたまりやすく、たまにまとめてなくなる。ゴミ袋は深夜に出されるのか、朝には置かれているのに、その姿を見た者はほとんどいない。犬は片岡の匂いを知っていた。洗っていない布団の匂い、古い煙草の残り香、長く閉め切った部屋の空気。けれど最近、その部屋の前には別の匂いが混じるようになっていた。湿った紙のような、冷えた汗のような、雨の前の壁に似た匂いだった。
大家の三浦恒一は、毎日来るわけではない。けれど来れば、若草荘のどこかしらに手を入れて帰った。外れかけた表札を押し込み、共用廊下の電球を替え、伸びすぎた雑草を鎌で払う。七十をとうに過ぎた体で、脚立を持ち上げるたびに「まったく」と独り言を言う。その「まったく」は、建物に向けているようでもあり、住人に向けているようでもあり、自分自身に向けているようでもあった。
「犬なんか住みつかせるもんじゃない」
三浦はそう言う。言いながら、欠けた洗面器の水が減っていれば足し、真夏には日陰へ少しずらし、冬には誰にも見られていないつもりで古いタオルを毛布の上に重ねたりする。犬は三浦が来ると立ち上がり、少し距離を取って見ている。三浦は犬を見ないふりをして、「噛むなよ」とだけ言う。犬は一度も噛んだことがない。
若草荘は古かった。二階建て、六部屋。外壁のクリーム色はところどころ灰色にくすみ、廊下の手すりには塗装の剥げた箇所がいくつもあった。雨どいは一度直したはずなのに、強い雨のたびにどこかで水をこぼした。二階の廊下は歩く場所によってわずかに音が違い、軽い足取りなら乾いた板のように鳴り、重い荷物を持っていれば、湿った箱を押すような鈍い音がした。住人たちは慣れていた。古い建物とはそういうものだと思っていたし、家賃の安さにはそれなりの理由があることも知っていた。
錆びているのは、階段だけではなかった。
時間が止まった部屋があった。忘れられた約束があった。ほどけた家族があった。口に出されない後悔があり、誰にも見せない孤独があった。若草荘に暮らす者たちは、それぞれに少しずつ、自分の錆びを抱えていた。目に見えるほど赤くはなくても、触れれば指先に残るような、静かな傷みだった。
犬は、そういう違いをひとつずつ覚えていた。
真帆の疲れた朝の足音。美空の跳ねるような帰宅。早苗が鍵を探すときの小さな舌打ち。相馬が不在の日の部屋の静けさ。片岡の部屋の前にだけ長く留まる、淀んだ空気。三浦が来る日の、軽トラックのエンジン音。洗濯洗剤の匂い、カレーの匂い、湿った新聞紙の匂い、風呂上がりの石鹸の匂い。犬はそれらを、名前ではなく、変化として知っていた。昨日と同じか、違うか。それだけを、毎日確かめるように生きていた。
夕方になると、若草荘にはそれぞれの帰る気配が集まってきた。遠くの道路を走る車の音が少しやわらぎ、近所の家の台所から油の匂いが流れてくるころ、犬は階段の下から顔を出した。誰かが帰ってくる時間だった。
最初に戻ったのは美空だった。友だちと別れる声が門の外でして、つぎに駆け足が近づく。犬は体を起こした。美空は「ただいま」と犬に言ってから、自分の部屋へ向かった。少し遅れて早苗が帰り、娘の声に返事をする。そのあと、しばらく間が空いた。二階の廊下には西日が斜めに差し、手すりの錆びた部分だけが妙に赤く見えた。
犬はふいに立ち上がった。
階段を上るでもなく、門のほうへ行くでもなく、一〇二号室の前まで歩いていく。ドアの前で止まり、鼻先を少し上げた。中は静かだった。静かすぎる、と犬は思ったわけではない。ただ、そこにある空気が、昨日までと違っていた。閉め切った部屋の匂いの奥に、重く湿ったものが沈んでいる。雨の前に土が息をひそめるときのような、壁の内側に水がたまるときのような、よくない沈黙だった。
犬はしばらくその場にいた。吠えはしない。前足で戸を掻くこともしない。ただ、耳を立て、動かずにいた。
やがて二階の外廊下に、真帆の足音がした。夜勤明けではない日の、少し急いだ足音だった。犬は振り向き、それからもう一度、一〇二号室のドアを見た。
真帆はその視線の先を追って、わずかに眉を寄せた。
「……どうしたの」
犬は答えない。
廊下の端で、ぽつり、と音がした。
雨ではなかった。まだ空は明るい。けれど二階の壁の、階段に近いあたりに、いつのまにか小さな染みが浮いていた。古い紙に水を落としたときのように、じわりと輪郭を広げる薄い色だった。
犬はその染みを見上げ、それからまた、一〇二号室の前へ視線を戻した。
若草荘の夕方は、いつもと同じように見えた。
けれど犬だけが、その日、いくつかのものが少しずつずれていることを知っていた。




