第5話 荒野の旅路と獣人の影、遠き銀狼の国境と一触即発の力試し
東方の美しい瓦屋根に、夏の眩しい朝日が降り注いでいた。
カグツチ連邦の巨大な港には、エルカイレム大陸へと続く海路とは逆――オルメルハ大陸のさらに西、ディオルグラードへと向かうための陸路の出立を控えた特使チームの姿があった。
「アストライアの王よ、そして美しき王妃陛下。貴方たちが残してくれたあの一つの鍋の味、我らカグツチ連邦は決して忘れはしない」
見送りに訪れた連邦の議長アマツキが、深く頭を下げた。
彼が顔を上げると、かつて常に糸のように細められていたそのまぶたの奥には、燃え盛る炎のような緋色の瞳が力強く真っ直ぐに特使たちを見据えていた。
そして、彼を取り囲むように立つ四派閥――火守衆、風刃衆、鉄槌衆、水鏡衆の頭目たちもまた、昨日までのいがみ合いが嘘のように、憑き物が落ちた清々しい顔で肩を並べている。
「我ら連邦はこれより完全に一つとなり、来るべきル・サフィールの狂王との戦いに備え、東の防衛線を強固なものとします。西の獣人国家、ディオルグラードとの交渉……どうか、お気をつけて」
「ああ。吉報を待っていてくれ、アマツキ殿」
アストライアの若き王ルイが、王としての威厳に満ちた笑みを返して力強く頷いた。
アリシアもまた、純白のサマードレスの裾を軽くつまんで優雅にカーテシーを返す。
「皆様、どうかお元気で。またいつか、皆様の持ち寄った具材で最高に美味しいお鍋を囲みましょうね」
頭目たちが照れくさそうに笑い、アマツキが緋色の瞳を細めて微笑む。
東方の国々を一つに結びつけた特使チームは、カグツチ連邦の温かく、そして力強い見送りを受けながら次なる目的地へと進路を取った。
◇
季節は過酷な夏。
ジリジリと肌を焼くような強烈な日差しが降り注ぐ中、一行はオルメルハ大陸の途方もない広大さを身をもって体感することとなった。
カグツチ連邦の優美な木造建築の街並みは次第に途切れ、数日間に及ぶ陸路の旅を進めるにつれて、乾いた土と背の低い草木が続く荒涼とした大地へと景色が移り変わっていく。
道沿いに点在する集落の様相も、過酷な自然環境に耐えうる無骨で堅牢な石造りの家屋や、分厚い獣皮を幾重にも重ねた巨大なテント群へと明確な変化を見せ始めていた。
「お嬢様、本日の野営地はこちらでよろしいでしょうか。すでに水場の安全確認と、天幕の設営は完了しております」
荒野に沈む夕陽が空を赤く染め始める頃、栗色の髪をすっきりと一つに結んだクラリスが、一切の疲労を感じさせない涼やかな顔でアリシアに報告した。
彼女の背後には、ただの野営とは思えないほど完璧に整えられた天幕と、火を熾すための焚き火台がすでに準備されている。
有能すぎる侍女の働きに、アリシアは微笑みながら頷いた。
「ありがとう、クラリス。本当に助かりますわ。それにしても、この大陸はエルカイレムとは植生が全く違ってとても興味深いですわね」
アリシアの手には、道中の荒野で採取した未知の香草が握られていた。
強い日差しを浴びて育ったそれは、エルカイレムのハーブよりもずっと野性味があり、肉の臭みを消して食欲を極限までかき立てるような鮮烈な香りを放っている。
「今夜は、カグツチ連邦でいただいた猪の肉に、この香草をたっぷりと揉み込んで焼き上げましょう。夏の暑さと長旅で疲れた身体には、力強いお肉が必要ですものね」
アリシアが愛用のフライパンを構え、分厚い猪肉を火にかける。
ジュワァッ! という小気味良い音と共に、荒野の風に乗って暴力的なまでに芳醇な肉の焼ける香りが漂い始めた。
