第6話 灰狼の覇王と満月の夜襲、理性を繋ぐ極上肉と銀狼の真価
巨大な岩山を精緻に削り出して作られたディオルグラードの王城。
その最奥に位置する玉座の間へ足を踏み入れた瞬間、特使チームの面々は空間そのものが重く歪むような錯覚に陥った。
「…………っ」
案内役であるミゲル第一王子が、思わず息を呑んで足を止める。
玉座に座していたのは、灰色の豊かな毛並みと、途方もなく分厚い胸板を持つ巨大な狼の獣人であった。
彼から放たれる「覇気」は、ただそこに座っているだけで周囲の空気を薄くさせ、凡人であれば立っていることすら困難になるほどの絶対的な強者の威圧感に満ちていた。
彼こそが、弱肉強食の獣人国家を束ねる頂点――灰狼の覇王、ガルドルフ国王である。
エルデニアの優秀な王太子であるはずのミゲルでさえ、本能的な恐怖に当てられて冷や汗を流している。
一方で、護衛であるテリオンは一切の表情を変えずに周囲の警戒を続け、ゾアは「ほう、これは見事な闘気だ」と喉を鳴らしていた。
アストライアの若き王ルイもまた、エメラルドの瞳に王としての静かな威厳を宿し、一切の気後れを見せることなく玉座の前に進み出た。
「エルカイレム大陸より参った。アストライア国王、ルイだ。我らはル・サフィールに対抗すべく――」
ルイが口を開きかけた、まさにその時だった。
玉座に座っていた巨躯の覇王が、ゆっくりと立ち上がった。
その巨体が動くだけで、ミゲルがビクッと肩を跳ね上がらせる。
怒らせれば間違いなく一瞬で命を刈り取られる。
誰もがそう直感するほどの恐ろしい風貌の覇王は、そのまま特使たちの前まで歩み寄り――。
「遠路はるばる、よくぞお越しくださいました。エルカイレムからの特使の皆様」
信じられないほど深く、そして丁寧なお辞儀をしたのである。
「えっ……?」
「私の生まれ持った覇気が強すぎるせいで、皆様を無用に威圧してしまっていること、深くお詫び申し上げます。どうにも昔から不器用でして、気を抜くとすぐに威圧感が漏れてしまうのです。どうか、楽になさってください」
見た目の恐ろしさとは裏腹なあまりにも腰が低く、理知的で穏やかな声。
ミゲルは完全に毒気を抜かれ、ポカンと口を開けて固まってしまった。
ルイも一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにふっと口元を緩め、柔らかな笑みを返した。
「……なるほど。見かけによらず、随分と温厚な方だ。アストライア国王として、貴殿の丁寧な歓迎に心から感謝する」
「とんでもございません。ルイ国王陛下、そして銀髪の美しき王妃陛下におかれましても、我が国のようなむさ苦しい場所へお越しいただき、恐縮の極みです」
覇王ガルドルフは申し訳なさそうに耳を伏せ、大きな手で頭を掻いた。
圧倒的な「力」を持ちながらも、それに溺れることなく他者を敬う思慮深さ。
彼がただの暴君ではなく、真に国を束ねる名君であることを、アリシアたちはその態度から深く理解した。
◇
和やかな挨拶も早々に、ガルドルフは奥の円卓へと一行を案内し、現在の深刻な戦況について語り始めた。
「ル・サフィールの狂王フィオレッタは、疲労を知らない機械兵と魔導兵を大量に投入してきています。我が国は個々の獣人の『力』でそれをねじ伏せていますが……実は、今夜が非常にまずいのです」
ガルドルフが、重々しい溜息と共に窓の外を見上げた。
まだ日は高いが、空にはうっすらと白い月が浮かんでいる。
「今夜は『満月』です。満月の夜、我ら獣人は月の魔力によって身体能力が通常の数倍に跳ね上がり、傷の再生力も劇的に向上します。しかし、それと引き換えに『理性』が薄れ、完全に本能に支配された暴走状態に陥ってしまうのです」
「理性を失う……それは、敵味方の区別もつかなくなるということか?」
ルイの問いに、ガルドルフが苦渋に満ちた顔で頷いた。
ル・サフィールはその獣人の弱点を完全に熟知しており、今夜、獣人たちが暴走して自滅し合うのを狙って大規模な夜襲をかけてくるという情報が入っていた。
「かといって、城壁の中に引きこもっていれば、強力な魔導兵器によって国境の砦ごと吹き飛ばされるでしょう。今夜は、非常に厳しい戦いになります」
自国の兵士たちが理性を失い、傷つけ合うかもしれない。
ガルドルフの穏やかな瞳に、王としての深い悲哀が浮かんだ。
その重苦しい空気を打ち破ったのは、純白のドレスを揺らして立ち上がったアリシアだった。
「ガルドルフ陛下。暴走してしまうのは、月の力によって『本能』に魂が引っ張られてしまうからですよね?」
「ええ、その通りですが……」
