第7話 覇王の剣と青き鳥籠、銀狼の丁寧な蹂躙と黒騎士の鎖
夜空に、巨大な満月が冷たい光を放っていた。
ディオルグラードの国境を護る巨大な岩山の砦。
その外に広がる荒涼とした大地を埋め尽くしていたのは、ル・サフィールの狂王が放った、感情も疲労も持たない無機質な機械兵の軍勢であった。
月光を浴びた獣人たちは、その体躯を限界まで膨張させ、鋭い爪と牙を剥き出しにして咆哮を上げる。
通常であれば月の魔力によって「理性」が吹き飛び、敵味方の区別なく殺戮を繰り広げる暴走状態に陥るはずの瞬間。
しかし、彼らの瞳には、確かな知性の光が宿り続けていた。
「……信じられん。血は煮えたぎっているのに、俺の頭の中はあの温かいチーズと肉の香りで満たされている」
「ああ。あの優しい香草の香りが、俺たちの『心』を確かに繋ぎ止めてくれている」
アリシアの作った香草とエルデニアチーズの極厚ステーキ。
暴力的なまでに強烈な肉の旨味と、それを包み込むチーズのまろやかさ、そして理性を呼び覚ます清涼な香草の記憶が、獣人たちの荒ぶる魂を現世に繋ぎ止める「最強の錨」として機能していたのである。
完全な理性を保ったまま、身体能力だけが数倍に跳ね上がった銀狼の軍団。
その絶対的な戦列の最前線に、一人の巨躯の獣人が静かに進み出た。
「……さて。ル・サフィールの皆様」
灰狼の覇王、ガルドルフである。
彼は身の丈ほどもある巨大な大剣を片手で軽々と持ち上げ、押し寄せる無数の機械兵たちに向かって信じられないほど深く、そして丁寧なお辞儀をした。
「遠路はるばる我が国へお越しいただいたところ、誠に申し訳ありません。ですが、これ以上土足で我が庭を荒らされるのは、少々困るのです」
その極めて腰の低い、穏やかな口調。
しかし次の瞬間、彼から放たれた「覇気」が周囲の大気を物理的に歪ませた。
ガルドルフが巨大な大剣を薙ぎ払う。
ただの一振り。
それだけで、凄まじい風圧と剣圧が荒野を駆け抜け、強固な鋼鉄の装甲を持つ機械兵の最前列数十体がまるで脆い枯れ枝のように一瞬にして両断され、粉砕された。
「……お引き取り願おう。皆様の鉄屑は、私が責任を持って『お掃除』させていただきますので」
言葉は限りなく丁寧でありながら、その一撃はまさに鬼神。
敵の魔導兵が後方から強力な炎の魔法を放ってくるが、ガルドルフはそれを空いた左手で無造作に弾き飛ばし、「おや、火の粉が飛んで危ないですよ」と微笑みながら、さらに数十体の敵を鉄屑へと変えていく。
「見事な闘気だ! 我が斧も負けてはおられんぞ!」
深緑の鱗を持つ巨躯のリザードマン、ゾアが豪快に笑いながら敵陣へ斬り込み、大斧で無数の機械兵を叩き割る。
その後方からは、テリオンの放つ漆黒の矢が風を切る音すら立てずに敵の急所を正確に貫いていく。
「我が妻の料理がもたらした奇跡、存分に活かさせてもらうぞ」
城壁の上では、アストライアの若き王ルイがエメラルドの瞳を鋭く光らせていた。
彼が指先を振るうだけで、見えざる重圧の魔法が敵陣の奥深くに降り注ぎ、大地ごと機械兵を押し潰していく。
理性を保った獣人の圧倒的な個の暴力と、特使チームの完璧な連携。
ル・サフィールが誇る無敵の夜襲部隊は、恐るべき覇王の極めて丁寧な蹂躙により夜が明ける前に完全に沈黙することとなった。
◇
「……少々、はしゃぎすぎてしまいました。お見苦しいところをお見せして申し訳ありません」
夜明けの荒野。
機械の残骸の山の上に立つガルドルフは、大剣を背中に収めると、大きな灰色の耳を伏せて恥ずかしそうに頭を掻いた。
先ほどまでの鬼神のごとき圧倒的な武力はどこへやら、彼は再び信じられないほど腰の低い穏やかな王へと戻っていた。
「とんでもございません。ガルドルフ陛下のあの力強い太刀筋、見事という他ありませんわ」
「アストライアの王妃陛下。貴女の料理がなければ我らは国を守れても、心を失っていました。ディオルグラードを代表し、深く、深く御礼申し上げます」
ガルドルフが巨体を折り曲げて深く頭を下げると、周囲の獣人の将軍たちも一斉にアリシアへ向けて跪いた。
東の連邦に続き、西の獣人国家。
エルカイレムの特使チームは、着実にオルメルハ大陸の抵抗勢力との強固な絆を紡ぎ出していた。
◇
同刻。