「……うむ。我らリザードマンの魂を揺さぶる、素晴らしい香りだ。主よ、我が斧の出番がないのは退屈だが、この至高の肉が毎晩食えるのなら長旅も悪くない。あとは、これに溢れんばかりの蜂蜜でもあれば言うことはないのだがな」
巨躯を持つゾアが、深緑の鱗を夕陽に輝かせながら待ちきれないといった様子で焚き火の前に腰を下ろした。
その向かいでは、ダークエルフの狩人であるテリオンが、褐色の肌にカメリア色の瞳を静かに光らせ愛用の黒弓の手入れをしている。
「しかし、随分と空気が変わってきたな。強大なる獣人国家の領域が近い証拠か」
夕焼け色の髪を夏の風に揺らしながら、ルイがエメラルドの瞳を細めて荒野の先を見据えた。
彼の言う通り、旅を進めるにつれてすれ違う旅人や行商人の顔ぶれには明確な変化が表れていた。
上空を見上げれば、特使チームの動向を一定の距離から監視するように旋回する、鋭い視力を持った鳥系の獣人たちの姿がある。
彼らはディオルグラードの誇る優秀な偵察部隊であり、エルカイレム大陸からの異物であるアリシアたちを常に警戒の目で見張っているのだ。
また、途中で立ち寄った宿場町では、豊かな尻尾と耳を持つ狐系の獣人たちが物資の取引や情報の売買を仕切っていた。
彼らは知略と魔術に長けており、案内役であるエルデニアの第一王子ミゲルが彼らと通行の許可や水を手に入れるために、常に眉間に深いシワを寄せながら高度な交渉戦を繰り広げていた。
「鳥が空を支配し、狐が市場を回す。そして、戦場では狼と熊が牙を剥く。それぞれが種族の特性を極限まで活かし、徹底的な実力主義で回っている国。それがディオルグラードか」
ルイが知的な光を宿した瞳で、獣人国家の構造を分析する。
ル・サフィールの狂王が圧倒的な物量と兵器を誇るのに対し、ディオルグラードは「個の強さ」と「血統」によってのみ対抗している。
強くなければ生き残れない、剥き出しの生命力に満ちた国。
アリシアはその力強い空気を肌で感じながら、熱々の香草焼きの肉を皿に取り分けた。
◇
それからさらに数日後。
果てしなく続く荒野の先に、ついにディオルグラードの国境を護る巨大な砦が姿を現した。
それは巨大な赤茶けた岩山をそのまま乱暴にくり抜き、無数の太い丸太と鉄の杭で補強しただけの、圧倒的な威圧感を放つ暴力的な建造物であった。
「止まれ。これより先は、我らが覇王ガルドルフ国王陛下が統べるディオルグラードの不可侵領域である。エルカイレムからの特使と名乗る集団が近づいているとの報告は受けているが……ル・サフィールの狂王の手先ではないという確たる証拠はあるか!」
砦の巨大な門前で特使チームの行く手を阻んだのは、分厚い胸板と鋭い牙を持つ狼系の獣人たちであった。
彼らは軍の主力部隊であり、その瞳には戦場で研ぎ澄まされた本能的な殺気が渦巻いている。
さらにその後ろには、城壁と見紛うほどの途方もない巨体を持つ、熊系の重戦士たちが巨大な戦槌を肩に担いで立ちはだかっていた。
「待たれよ。我々は敵ではない。これはエルデニア王国国王オズヴァルトからの正式な親書であり、共にル・サフィールに対抗するための支援を申し出るものだ」
ミゲルが第一王子としての毅然とした態度で馬から降り、封蝋のされた書状を差し出す。
しかし、狼系の隊長はそれを冷ややかに一瞥しただけで、鼻で短く笑い飛ばした。
「紙切れなど、この国では便所の紙ほどの役にも立たん。そんなもので我らの牙が収まると思っているのなら、今すぐ尻尾を巻いてエルカイレムへ逃げ帰るんだな」
「なんだと……!」
