第9話 黄金の林檎、赤髪の代行者と乱れ飛ぶノイズ
王都アストライアの人目を避けた地下の隠れ工房。
ルイは、祭壇に鎮座する「蒼月の涙」と向き合い、自らの精神を研ぎ澄ませていた。
石に宿るマリンブルーの輝きは、ルイの魔力と共鳴し、少しずつ指輪の形へとその輪郭を整えつつある。
静寂を破ったのは、工房の明かり取りの窓から飛び込んできた、一羽の白い伝書鳩だった。
「……バルト。ヴァレンタイン公爵からの手紙だ」
ルイは指先の魔力を維持したまま、バルトに手紙を解かせた。
一読したバルトの眉が、これまでにないほど深く寄せられる。
「……ルイ様。公爵閣下が、とんでもないことを……アリシア様を賭けた『花嫁争奪戦』を開催すると。しかも、第一の試練は明日の正午。ルイ様が参加せぬなら、不戦敗とみなすと記されております」
「……公爵閣下らしい、苛烈な揺さぶりだ。アリシアをそんな風に扱うなど、本来なら私が今すぐ駆けつけたいが……」
ルイは掌の中の原石を見つめた。
ここで手を離せば、彼女への誓いは形を成さない。
ルイは覚悟を決め、影に控える「彼」を呼んだ。
「カイン、いるか……すまないが、君にしか頼めない。私の代行として、あの森へ向かってくれないか」
工房の隅から、燃えるような赤髪の男――カインが不敵な笑みを浮かべて現れた。
「……兄上。随分と必死な顔をしているな。アストライアを救った英雄が、一人の令嬢のためにそこまで熱くなるとは」
「笑ってくれていい。だが、あの森の狼や狩人に、私の帰る場所を奪わせるわけにはいかないんだ。カイン、君の力で『王の席』を死守してくれ。頼めるか」
「……兄上の信頼に応えるのは、弟の役目だからな。その『不作法なカフェ』とやら、私が王家の盾となって守り抜こう」
ルイとカイン。
二人の間に、かつての確執を超えた確かな絆が通った瞬間だった。
◇
翌日、国境の森「カフェ・ヴァレンタイン」。
お父様は、テラス席の特等席で自慢のカイゼル髭を撫でながら、不敵な笑みを浮かべていた。
その前には、第一の試練に挑むべく集まったウォーレンとテリオンが火花を散らしている。
「いいか、貴様ら! アリシアは、私の魂よりも、このヴィンテージ・ワインよりも尊い存在だ! そんな娘を、ただの求婚者どもに安売りするわけにはいかん!」
「ですから、お父様……その『花嫁争奪戦』なんて不作法な名目、やめてくださいませ! 私は誰の景品でもありませんわ!」
私がフライパンを片手に抗議しても、お父様は鼻息荒く宣言を続ける。
そこへ、地響きのような馬蹄の音と共に、赤い旋風が舞い込んだ。
「――相変わらず、耳障りなほど賑やかなゴミ溜めだな」
漆黒の馬から鮮やかに飛び降りたのは、王弟カイン。
彼は私を一瞥し、それからウォーレンとテリオンを見据えた。
「兄上からの代行として参戦させてもらう……野性味溢れる狼に、寡黙な狩人か。兄上の帰る場所を脅かす不逞の輩は、この私が焼き払ってあげよう」
「ルイの弟か……代行だろうが何だろうが、アリシアの隣は渡さねえぞ!」
「……王家の影か。面白い……試練に地位は関係ない」
お父様は満足げに頷き、第一の試練を告げた。
「試練を告げる! 明日の日没までに、森の最深部『溜息の谷』にのみ実る伝説の食材――『黄金の林檎』を、傷一つなく持ち帰れ! 最も優れた果実をアリシアに献上した者に、最初の勝利を授けよう!」
◇
翌日。
深い霧に包まれた「溜息の谷」。
視界の悪い断崖絶壁で、三人の男たちが交錯する。
「……見つけたぜ。あれか」
ウォーレンが霧の合間に、鈍い黄金色の輝きを見つけた。
しかし、その手前には、谷の守り神とされる巨大な魔猿が陣取っている。
「ガアアァァ!!」
魔猿が吠え、巨大な岩を投げつけてくる。
ウォーレンがそれを双剣で切り裂く瞬間、頭上を一本の銀の矢が通り過ぎた。
「……狼、動くな……それは私が獲る」
テリオンが木々の間を影のように跳ね、魔猿の注意を逸らしていく。
その隙を突くように、上空から漆黒の炎が降り注いだ。
「……兄上のためだ、譲るわけにはいかない!」
カインが魔法で宙を舞い、林檎へと手を伸ばす。
だが、その瞬間、さらなる「ノイズ」が崖を駆け上がってきた。
「花嫁争奪戦って何よ!? テリオンの隣を奪う不届き者は、私が許さないわ!」
「サイラ!? お前、また来たのか!」
ダークエルフの狩人、サイラが何かを勘違いして乱入してきたのだ。
里の精鋭として知られる彼女なら、この程度の地形、目を閉じていても突破できるはずだった。
しかし、彼女の視界に、月光のような木漏れ日を浴びて華麗に立ち回るテリオンの姿が入った瞬間、その強靭な自制心が脆くも崩れ去った。
(……っ! いけない、見惚れている場合じゃ……っ!)
