第二十八話 お空と海
ざあああああっ。
雨音はまだ聞こえる。
でも。
「……あれ?」
ユウトは、ふと気づく。
目の前の雨粒が、ゆっくりと時間を巻き戻すように空に吸い上げられている。
さっきまで、顔へ叩きつけるみたいだった雨が変わっていた。
雨粒が、地面へ落ちない。
ぽちゃん。
「ん?」
ぽちゃん。ぽちゃん。
「あれぇ?」
ユウトは、目をぱちぱちさせた。
さっきまで地面へ落ちていた雨粒が、水たまりから――ふわりと浮かび上がる。
「おかーさん!みてみて!」
ユウトが指をさす。
すると。
ぽわっ。
水たまりの水が、ゆっくり空へ浮かび始めた。
「わぁぁっ!?」
「始まったわね」
お母さんは、驚く様子もなく微笑む。
◇
ごぽ……。
ごぽぽ……。
音が変わっていた。
さっきまでの激しい雨音じゃない。
まるで、水の中にいるみたいな音。
「なんか変な音する……」
「ふふっ、空を見てごらん」
「おそら?」
ユウトは、空を見上げた。
「――わぁ」
言葉が、止まる。
空が。
大きな水たまりになっていた。
「空の海っていうのよ」
「そらのうみ?」
「うん、空にある大きな水たまりの事を海って言うんだって」
◇
空いっぱいに、水が広がっている。
透明で。青くて。ゆらゆら揺れている。
波みたいに、光が揺れる。
「おぉぉ」
ユウトは、ぽかんっと口を開けた。
雲じゃない。
本当に、水だった。
空の上に、巨大な水たまり、空の海がある。
その中を、光がゆっくり流れている。
時々。
大きな影が、ゆらりと動く。
「さかなさん!?」
「どうかしらねぇ」
お母さんは、くすっと笑う。
本当に魚なのか。それとも、ただの影なのか。ユウトには、よく分からなかった。
でも。
空の海を、何かが泳いでいた。
◇
「わふっ!?」
わんわんが、急に空へ向かって鳴いた。
ぽちゃん。
その鼻先から落ちた水滴が、上へ飛んでいく。
「うわぁぁ」
ユウトは、大興奮だった。
「水が空に落ちてる!!」
ぽちゃん。ぽちゃん。
地面の水。屋根の水。葉っぱについた雫。
全部。
空へ落ちていく。
「すごいすごい!!」
ユウトは、両手をぶんぶん振る。
すると。
ぱしゃっ。
服についた水まで、ふわっと空へ飛んでいった。
「お水が浮いてる!」
「雨竜が通りすぎた今だけ世界は変わるの。逆になるのよ」
「ぎゃくー?」
「そう。雨が地面ではなくお空に向かって降るのよ」
「おぉー」
よく分からない。でも、とくかくすごい事だけは分かった。
◇
その時。
「あっ、ユウトー!」
「リサー!」
ばしゃばしゃ水を跳ねながら、リサが走ってきた。
髪も服も、びしょ濡れだ。
「空みた!?すごいよ!!」
「うん!水たまりになってる!!」
「ねーっ!!空の海っていうのよ」
「うん!」
リサも、きらきらした目で空を見上げる。
その後ろから。
「うおぉぉぉぉ!!」
どばしゃぁぁっ!!
「ぎゃははははっ!!」
ガンツたち三人組が、あちこちに浮いてる水へ突撃していた。
「おい見ろ!水が空に飛んでくぞ!!」
「ほんとだぁ!!」
「すげぇぇぇ!!」
ばしゃっ!ばしゃっ!
