第4話 四つの小鍋と一つの大鍋、交わらない具材と調停者の開眼
い草の香りが漂う広大な畳敷きの政務室には、剣呑な空気が重く立ち込めていた。
上座に座る連邦の議長アマツキを囲むように、カグツチ連邦を構成する四つの巨大な派閥の頭目たちが車座になっている。
炎術を操る火守衆の頭目は、身に纏う装束と同じように激しい怒気を放っていた。
重装武士を束ねる鉄槌衆の頭目は、岩のように強固な腕組みをして他者を威圧している。
結界と陰陽を司る水鏡衆の頭目は冷ややかな視線を周囲に向け、隠密行動に長けた風刃衆の頭目は、いつでも刃を抜けるような姿勢を崩さない。
「議長。ル・サフィールの狂王に対抗するためとはいえ、我ら火守衆が、なぜ水鏡の臆病者どもと肩を並べねばならんのだ」
「臆病とは聞き捨てならんな。貴様らのような猪突猛進の馬鹿どもに、我が水鏡の精緻な陣を任せることなど到底できん」
異国からの特使であるルイやミゲルたちが同席しているというのに、頭目たちは互いの「意地」と「誇り」をぶつけ合い、一向にまとまる気配を見せなかった。
連邦の調停者であるはずのアマツキは、長く美しい黒髪を揺らしながら、ただ糸のように細めた目を伏せて重い溜息を吐き出すばかりである。
争いを好まない彼の理想主義は、この頑なな武闘派たちを抑え込むにはあまりにも決断力に欠けていた。
永遠に続くかと思われた不毛な議論の最中、広間の襖が静かに開かれた。
「皆様、熱を帯びた議論の途中ですが、まずは腹ごしらえといたしましょう」
白いドレスを身に纏ったアリシアが、優雅な足取りで大広間へと歩み入る。
その後ろからは、一切の足音を立てずに侍女のクラリスが続き、それぞれの頭目たちの前へ一人用の小さな鉄鍋を配置していった。
「これは、航海中に仕入れた海の幸から取った濃厚な出汁と、東方の発酵調味料である味噌を合わせたものを基本としております。ですが、皆様それぞれのお好みに合わせて、具材と味付けを変えさせていただきましたわ」
アリシアが小鍋の蓋を開けると、四つの鍋からそれぞれ全く異なる芳醇な香りが立ち昇った。
火守衆の鍋は、獣肉と唐辛子をふんだんに効かせた燃えるような紅い激辛味噌仕立て。
風刃衆の鍋は、疲労回復に効く山菜とキノコ、そして鶏肉を合わせたあっさりとした出汁仕立て。
鉄槌衆の鍋は、力強い猪肉と大きな根菜をごろごろと煮込んだ濃厚な味噌仕立て。
水鏡衆の鍋は、繊細な白身魚と東方特有の湯葉を使った上品な白味噌仕立てである。
頭目たちは怪訝な顔をしながらも、目の前から漂う圧倒的な旨味の香りに抗えず、箸を手に取った。
火守衆の頭目が、唐辛子の効いた獣肉を口に運ぶ。
「……うむ。この燃え上がるような刺激と肉の力強さ。これぞ我ら火守衆の魂に相応しい味だ。異国の女にしては、なかなか分かっているではないか」
鉄槌衆の頭目も、猪肉を豪快に噛み千切りながら鼻を鳴らした。
「馬鹿め。貴様の鍋などただ辛いだけだろう。この猪肉と根菜のどっしりとした重みこそが、至高の味だ。鉄槌の武力と同じようにな」
水鏡衆の頭目は、上品に白身魚を口へ運びながら冷ややかに笑う。
「野蛮なことだ。味覚の繊細さも持ち合わせていないとは。この白身魚の静謐な旨味こそが、水鏡の美学というもの」
「遅い遅い。貴様らが味わっている間に、我ら風刃はこの山菜の恩恵で誰よりも早く戦場を駆けることができる」
彼らはそれぞれアリシアの作った料理の美味しさを認めながらも、それを己の派閥の「優秀さ」を誇示するための道具にしかなし得なかった。
自分たちの鍋が一番優れていると信じて疑わず、他者の鍋を蔑み続ける。
交わらない味。
交わらない誇り。
「……やはり、駄目なのです」
上座に座るアマツキが、力なく首を振った。
「彼らの主義主張は、決して交わることはない。この連邦は同じ大地にありながら、分断された四つの鍋の集まりなのですから」
絶望に沈む調停者の言葉。
しかし、アリシアは動じなかった。
彼女は右手に握りしめていた銀のフライパンを、木製の大きな杓子で鋭く打ち据えた。
高く澄んだ硬質な金属音が、広間の喧騒を切り裂いて響き渡る。
「皆様。自分の小さな鍋の味だけで、本当にご満足ですの?」
アリシアはマリンブルーの瞳に、料理人としての鋭い光を宿して頭目たちを見回した。
「たしかに、その小鍋は『個』としては完璧な仕上がりです。ですが、私から言わせれば……それはカグツチ連邦としてはひどく未完成で、とてもつまらない味ですわ」
