第五話『最強を越えるために』
暖かい。
最初に感じたのは、それだった。
身体を包み込むような柔らかな温もり、薬草の匂い、鼻をくすぐる木の香り。
遠くからは剣を素振りする音が聞こえる。
「…………ん」
ゆっくりと瞼を開ける。
見慣れた木造の天井が視界いっぱいに広がっていた。
俺の部屋だ。
どうやら丸一日寝ていたようで、外は明るかった。
……帰って、きたのか?
身体を起こし、急いで自分の両手を確認する。
親指、人差し指、中指、薬指、小指。全部ある。
一本ずつ動かす。
握り、開く。そしてまた握り、開く。
……ちゃんと動く。
頬を引っ張る。ちゃんと痛い。これは夢じゃない。
今度は腕を見る。
向こう側が見えるほどぽっかり穴が開いていたのに、傷一つないツルツルの肌だ。
足を見る。
踏み潰されたはずの指も、擦り傷も、何事もなかったようにそこにある。
「…………」
夢だったのか。
そう思いかけた瞬間だった。
爪と爪の間へゆっくり針が近づく感覚。
指が切り落とされる光景とその痛み。
足を踏み潰された音。
そして、痛みに耐えきれず溢れ出た俺の叫び声。
鮮明に思い出せてしまう自らの記憶が、夢ではないと教えてくれる。
「っ……!」
胃液が込み上げる。
思わずベッドから身を乗り出し、床へ吐きそうになる。
………何も出ない。
喉だけがひくつき、えずく音だけが部屋に響く。
「……はぁ……はぁ……」
呼吸が乱れる。
心臓は暴れるように脈打ち、全身から冷や汗が噴き出していた。
「レイン!」
勢いよく扉が開く。
飛び込んできたのはイヅナだった。
俺の姿を見るなり、大きな尻尾を揺らして飛びついてくる。
「レイン!レイン!」
「うわっ!」
そのまま胸に顔を埋める。
「よかったぁ……」
肩がガタガタ震えていた。
泣いているようで、イヅナの顔の辺りに湿気を感じる。
それともこもこの耳が首筋に当たって少しくすぐったい。
「ごめんね……」
か細く、今にも消えていきそうな、小さな声。
「ごめんね……」
あの時、逃げるしかできなかった自分を責めるように、何度も何度も繰り返す。
「私のせいで……」
「違う。」
俺は首を振った。
「イヅナのせいじゃない」
「でも……」
「俺が自分で判断したんだ」
あの時、俺はイヅナを助けたくて助けた。
他の誰でもない、誰にやらされたでもなく、俺が自分の意志で決めたのだ。
それに、俺自身。途中からイヅナはそっちのけに戦いを楽しんでしまっていた。
100%イヅナのためかと聞かれると、そうとはすぐには答えられない。
なのにこうも謝られると、こう、何とも言えないむず痒い気持ちになる。
「だから謝るな」
イヅナはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……うん。」
それでも涙は止まらない。
そこへもう一人。
「起きたのね。おはよう」
エレナだった。
俺を見るなり優しく笑う。
いつも通りの笑顔。
でも、目元だけ赤いことに気が付く。
多分、泣いていたのだろう。
「本当に……よかった。」
その一言だけだった。
それだけで十分だった。
俺は帰ってきた。そう実感した。
部屋に入るなりエレナは頭を撫でる。
俺はもう5年も子供をやっているベテランだが、未だに子供扱いされるのは少し気恥ずかしさを感じていた。
でも今だけは、この細長くきれいな手で撫でられるのが嬉しかった。
しばらくすると二人は部屋から出ていき、入れ替わるようにアルベルトも部屋に入ってきた。
「起きたか」
まるで、何事もなかったかのように話しかけてきた。
「……父さん」
「腹、減ってないか?」
「…………」
返事をするように、俺の腹の音が鳴った。
我慢できず俺は少し笑ってしまった。
「減ったみたい」
「そうか。後で持ってくるな」
それだけ言って部屋を出ようとする。
おそらく、アルベルト自身もなんて俺に声をかければいいのかわからないのだろう。
「待って」
呼び止める。
立ち止まるアルベルトに、一瞬口ごもってしまう。
「ん?」
「…………その、助けてくれて……ありがとう」
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
アルベルトの口元が緩んだ気がした。
「礼ならイヅナに言えよ。治したのはイヅナだ」
「でも、父さんが来てくれなかったら確実に俺は死んでた」
「…………」
「…………」
沈黙。
アルベルトは俺に背を向けたまま言った。
「守れなかった」
「え?」
「俺がもっと早ければ、お前は傷一つ負わなかっただろ」
その声には、後悔が滲んでいた。
ふと、窓ガラス越しに見えたのは初めて見るアルベルトの表情だった。
「……怖かったか?」
「大丈夫」
反射的にそう答えた。
「そうか」
アルベルトはそれ以上聞かなかった。
部屋を出ていくアルベルトの背中を見送る。
「…………」
大丈夫……大丈夫か………。そんなわけがない。
指はある。腕にも穴はない。それどころか、体中、擦り傷一つない。
なんなら攫われる前より綺麗にすら思えた。
でも。