オルメルハ大陸の中心にそびえ立つ、ル・サフィール王国の王宮、「パレ・ド・サフィール」。
どこまでも冷たく青い光に満ちた玉座の間で、小柄で華奢な女王フィオレッタは退屈そうに長い脚を組み、自身の指先を見つめていた。
「……そう。満月の夜だというのに、あの獣たちは理性を保ったまま連携し、私の可愛いおもちゃたちを壊してしまったのねぇ」
夜襲部隊の全滅という報告を受けたというのに、白群の長いウェービーヘアを揺らす女王の乳蜜色の瞳には、怒りも焦りも全く浮かんでいない。
むしろ、彼女は新しい遊びを見つけた子供のように、コロコロと無邪気な声で笑った。
「なるほどねぇ。エルカイレムの『あの子たち』が、お節介を焼きに来たのね。アストライアの若き王様と、生意気な銀髪の料理人。ふふっ、本当に目障りで、最高に愛らしいわ」
世界を自身の盤上の駒としか思っていない狂気の女王。
彼女の傍らには、音もなく静かに控える一人の剣士の姿があった。
夜に溶けるような灰黒の髪。
右目を覆う黒い眼帯。
眼帯から覗くもう片方の瞳は、ルイのエメラルドと対極を成すような、深く血塗られた深紅のルビーの色をしている。
彼がそこに立っているだけで、王宮の青い光が不自然に吸い込まれ、周囲の空間だけが絶対的な「闇」に沈んでいるような異様な威圧感を放っていた。
光が強ければ強いほど、その闇は濃くなる。
生まれつき右目に「闇夜の紋章」を宿した黒騎士――クロウである。
「ねえ、私の黒騎士様」
フィオレッタが甘ったるい声で呼びかけ、玉座から立ち上がってクロウの広い胸板にすり寄った。
彼女の細い指先が、クロウの首筋を艶かしく撫で上げる。
クロウは一切の感情を顔に出さず、深紅の瞳を伏せたまま彫像のように立ち尽くしていた。
「そろそろ、エルゼちゃんの『お薬』の時間が近づいているわね」
その言葉が出た瞬間、クロウの右手の指先が微かに、だが確かに痙攣した。
不治の病である結晶化症候群に侵された、彼のたった一人の愛する妹。
彼女の命を繋ぎ止めることができる伝説の秘薬は、この狂った女王の手の中にしかない。
クロウは妹を生かすためだけに、恩人であった前国王夫妻を手にかけるという消えない大罪を背負い、この女の「飼い犬」として生きる道を選んだのだ。
フィオレッタは自身の豊かな胸元から、琥珀色に輝く小さな薬瓶を取り出し、クロウの目の前でわざとらしく揺らしてみせた。
「良い子で私のために牙を剥いてくれるなら、このお薬を分けてあげる。貴方の妹があの冷たい地下室で綺麗なまま息をしていられるのは、私が慈悲を与えているからなのよ。わかっているわね?」
「……御意。すべては、女王陛下の御心のままに」
クロウは低く、感情の一切を殺した声で答えた。
絶対的な鎖。
彼がどれほどの強大な力を持っていようとも、妹の命を握られている限り、この鳥籠から抜け出すことはできない。
「うふふ。本当に従順で、いい子」
フィオレッタは満足そうに微笑み、クロウの唇に軽い口づけを落とした。
クロウは腰に提げた一本の長剣に手をかけた。
彼が動こうとした瞬間、眼帯の下に隠された闇の紋章が共鳴し、空間が凍りつくような圧倒的な絶望感が周囲を支配する。
もし彼がこのままディオルグラードへ向かえば、特使チームとて無事では済まない。
それほどまでに、彼の放つ剣気は底知れず、異常であった。
「……私が赴き、すべてを『消去』してまいりましょうか」
クロウの抑揚のない問いかけに、フィオレッタは楽しそうに首を振った。
「だーめ。貴方は私の『最高のおもちゃ』だもの。あんなネズミたちのために、いきなり一番良い駒を切るなんてつまらないわ。もう少し、彼らには私の庭で足掻いてもらいましょう」
フィオレッタは冷徹な野心を孕んだ瞳で、遠い西の空を見据えた。
「まずは第三軍団の精鋭、殺戮人形部隊を向かわせなさい。貴方はまだ、ここで私を温めていればいいのよ、クロウ」
「……承知いたしました」
クロウが深く頭を下げる。
今はまだ、絶対的な脅威は放たれない。
しかし、彼が剣を抜くその日が来れば、エルカイレムの特使たちはかつてないほどの死の淵に立たされることになるだろう。
青き鳥籠の中で静かに蠢く黒騎士の闇が、遠く離れた銀狼の国へと不吉な影を落とし始めていた。




