第3話 波間の結界と東方の国、カグツチ連邦の上陸と糸目の調停者
真っ青な夏の空の下、エルデニア王国が誇る灰色の快速船は順調に波を切り裂いて進んでいた。
海を渡る強い夏風を帆にいっぱいに受け、目指すは西方の大陸オルメルハ。
狂気の女王フィオレッタの侵攻に抵抗を続ける「カグツチ連邦」の領海である。
しかし、船が切り立った崖に囲まれた湾口に差し掛かった、まさにその時だった。
「……何事だ。海面が、光っているぞ」
甲板で海図を確認していた第一王子ミゲルが、鋭い灰青の目をすがめて声を上げた。
彼の視線の先。
波打つ海面の下から、幾何学的な巨大な「陣」のような紋様が青白く浮かび上がったかと思うと、船の周囲を取り囲むように不可視の巨大な壁――強力な魔導結界が張り巡らされたのだ。
ドンッ! という鈍い衝撃と共に、快速船は前進を阻まれ海上で完全に動きを封じられてしまった。
「ル・サフィールの迎撃か!?」
ミゲルが腰の剣に手をかけた瞬間、船の周囲を小回りの利く見慣れぬ形状の小舟が、何隻も取り囲むように現れた。
そして、音もなく帆柱や甲板へと飛び降りてきたのは、エルカイレム大陸では見たこともない独特な合わせ襟の装束に身を包んだ者たちだった。
顔の半分を布で覆い、手には鋭い短刀や反りのある独特な刃を握りしめている。
彼らカグツチ連邦の斥候たちは、侵入者であるアリシアたちへ向けて、一切の容赦がない凄まじい殺気を放っていた。
「……敵か。ならば容赦はせぬぞ」
アリシアの前にスッと進み出たゾアが、背中の大斧を軽々と引き抜き深緑の鱗を逆立てて低く唸った。
その隣では、ダークエルフの狩人であるテリオンがすでに一切の足音も立てずに船の死角へと滑り込み、黒弓の弦をギリッと引き絞って斥候たちの急所へ狙いを定めていた。
「待て! 我々は敵ではない! エルカイレム大陸から来た特使だ!」
ミゲルが必死に声を張り上げ、敵意がないことを示そうとする。
だが、斥候たちは刃を下ろそうとしない。
ル・サフィールによる執拗な侵攻と海上封鎖によって、彼らの神経はすでに極限まで擦り切れていたのだ。
一触即発の空気が甲板を支配する中。
アリシアは、ふと斥候たちの姿を静かに観察し、マリンブルーの瞳を細めた。
彼らの鋭い眼光の奥には、隠しきれない極度の疲労が滲んでいる。
そして、布越しに伺える頬はひどく痩せこけ、刃を握る手が微かに震えている者さえいた。
(……ル・サフィールの兵糧攻めで、まともな食事を摂れていないのね)
アリシアは、確信を持って一歩前へ踏み出した。
「お待ちになって、ゾア、テリオン。武器を収めてくださいませ」
「しかし、主よ……」
「大丈夫ですわ。クラリス」
アリシアが声をかけると、彼女の背後に影のように控えていた有能な侍女、クラリスが音もなく進み出た。
彼女の両手には、厨房で火にかけられていた巨大な鍋が一切の揺れもなく平然と掲げられている。
「遠海での過酷な警護、本当にお疲れ様です。皆様、まずは温かいものでもいかがかしら?」
アリシアが鍋の蓋を開けた瞬間。
甲板の上に、ふわりと信じられないほど暴力的な「旨味」の香りが広がった。
「なっ……こ、この香りは……!」
殺気立っていた斥候たちの動きが、ピタリと止まる。
鍋の中に入っていたのは、航海の途中で仕入れた新鮮な海鮮から取った濃厚な出汁と、発酵調味料である味噌をたっぷりと溶かし込んだ、熱々の特製スープであった。
さらにその中には、あのエルデニアの石のように硬い「長期保存パン」が細かく砕いて入れられており、濃厚な魚介の出汁と味噌の風味を限界まで吸い込んでトロトロのおじやのように仕上がっている。
「毒など入っておりませんわ。さあ、どうぞ」
アリシアが手際よく器に取り分け、クラリスが流れるような所作で斥候たちへと配っていく。
彼らは戸惑いながらも、その抗いがたい故郷の香りに負け、震える手で器を受け取った。
そして、警戒しながら一口、口に運ぶ。
「――っ!!」
その瞬間、斥候たちの瞳が見開かれた。
疲労しきった胃の腑に、熱く、優しく染み渡っていく魚介の濃厚な出汁。
そして何より、彼らの魂に深く刻み込まれた味噌のホッとするような香ばしさと塩気が、張り詰めていた緊張の糸をぷつりと切ってしまったのだ。
出汁を吸って柔らかく口の中でとろけるパンが、空腹を満たす圧倒的な暴力となって彼らの身体を温めていく。
「なんたる、美味……身体の奥底から、力が湧いてくるようだ……」
「こんな温かく、心に染みる食事は……いつぶりだろうか……」