あの感覚だけは消えない。
「っ……」
また身体が震え始める。
呼吸が乱れる。
怖い。もう二度と味わいたくない。
指が落ちる感覚も。
身体を貫かれる痛みも。
何もできず叫ぶしかない自分も。
全部。全部嫌だ。
思い出すだけで吐きそうになる。
俺は、何もできなかった。
ただ叫ぶことしかできず、もしアルベルトが来なかったら。
死んでいただろう。
「…………」
弱い。俺は弱いのだ。
今まで甘えていた。
……当たり前か。
才能がどうとか。そう決めつけて逃げてきたのだ。
この世界でもくだらない言い訳ばかり並べ、それに甘え、堕落し、努力をしない理由ばかり探すことに必死になっていた。
最低だ。
せっかく人生をやり直せたのに。また同じことを繰り返そうとしている。
今すぐにでも強くならなくちゃいけない。
わかってる。
わかってるはずなのに、身体は震えたまま俺の言うことを聞かなかった。
その夜、俺は眠れなかった。
布団を被っても眠れず、目を閉じればあの洞窟でのことが今でも鮮明に浮かび上がってきた。
ふと、窓の外を見ると、月明かりの中で一人、木剣を振る人影があった。
アルベルトだ。
静かに。
無駄なく。
一振り。
また一振りと。
風を切る音だけが響く。
まるで、何かを忘れようとするみたいに。
木剣は一度も止まることなく、
一振り。
また一振り。
嫌な記憶を振り払うように。
俺は外へ出た。
「父さん」
「起きてたか」
「…………」
言葉が出ない。
「俺――――――」
アルベルトをじっと見る。
言葉が出ない。
何を言えばいいのか分からない。
それでも、口から出たのは一つだけだった。
「………強くなりたい」
その言葉に、アルベルトは眉を動かした。
本当のことを言ってしまえば、もう二度と戦いたくない。
逃げられるものなら逃げたいし、努力なんて性に合わない。痛いのはもっと嫌だ。死ぬのはそれよりもっと嫌だ。
それでも。
ここで逃げれば、嫌なことから逃げてきた前世の俺と、何も変わらない。変われないような気がした。
「誰も守れなかった。イヅナも。自分も。なにもできないのは嫌なんだよ。だから」
アルベルトは何も言わず、素振りを黙々と続けている。
一度息を吸い、
「強くなりたい」
アルベルトはあきれたように笑った。
「……お前は強いな」
アルベルトは素振りをやめ、地面に立て掛けてあった木剣を一本投げ、それを慌てて受け取る。
「強くなるって、どんくらい強くなりたいんだ?」
急に目標を聞かれ、なにも考えていなかったもので、焦る。
どのくらいと言われても、どのくらい強くなればいいのだろうか。
「………将来的には」
「ほう、将来的には?」
アルベルトは口元を緩め、俺の言葉を繰り返す。
「父さんよりは強くなりたい」
「…………俺より?」
アルベルトは肩を震わせた。
「くくっ……ひひっ、くふははははは!そうか!そう来たか!」
どうやら予想外だったらしい。アルベルトは腹を抱え、楽しそうに笑っている。
「いひ、ひひ……いやすまん………馬鹿にしてるわけではないんだ………んひひひひ」
いや、笑われるのはいい。いいのだが、あまりにも笑い方が気持ち悪すぎる。
二十一(+六)年間で初めて聞いた笑い方だ。
「レインお前………俺を目標にするのはいいが………どれくらい強いか知ってるのか?」
気持ちの悪い笑いを我慢しながら俺に訪ねてくる。
よく考えればアルベルトがどれくらい強いのかは知らない。だが、その辺の盗賊くらいなら余裕で追い払えるくらいの強さなのは確かだ。
「えっと………」
「そうか、強さの基準を例えるのは難しいよな………冒険者ランクならどれくらいだと思う?」
冒険者ランクにはG~Sまで存在し、Sランク冒険者は7人しかいない。
つまりSランクというのは、国中でトップ10クラスの実力を持っていなければなれないものなのだ。
消去法で導き出される答えは………。
「多分、A………いや、B?」
「B!?俺が!?Bランク!?ぶふははははははははは!ひっ、ひひひひひ………」
「からかうなよ!それで?実際父さんはどれくらい強いんだよ」
ひとしきり笑った後、アルベルトは目尻の涙を拭いい、深呼吸する。
「ふう………………。俺は冒険者じゃないからランクはない。だが、あったとすればSだ。間違いなくな」
「…………」
「どれくらい強ええかって言うとな………この国、いや世界中だな。俺より強ええ奴はまずいねえ」
一瞬嘘だと疑ったが、アルベルトの目は本気だった。
なるほど。
笑われるわけだ。
最強。
この世界で、一番強い男。
そんな相手を超えると、俺は何の迷いもなく口にしていたらしい。
………最強、か。
「いいよ!やってやるよ!その剣聖様とやらの鼻っ柱、へし折ってやるから覚悟しとけ!」
「おお、こりゃ将来有望な剣士が生まれるな!」
不思議と、取り消す気にはなれなかった。
――俺は自分の意思で前に進むと決めた。
誰かに言われたでもなく、才能を証明したいからでもない。
ただ、逃げ続けて、何も守れなくなるのが嫌だった。
この日。
俺の第二の人生は、ようやく始まった。