「なんだと……?」
頭目たちが一斉に険しい顔をしてアリシアを睨みつける。
だが、その殺気を受けても、壁際で護衛として控えるゾアとテリオンは動かない。
彼らは主であるアリシアが、今まさに料理という武器でこの東方の国の重い扉をこじ開けようとしていることを理解していたからだ。
「クラリス。あれを」
「かしこまりました」
クラリスが広間の中央に、巨大な黒金の鉄鍋を運び込んできた。
その中には具材は一切入っておらず、極上の出汁と味噌の基本となる汁だけがたっぷりと張られ、激しく煮え立っている。
アリシアは迷うことなく、頭目たちの前に置かれた四つの小鍋に手を伸ばした。
そして、火守の唐辛子と獣肉、風刃の山菜とキノコ、鉄槌の根菜と猪肉、水鏡の白身魚を、あろうことかすべて中央の巨大な鉄鍋へと一気に投入してしまったのだ。
「なっ……貴様、何をする!」
「我らの誇りを、他派閥の俗悪な味と混ぜ合わせる気か!」
頭目たちが激怒し、一斉に立ち上がる。
自分たちの完璧な味を濁されたという怒り。
しかしアリシアは涼しい顔で、すべての具材が入り混じった巨大な鍋をゆっくりとかき混ぜた。
やがて、煮え立つ巨大な鍋から信じられないほど複雑で、暴力的なまでに豊かな旨味の香りが大広間全体へと広がり始めた。
「さあ。これが、カグツチ連邦の『本当の味』ですわ」
アリシアは新しい器にその汁と具材を取り分け、怒り狂う頭目たちの前へと言葉少なに突き出した。
香辛料の刺激、魚の出汁、肉の脂、根菜の甘み。
それらが混然一体となった香りの暴力に、頭目たちは思わず息を呑み、そして抗うように器へ口をつけた。
――その瞬間。
広間から、一切の音が消え去った。
頭目たちは目を見開き、自身の舌の上で起こっている奇跡的な味の現象に、身動きすらとれなくなっていた。
味が反発しているのではない。
水鏡の繊細な魚介の出汁が、火守の粗暴な獣肉の旨味を何倍にも引き立てている。
火守の鋭い唐辛子の刺激が、鉄槌の猪肉の脂っこさを完璧なまでに中和し、洗練させている。
風刃の山菜の香りが、それらすべての重厚な味を爽やかにまとめ上げ、果てしない食欲をかき立てている。
それぞれの強烈な個性が、共通の出汁と味噌という土台の中で完璧な相乗効果を生み出し、単体では絶対に届かない次元の絶対的な旨さへと進化していたのだ。
「……悔しいが」
長い沈黙を破り、火守衆の頭目がポツリとこぼした。
「水鏡、貴様らの魚の出汁が……俺たちの肉を、ここまで旨く引き立てるとはな」
「……ふん。火守の香辛料も、白身魚に悪くない刺激を与えている。腹立たしいが、認めざるを得ん」
水鏡の頭目が、どこか清々しい顔で器の底を飲み干した。
鉄槌と風刃の頭目も、互いの具材の相性の良さを認め、そして照れ隠しのように不敵な笑みを浮かべ合っている。
違うからこそ、反発するのではない。
違うからこそ、一つの鍋の中で合わさった時に最強の力となる。
その料理が示したあまりにも明確な「国の在り方」を目の当たりにし、上座で座っていたアマツキの身体が大きく震えた。
(……私は、間違っていた)
彼らを別々の小鍋に分け、距離を取らせてバランスを保つことが調停だと信じていた。
だが違う。
真の指導者とは、この強烈な個性を持つ具材たちを一つの大鍋に放り込み、その中心に立って強烈な熱を加え続ける者のことなのだ。
「……意地を張っている場合では、ありませんでしたね」
アマツキが静かに立ち上がった。
彼が顔を上げた瞬間、常に糸のように細められていたそのまぶたが限界まで見開かれた。
露わになったのは、燃え盛る炎のような「緋色の瞳」。
それまでの中性的で優柔不断な気配は跡形もなく消え去り、そこには連邦のすべての武力を統べる「真の王」としての絶対的な覇気が渦巻いていた。
その鋭い瞳の光に、四人の頭目たちが息を呑み、無意識のうちに姿勢を正してひざまずく。
「我々は、同じ大地という出汁を共有する、一つ鍋の具材だ。誰一人欠けても、このカグツチ連邦は完成しない」
アマツキは緋色の瞳を燃やしながら、頭目たちを、そしてエルカイレムの特使たちを見据えた。
「すべての部族に通達せよ。我らはこれより一つとなり、狂気の女王を迎え撃つ。アストライアの王妃陛下、貴女のそのフライパンが、我が国の真の姿を教えてくれました」
一つの巨大な鍋が、東方の国の重く閉ざされた扉を完全にこじ開けた。
カグツチ連邦の反撃の炎が、今、圧倒的な熱量を持って燃え上がろうとしていた。