「ならば、皆様の『理性』と『心』を、身体の側に強く結びつけておくための『錨』をご用意いたしましょう。圧倒的に美味しく、そして心が安らぐ味の記憶が胃の腑にあれば、絶対に理性を失ったりしませんわ!」
アリシアは右手に握りしめたフライパンを掲げ、自信に満ちた笑みを浮かべた。
ただ本能のままに血の滴る肉を喰らうだけの獣人たちに、料理の本当の力を教える時が来たのだ。
◇
夕刻。
激しい夜襲の時間が迫る中、王城の大広間に暴力的なまでの肉の香りと、それを優しく包み込むような芳醇な香りが立ち込めた。
「皆様、お待たせいたしました。今夜の戦いに向けた、アストライア王妃特製のお食事ですわ」
アリシアと侍女のクラリスが巨大な銀の盆に乗せて運んできたのは、分厚く切り分けられた極厚の獣肉のステーキであった。
ただ焼いただけではない。
荒野の道中で採取した心を落ち着かせる爽やかな香草が肉の表面にたっぷりと擦り込まれ、見事な焼き加減で肉汁を閉じ込めている。
さらにその上からはエルデニア特産の濃厚なチーズがトロトロに溶かされ、まるで黄金の雪のように肉を優しく覆い隠していた。
「なっ……なんだこの、本能と理性を同時に揺さぶるような香りは……!」
ガルドルフをはじめとする獣人の将軍たちが、目を丸くして身を乗り出した。
彼らが豪快にステーキを口に運んだ瞬間、極厚の肉から溢れ出す野性味あふれる旨味が獣人としての闘争本能を歓喜させる。
しかしその直後、とろけるチーズのまろやかで優しい塩気が口の中を包み込み、鼻へ抜ける香草の清涼な香りが荒ぶりそうになる心をスッと静かな水面のように鎮めていったのだ。
「……信じられん。なんと力強く、そして優しい味だ。身体の奥底から無限の力が湧いてくるのに、心は全く波立たず、澄み切っている……」
ガルドルフが、感極まったように藍白の瞳を潤ませて呟いた。
肉の本能的な旨味、チーズの優しさ、香草の理知的な香り。
それらが完璧に融合したこの香草とエルデニアチーズの極厚ステーキこそが、獣人たちの荒ぶる魂を現世に繋ぎ止める最強の「理性の錨」であった。
◇
そして、夜が訪れた。
雲が晴れ、夜空に巨大な満月がその姿を現した時、ディオルグラードの城壁の前に地響きを立ててル・サフィールの無機質な機械兵の軍勢が押し寄せてきた。
「アォォォォォォォォォォォンッ!!」
満月の光を全身に浴びた城壁の上の獣人たちが、一斉に天を仰いで咆哮を上げる。
彼らの筋肉が限界まで膨張し、爪と牙が鋭く伸び、身体能力が数倍に跳ね上がる。
通常であれば、ここで瞳から理性の光が消え失せ敵味方の区別なく襲い掛かる暴走状態に陥るはずであった。
――しかし。
「……不思議な気分だ。これほどまでに血が沸騰しているというのに、俺の頭の中はあの温かいチーズと肉の香りで満たされている」
狼系の兵士の一人が、自らの鋭い爪を見つめながら正気な声で呟いた。
隣に立つ熊系の重戦士も、「ああ。俺も、早くこの鉄屑どもを片付けて、もう一度あの優しい肉を腹いっぱい食いてえ」と、理性を保ったまま豪快に笑い合った。
アリシアの料理による「温かく優しい味の記憶」が、彼らの心を完全に繋ぎ止めていたのだ。
ディオルグラード史上初となる、「満月の力による身体能力の圧倒的向上」と、「完全な理性の保持」の両立。
獣人軍団が、真の覚醒を遂げた瞬間であった。
「我が国を脅かす鉄屑ども! 今日ばかりは、貴様らの姑息な計算など通じぬと知れ!」
誰よりも先頭に立ち、城壁から広大な荒野へと飛び降りたのは灰狼の覇王ガルドルフであった。
普段の腰の低さはそこにはない。
彼の身の丈ほどもある巨大な大剣が、満月の光を反射して銀色に輝く。
「我らが友がくれたこの温かな心を胸に! 貴様らを、覇王の牙の錆にしてくれる!!」
ガルドルフの咆哮と共に振り抜かれた大剣が強固な装甲を持つ機械兵を、まるで紙切れのように数十体まとめて一刀両断に粉砕した。
それに続くように完全な理性を保った獣人の大軍勢が、完璧な連携を保ったままル・サフィールの軍勢へと雪崩れ込んでいく。
「我らも行くぞ。アストライアの誇りにかけて、狂王の企みをここで叩き潰す」
城壁の上では、ルイがエメラルドの瞳を光らせ、強大な魔力を両手に収束させていた。
その隣ではテリオンが音もなく黒弓の弦を引き絞って敵陣の指揮官に狙いを定め、巨躯のリザードマンであるゾアが「我が斧が血を求めているぞ!」と大斧を構えて大音声で笑い声を上げる。
銀髪の王妃が振るったフライパンが、狂王の狡猾な夜襲を完全に打ち砕いた。
満月の荒野を舞台に、エルカイレムの特使チームと覚醒した銀狼の国の反撃の戦端が、今まさに切って落とされたのである。