ぽろぽろと覆面の奥から大粒の涙を流し、斥候たちは無我夢中で出汁の染みたパンを掻き込んだ。
彼らの手から完全に武器は下ろされ、海上に張られていた強固な結界も静かに光を失って霧散していった。
「……見事だ。刃ではなく、一杯のスープで国境の壁を粉砕するとはな」
ルイが呆れたように、しかし誇らしげにエメラルドの瞳を細めて笑った。
◇
胃袋を完全に掴まれた斥候たちの案内により、快速船はカグツチ連邦の港へと無事に入港した。
船を降りたアリシアたちが目にしたのは、エルデニアの淡灰色の石造建築や、グラン・ロアの重厚な赤煉瓦の街並みとは全く違う、異国情緒に溢れる美しい情景だった。
木と紙、そして見事な瓦屋根で構成された家屋が立ち並び、街路には風鈴の涼やかな音が響いている。
しかし、その美しい景観とは裏腹に街の空気は奇妙なほどピリついていた。
街を行き交う人々――重装の甲冑を着込んだ武士たちや、怪しげな札を持った結界術師、軽装の隠密たちが、互いにすれ違うたびに鋭い視線をぶつけ合い、まるで縄張り争いでもしているかのような一触即発の空気を漂わせているのだ。
「……同じ国を護る者同士だというのに、随分と敵意に満ちているな」
ルイが周囲の空気を探りながら、低く呟く。
「カグツチ『連邦』という名の通り、ここは単一の国家ではないのだよ。複数の部族や藩の集合体であり、彼らは共通の敵がいながらも、己の『名誉』や『血筋』を重んじるあまり、一枚岩になれないでいるのさ」
一行を案内していた武士が苦々しく吐き捨て、政務を司る巨大な木造建築の奥へと彼らを導いた。
通されたのは、足裏に心地よい感触が伝わる畳が敷き詰められた広大な大広間であった。
その最奥、上座に静かに座っていた一人の男がゆっくりと顔を上げた。
「……遠路はるばる、よくぞお越しくださいました。エルカイレム大陸からの特使の皆様」
中性的な顔立ちに、艶やかな長い黒髪。
そして、常に糸のように細められた目が特徴的なその男こそが、この複雑なカグツチ連邦を束ねる調停者――議長のアマツキであった。
「我々に食糧と物資の支援を申し出てくださったこと、連邦を代表して心より感謝申し上げます」
アマツキは柔和な微笑みを浮かべ、深く頭を下げた。
ミゲルが第一王子としての毅然とした態度で進み出て、オズヴァルト王からの親書を差し出す。
「感謝には及びません、アマツキ殿。ル・サフィールの狂気の女王がこれ以上巨大化することは、我らエルカイレムにとっても看過できない脅威。ですが、一つお伺いしたい。ル・サフィールの圧倒的な数に対抗するためには、貴国がすべての部族の力を一つに結集し、防衛線を構築する必要があるはず。なぜ、それをなさらないのですか?」
ミゲルの直球の問いに、アマツキの糸目がほんの少しだけピクリと動いた。
彼は深く、重い溜息を吐き出し、自嘲気味に微笑んだ。
「お恥ずかしい話ですが……それができれば、我々もここまで追いつめられてはおりません。この連邦を構成する各派閥の頭目たちは、古き『意地』と『名誉』に囚われすぎている。誰かの下につくことを極端に嫌い、私の一存で軍を一つにまとめることは、到底不可能なのです」
理想主義者であり平和的な統一を望む彼だが、各勢力のバランスを取ることに腐心するあまり、その決断は常に遅れ、国は内側から腐りかけていた。
「このままでは、ル・サフィールに飲み込まれる前に、連邦は内部から瓦解するでしょう……」
アマツキが悲痛な声で呟いた、その時だった。
「……なるほど。皆様、随分と空腹のせいで気が立っておられるようですわね」
アリシアが、白いのドレスの裾を揺らしてスッと一歩前へ出た。
彼女は驚いて顔を上げたアマツキに向かって、絶対の自信に満ちた微笑みを向ける。
「アマツキ様。ならば、その各派閥の頭目たちを、すべて一つの食卓に集めていただけませんか?」
「食卓に……?」
「ええ。どれほど頑なな『意地』や『名誉』であろうと、本当に美味しくて温かい料理の前では、無意味な鎧でしかありませんわ」
アリシアは右手に持った愛用のフライパンを軽く掲げ、マリンブルーの瞳に料理人としての誇り高い炎を燃え上がらせた。
「私が、皆様のその面倒な意地すらも溶かしてしまう、カグツチ連邦を一つにするための『最高の宴』をご用意いたしますわ!」
東方の国を一つにまとめるための、前代未聞の「料理同盟会議」。
銀髪の王妃によるスケールの大きな食の外交が、今まさに幕を開けようとしていた。




