第十一話『成長?』
目を覚ました時、最初に感じたのは冷たさだった。
背中から伝わる石床の温度。
冷たく、硬い。
そしてそれは、最悪なことに現実だった。
「……寒」
掠れた声が静かな空間に消える。
ゆっくりと身体を起こす。
……身体が重い。
まるで何日も眠り続けた後みたいな、全身にまとわりつく疲労感。
腕を少し動かすだけでも、身体の奥から「もう少し休め」と訴えかけてくる。
……いや。
そもそも、俺はどれくらい寝ていたんだ?
数時間?
半日?
それとも。
考えて、すぐに諦めた。
ここには太陽がない。
時計もない。
時間を知らせるものなんて、何一つ存在しない。
外では当たり前だったものが、ここでは存在の意味を失っている。
時間というものが、あまりにも曖昧だった。
「……」
小さく息を吐く。
そして、確認する。
手。
足。
身体。
痛みはある。
疲労もある。
だけど――
「生きてる……」
その事実を確認して、小さく息を吐いた。
視線を横へ向ける。
そこにいたのは、巨大な蛇の死骸だった。
十メートルを超える巨体。
灰色の鱗。
少し前まで、俺を殺そうと咆哮を上げていた蛇の化け物。
今はただ、動かぬ肉塊としてそこに横たわっている。
「……」
改めてみると信じられなかった。
こいつを、俺が倒した?
こんな物語の中にしか存在しないような化け物を。
この俺が……?
「……はは」
少しだけ笑いが零れる。
馬鹿みたいだ。
本当に。
怖かった。
あの時は死ぬと思った。
水槍が飛んできた瞬間。
身体が吹き飛ばされた瞬間。
あの巨大な口の中へ飛び込んだ瞬間。
全部だ。
全部が怖かった。
今になって思えば、よくあんな無茶ができたものだと思う。自分でも理解ができない。
きっとあの時の俺は、どうかしていたのだろう。
いや、多分今もどうかしている。
「腹あ……減ったなあ………」
感動より先に出てくるものがそれなのだから。自分でも呆れてしまう。
だがこればかりは仕方ないだろう。
人間の三大欲求。
生きるために必要なことなのだから。
視線を蛇に向ける。
「……」
問題は。
こいつを食えるか、否か。
正直、ウルフの時点で俺はかなり限界だった。
思い出すだけで胃がひっくり返りそうになる。
だが目の前にあるのは、そのウルフより遥かに超えるサイズの蛇。
「………」
よせ。
考えるな。
選択肢なんてどっちにしろない。
「人生って……何が起こるかわからないもんだなあ………」
憧れの異世界。
そこは剣と魔法の世界。
未知なる冒険。
まさか最初の冒険で、自分の何十倍もの大きさのある蛇を殺して、その肉を食らうことになるなんて。
誰が想像しただろうか。
短剣を握り、解体を始める。
「硬……」
ウルフとは比べ物にならない。
表面の鱗は一枚一枚がまさに鎧のようで、刃を入れる場所を探すだけで一苦労だった。
ようやく隙間を見つけ、刃を刺し込む。
ぐっと力を入れると、肉に届き、青黒い血が流れ出る。
それだけでも食欲を削ぐというのに、まるで追い討ちをかけるように鉄臭い匂いが鼻を突く。
「うっ……」
思わず顔を背ける。
これを。
食べるのか……。
脳が全力でそれを拒絶している。
それを無視し、肉を切り取った。
ウルフの時と同じように、マナ操作で熱を作る。
慣れたもので、最初の時に比べれば随分とスムーズに変質系のマナ操作ができるようになった。
肉が焼ける音。
普通なら食欲をそそるはずなのに、何故か今は吐き気しか湧いてこない。
漂う匂いは悪くない。
むしろ、美味しそうな匂いすらする。
だから余計に気持ち悪かった。
「……いただきます」
一口。
覚悟を決め、口へ入れる。
「………」
硬い。
ウルフとは違い、筋が強い。
噛み切るだけで顎が疲れそうだった。
だがそれ以上に。
味が濃い。
隠しきれない獣臭さ。
血の味がする。
焼いたはずなのに、生き物だった頃の名残が口の中に残っているようだった。
生存の姿を思い出してしまう。
「うっ……」
吐きそうになる。
胃が全力で拒絶している。
喉が通すなと叫んでいる。
湖の水をすくい、肉を流し込むように飲み込む。
「………」
二口目。
三口目。
思わず涙が出る。
辛いから?