三人とも、びしょ濡れだ。
「こらー!転ぶわよー!」
遠くで、お母さんたちが叫んでいる。
「へーきへーきー!!」
でも、全然止まらない。
「楽しそうだね」
ユウトがぽかんと言う。
「ふふっ、ガンツたちらしいね」
リサが笑った。
◇
村の人たちも、みんな空を見上げていた。
「始まったなぁ」
「相変わらずすげぇな」
「洗濯物しまっといて正解だったわ」
みんな、なんだか楽しそうだ。
子供たちは、空へ飛んでいく水を追いかけている。
「まてまてー!」
「うわっ、消えた!」
大人たちは、大きな桶を並べていた。
上へ流れていく水を、何かに使うらしい。
「おかーさん、みんな普通だね」
「ふふっ、毎回のことだからね」
「でもすごいよ!空が海だよ!?」
「そうねぇ」
お母さんも、空を見上げる。
青い水の光が、お母さんの目に映っていた。
◇
ごぽ……。
ごぽぽ……。
世界が、水の中みたいだった。
風も、少し違う。
ひんやりしていて。しっとりしている。
空の海が、ゆっくり揺れるたび。
きらきらした光が、村へ落ちてくる。
「きれー」
ユウトは、うっとりしていた。
その時。
ゆらり。
空の海の奥で、巨大な影が動いた。
「あっ!!」
ユウトとリサが、同時に声を上げる。
「りゅうさんかなー?」
りゅうのようにも見えるし、お魚さんにも見える。
空の海の向こうを、ゆっくり泳いでいる。
その姿は、まるで空そのものが生きてるみたいだった。
「すごぉい」
ユウトは、瞬きも忘れて見つめる。
魚影が動くたび。空の海に、大きな波が広がっていく。
「ほんとに空泳いでる」
リサも、ぽかんとしていた。
◇
そんな不思議な時間は、しばらく続いた。
村の人たちは、ゆっくり過ごしている。
お茶を飲む人。空を見る人。子供たちと笑う人。
世界がおかしくなっているのに。
でも。
誰も慌てていなかった。
「なんか、へんな感じ」
ユウトが言う。
「へんなのに、たのしい」
「へんだから、たのしい!」
リサも、大きくうなずいた。
◇
そして。
ぽたっ。
「……?」
ユウトが、空を見る。
ぽたっ。ぽたっ。
空の海から、また地面に向かって少しずつ雨が降る。
「あっ」
「そろそろ終わるわね」
お母さんが言った。
空の海が、ゆらゆら揺れる。
大きく。大きく。
まるで、限界みたいに。
「わふぅ」
わんわんも、悲しそうに感じる。
その時。
どばあああぁぁぁぁぁんっ!!
ざあああぁぁぁぁぁぁ!!
◇
「わぁっ!?」
空全体が落ちてきたと錯覚するほどの雨が降り注ぐ。
そして。
どばぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!!
「うわぁぁぁぁぁ!!」
絶対やばい!と思った瞬間。
村を包んでいたシャボン玉のような光の膜に当たる。
しゅわしゅわしゅわー。
しゅわしゅわしゅわー。
雨が光の膜へ触れた瞬間、しゅわぁぁぁっと、青白い泡が空いっぱいに広がる。
しゅわしゅわの空が出来上がり、今度は青白い泡が、雪みたいに空から降ってくる。
「きれい」
リサが、ぽつりと言った。
きらきら。
ふわふわ。
少しの間、泡の雪がふわふわと空から降り続ける。
でも、しゅわ。しゅわ。泡は少しずつ雨にかわり、今度は雨が大地に降り注ごうとする。
しかし、全てを押し流してしまいそうな空からの水の勢いは、ふわりと弱めた。
まるで。
光が、村を守っているみたいだった。
それでも、村じゅうにバケツをひっくり返したような水が降り注いだ。
どばぁぁぁんっ!!
ざばぁぁぁっ!!
「きたぁぁぁぁ!!」
「ぎゃははははっ!!」
ガンツたち三人組は、なぜか大喜びだった。
ざっぱぁぁんっ!!
「うわっ、ポルンが流された!!」
「まてぇぇー!!」
ガンツとミックはポルンを助けようと追いかけて、水へ突っ込んでいく。
「おーい、大丈夫かー?助けはいるかー?」
どこかから大人たちの声が聞こえる。
でも。
なんだか楽しそうだった。
「きゃははははっ!!」
ユウトは、大笑いする。
「すごいすごい!!」
「わふっ!」
わんわんは、流されそうになって足をばたばたしている。
「あっ、わんわん!」
ぎゅっ。
ユウトは、慌てて抱きついた。
「だいじょーぶ!?」
「わふっ!」
ばしゃばしゃになりながら、わんわんもしっぽを振る。
リサも、びしょ濡れで笑っていた。
「ユウトー!すごいねこれー!」
「うんっ!!」
村の人たちも、大笑いしていた。
「今回もすごかったなぁ!」
「水が冷たーい!」
「はははっ!」
どしゃ降りなのに。みんな、なんだか楽しそうだった。
◇
やがて。
雨は、すぅっと弱くなっていった。
ぽつぽつ。
そして。
雲間から光が差し込む。神々しい。
「わぁ」
ユウトは、空を見る。
徐々に青空が広がる。
さっきまで海だった空が、嘘みたいに澄んでいる。
森も。草原も。家も。
全部、きらきら光っていた。
葉っぱには、大きな水滴。
草は、つやつやしている。
夏の匂いがした。
「終わったねぇ」
「そうね。無事終わったわ」
お母さんが微笑む。
「帰ったら、もう寝る時間ね」
「うん!」
空の海は消えたのに、ユウトの胸はまだどきどきしていた。