心拍数が跳ね上がり、普段なら決して犯さない初歩的なミスが重なる。
カインを牽制するための蔦の罠を設置しようとしたその時、彼女はテリオンの視線を意識しすぎるあまり、自らの足元の感触を度外視してしまった。
「あ、あれ!? この……この不作法な蔦、私が仕掛け……ひゃあっ!?」
判断力が鈍り、自分で仕掛けた罠の範囲に踏み込んでしまったのだ。
サイラは無様に逆吊りになり、「離しなさいよ、この……っ!」と顔を真っ赤にして叫び声を上げる。
「……世話の焼ける……おい、狼、王子。あいつを助ける間、魔猿を抑えろ」
「チッ、貸しだぞテリオン! ったく、あの女、テリオンが絡むとこれだ!」
「……兄上に、女性を見捨てたなどと報告されたくはないからね。協力しよう」
一国の王子と狼と狩人が、逆吊りになって悶絶するサイラを助けるために「共同作業」を行うという、奇妙な光景が繰り広げられた。
しかし、そのドタバタの隙を突いたのは、意外な影だった。
「……ふむ。不作法な小競り合いに気を取られているから、こうなるのだ」
いつの間にか崖の上に立っていたのは、殺し屋イグニスだった。
彼は庭いじりの延長のような手付きで、最も美しく熟した黄金の林檎を、一つだけ鮮やかに摘み取っていた。
「イグニス!? なぜそこに!」
「アリシアが新作パイの試作に困っていたのを思い出してな。ついでだ、これは俺が店に届けておく」
「おい、待てイグニス! それは俺たちの獲物だ!」
◇
日没。
カフェに戻ってきた男たちは、泥だらけで傷だらけだった。
そして、その中心には、イグニスが涼しい顔で届けた「黄金の林檎」が、私の手によって最高のスイーツへと姿を変えていた。
今日の一皿は、『黄金林檎のキャラメリゼ・ブルーチーズと砕きクルミのスパイス・パイ』。
黄金の林檎を厚めにスライスし、たっぷりのバターと、私の「焦がし蜂蜜」でソテーする。
熱が通るにつれ、林檎は琥珀色の透き通った輝きを放ち、芳醇な甘酸っぱい香りが店いっぱいに広がった。
それを香ばしく焼き上げたサクサクのパイ生地に並べ、アクセントにブルーチーズの塩気と、クルミの香ばしさを加える。
「さあ、皆様。一日の不作法な戦いを癒す、甘美な一皿ですわ」
ウォーレン、テリオン、カイン、そしてサイラ。
火花を散らしていた四人が、毒気を抜かれたようにパイを口に運んだ。
「……っ、うめえ……! この林檎の酸味、身体の芯まで溶けるようだ……チクショウ、俺の獲物じゃねえのに、この味には勝てねえ」
「……美味い。だが、イグニスに横取りされるとは……一生の不覚だ」
「……ふん。兄上の愛した味か。毒でも入っているかと思えば、これほどまでに『心』を揺さぶるものを作るとはな……不作法な女だ」
カインが皮肉を言いながらも、最後の一片まで綺麗に平らげるのを、私は満足げに見届けた。
その時、お父様が空になったワイングラスを置き、モノクルをキリリと直して厳かに立ち上がった。
「第一の試練……勝者、不在! だが、林檎を運んだイグニスと、それを料理したアリシア、そして協力し合った三人の姿勢に免じて、全員保留とする!」
「保留ってなんですの!? 結局決着がついていないではありませんか!」
私が抗議の声を上げるが、お父様は「ふははは!」と高笑いをして一蹴した。
「文句があるなら、明日の第二の試練で証明せよ! 第一の試練は『食』……ならば、第二の試練は『情熱』だ! 明日の日没までに、南の『赫炎の火口』の内側にのみ咲く幻の花――『常若の焔百合』を持ち帰れ!」
「火山だと!?」
「……火口の中、か」
ウォーレンとテリオンが顔を見合わせる。
カインもまた、兄ルイの代理として負けられないという顔で、不敵に口角を上げた。
「……面白い。兄上が戻るまで、退屈はしなさそうだ」
王都で孤独に戦い続けるルイ様の預かり知らぬところで、お父様の暴走はさらなる危険地帯へと突き進もうとしていた。
私は山のような食器を前に、「……もう、不作法な男たちの後片付けはこりごりですわ!」と心の中で叫び、再び忙しなく手を動かし始めた。