ミゲルが眉間のシワをさらに深くして抗議しようとするが、狼系の隊長は腰に提げた長剣を抜き放ち、鋭い切先をミゲルの喉元へと向けた。
「我がディオルグラードにおいて、真実を証明できるのは『力』のみ。言葉や文字で身の潔白を証明しようとする者は、すべて弱者であり、嘘吐きだ。手先でないと言うのなら、我らを力でねじ伏せてから通るがいい!」
その言葉を合図に、背後に控えていた熊系の重戦士の一人が大地を揺らすほどの咆哮を上げて飛び出してきた。
丸太のような太い腕から重さ数十キロはあろうかという巨大な鉄の戦槌が、特使チームの先頭に立つルイやミゲルを粉砕すべく容赦のない速度で振り下ろされる。
「危ない!」
ミゲルが叫んだ、まさにその瞬間。
巨躯の熊が振り下ろした必殺の一撃を、下から跳ね上げるようにして受け止めた影があった。
「ほう。なかなかの剛腕よ。だが、我らリザードマンの誇り高き膂力に比べれば、いささか直線的すぎて退屈だな」
ゾアが巨大な大斧の柄で戦槌を真っ向から受け止め、黄金の瞳を獰猛に細めて笑っていた。
力と力が激突し、周囲の荒野の砂塵が爆発的に舞い上がる。
熊系の重戦士が信じられないものを見るように目を丸くした隙を突き、ゾアは大斧を力強く弾き返してその圧倒的な腕力で巨体の重戦士を後方へと吹き飛ばした。
「なっ……! 貴様ら!」
狼系の隊長が激昂し、ミゲルから標的を変えて斬りかかろうと一歩踏み出した。
しかし、彼の首筋にはいつの間にか冷たい鉄の感触がピタリと押し当てられていた。
「……動くな。一歩でも踏み込めば、お前の頸動脈を正確に貫く」
背後に音もなく忍び寄っていたテリオンが、黒弓の弦を限界まで引き絞り、漆黒の矢じりを隊長の急所へと突きつけていたのだ。
風切り音すら立てない完全な隠密と、瞬きする間に命を刈り取る狩人の気配。
狼系の獣人の鋭敏な本能が、死の恐怖に警鐘を鳴らして身体を完全に硬直させる。
「……言葉遊びの時間は終わりのようだな」
そして最後を締めくくるように、アストライアの若き王が静かに一歩前へ出た。
ルイの右手の甲に刻まれた太陽の紋章が眩く輝き、エメラルドの瞳に王としての絶対的な威圧感が宿る。
次の瞬間、彼を中心に凄まじい密度の魔力の波動が放たれ、国境の砦全体を重く押さえつけた。
それは、直接的な攻撃魔法ではない。
ただ「これ以上踏み込めば、お前たちの命はない」と、獣人たちの本能に直接語りかけるような、圧倒的なまでの格の違いを示す覇気であった。
大斧を構える巨躯の戦士。
背後を取る静かなる狩人。
そして、底知れぬ魔力を放つ若き王。
その後方では、銀髪の王妃がフライパンを握りしめ、侍女と共に一切の動揺を見せずに静かに微笑んでいる。
沈黙が、国境の砦を支配した。
やがて、テリオンに首筋を狙われていた狼系の隊長がふと肩の力を抜き、武器を下ろして好戦的な笑みを浮かべた。
「……いい牙を持ってるじゃねえか、エルカイレムの特使殿」
隊長が片手を上げると、周囲を取り囲んでいた熊の重戦士や狼の兵士たちも一斉に敵意を引っ込めて道を空けた。
「口先だけの弱者ならこの場で噛み砕くつもりだったが、お前たちの『力』は本物だ。疑って悪かったな」
獣人特有の、裏表のないカラッとした態度。
強者と認めれば、それまでの敵意が嘘のように消え去るという彼らなりの実力主義の流儀であった。
隊長は砦の巨大な門を指差して、牙を見せて笑う。
「通れ! 我らが覇王、ガルドルフ国王陛下の元へ案内してやる!」
言葉ではなく、圧倒的な個の力による証明。
荒野の覇王が待つ銀狼の国の中枢へと、特使チームはついにその足を踏み入れたのであった。