不味いから?
それとも―――自分がもう、普通の生活に戻れない気がしたからなのか。
空腹というものは、人の心を簡単に壊す。
涙の理由は、自分でもわからなかった。
ただ今は食べるしかなかった。
生きるために。
気づけば、目の前にあった切り分けた肉は、全て俺の腹の中へと消えていた。
「……」
動けそうにない。
満腹感があるわけではなかった。
美味しかったなとも、到底言えない。
ただ、生きるために必要なものを身体の中に無理やり捩じ込んだ。
それだけだった。
しばらくその場で動けずにいたが、やがてゆっくりと立ち上がる。
まだ身体は重い。
疲労も残っている。
それでも、動けないほどではなかった。
「……行くか」
視線を上げる。
蛇が守っていた階段。
それを降りた先の第三層。
いや、このダンジョンのさらに奥。
帰るためには、もっと先へ進まなければならない。
短剣を強く握り直す。
そして、ゆっくりと階段を降りる。
一段。
また一段。
蛇との戦闘で消耗しきった身体には、ただそれだけの動作ですら重かった。
足を踏み外せば、そのまま転げ落ちそうになるほど、身体は疲労で悲鳴を上げている。
それでも止まるわけにはいかなかった。
このダンジョンには、安全な場所なんて存在しない。
さっきの湖もそうだ。
俺にとっては水を飲める貴重な場所だった。
だが、あの蛇にとっては違う。
ただ獲物を待ち構えるための狩場だったのだ。
「……」
そんなことを考えながら、階段を降り続ける。
どれくらい時間がたったのかはわからない。
数分。
いや、数十分か。
もしかしたら、それ以上の時間が過ぎていたのかもしれない。
だが、確認する術はない。
やがて。
足が最後の一段を踏んだ。
さっきのが第二層なら。
ここが第三層……なのだろう。
少なくとも、俺の中ではそう呼ぶしかない。
ここが本当に三層なのか。
それすらも確認する方法はないのだから。
目の前に広がる光景は、今までと変わらなかった。
石造りの壁。
無機質な床。
一定の感覚の灯る淡い光。
部屋の広さも。
材質も。
雰囲気も。
何一つ変化していない。
「……」
正直、少しだけ期待していた。
あんな蛇の化け物を倒して降りた先。
その先の階層なら、なにかしら変化があるのではないかと。
だが。
現実はそこまで都合よくできていなかった。
「まあ、そうか………」
誰に言うでもなく呟く。
ここはダンジョンだ。ゲームじゃない。
階段を移動したからと言って、突然景色が変わったり、なにか特別なイベントが発生するわけではない。
ただ一つ確信わかるものがある。
ここにも魔物がいる。
そう思った瞬間。
「………?」
何かが聞こえた。
小さな音。
石を擦るような音。
……違う。
これは足音だ。
反射的に短剣へ手を伸ばす。
身体はまだ疲れている。
だが、不思議と焦りはなかった。
以前ならこの僅かな音で、心臓が跳ね上がっていたはずだ。
何がいるのか。
いつ襲われるのか。
そんな恐怖に支配されていた。
だが―――
よく考えてみれば。
俺はあの数十メートルの蛇を、単騎で討伐したのだ。
あれを経験した後では、未知への恐怖心がほんの少しだけ薄れていた。
「………来る」
暗闇の奥にゆっくりと影が現れる。
四足歩行。
低い姿勢。
鋭い牙。
「ああ……」
見た瞬間にわかってしまった。
ウルフだ。
ただし、二層で戦ったウルフとは違う。
一回り。
いや、二回りほど大きい。
黒い毛並み。
赤い瞳。
そして、口元から覗く牙は、以前見たものよりも明らかに鋭かった。
前までの俺なら、ここで恐怖に震えていたと思う。
いつ襲ってくるのか。
どう攻撃を躱すか。
そんなことばかり考えていた。
今は違った。
隙だらけにも見えたウルフへ、俺は音もなく近づく。
そして―――
短剣を、その背中へ深く突き刺す。
反撃される可能性は当然あった。だがそれでも構わないと思っていた。
俺の攻撃はあまりにもあっさりと通った。
ウルフは苦しむ間もなく。
『クゥン………』
小さく鳴き声を漏らし、その場に崩れ落ちた。
あまりにもあっけなく終わってしまった。
確認するように、自分の手を開いては閉じる。また開いて、今度は強く握り込む。
「…………」
強くなった………ということなのだろう。
もちろん、一層や二層での戦いでも成長を感じなかったわけではない。
最初は苦戦した二層のウルフも、途中からは流れ作業のように倒せるようになっていた。
けれど、それは自分自身が強くなったと言うより、その魔物との戦いに慣れた体と思っていた。
「………あ」
ふと、思い出す。
今まで存在を忘れていた存在。
スキルウィンドウを開く。
そこに表示されているのは『成長』
それ以外に新しいスキルが増えているわけではない。
だが、なんとなく気になった。
『成長』の文字を押してみる。
表示されたのはいくつもの項目。
剣術。
短剣術。
散髪。
マナ操作。
どれも、今までの経験によって積み重なったものなのだろう。
数が多すぎて、全て確認するだけでも途方もない時間がかかりそうだった。
その中で。
レベルが高いはずの剣術の上に、以前は存在しなかった項目がいくつか増えていることに気づいた。
戦闘。
体術。
ここまでは理解できる。
ダンジョンに入ってから、俺はずっと戦い続けてきた。
武器だけじゃない。
素手を使うことだってかなり多かった。
壁なんかを蹴って無理やり身体を動かしたこともあった。
なら、体術が上がるのもごく自然だろう。
だが。
さらにその上。
『マナ』
「……?」
思わず眉を寄せる。
『マナ操作』ではない。
ただの『マナ』。
正直意味がわからない。
マナを扱う技術ではなく、マナそのもののレベルが上がる。
そんなこと、考えもしてなかった。
そして、さらにその上。
『魔力』
「…………」
知らない。なんだこれは。
いや、正確には言葉だけ聞いたことはある。
だがそれはゲームは漫画の話で、この世界のことじゃない。
そもそも俺としては、この世界にとっての魔力がマナという解釈だったのだ。
これがどんなものということさえ、俺には見当もつかなかった。
マナと魔力。これらになんの違いがあるのか。
そもそも、なぜこんなものが自分に存在しているのか。
考え始めれば、疑問はいくらでも湧いてきた。
「………やめだ。やめ」
考えるのはやめた。
今考えたところでなにもわからないし、わかったところで俺が目指す先は変わらない。
ここから出る。
それだけのことだ。
「………」
短剣を握り、軽く振る。
そして、もう一度振る。
「………軽い」
戦闘中は気づかなかった。
けれど改めて意識してみると、まるで玩具を振っているようだった。
もちろん、この短剣が軽くなったわけじゃない。
「………なんだよ。本当に」
強くなった。
それは間違いなかった。
でも、自分の成長を素直に喜ぶことができずにいた。
いつまでを昨日と呼ぶのかわからないが、昨日までの俺なら、喉から手が出るほど欲しかった力。
いざ手に入れると、どこか現実感がなかった。
まるで、自分が自分ではない何科に変わっていくような。
得体の知れないもので強くなるというのは、そんな違和感を残してきた。
だが考えても仕方ない。
短剣を腰に戻す。
そして俺は、三層の奥へ向かって歩き始めた。




