第8話 碧き石の試練、静かなる狩人の焦燥と影の贈り物
王都アストライアの地下、外の喧騒を一切遮断した密室内。
若き王ルイは、もはや己の魔力供給だけで意識を繋ぎ止めていた。
目の前の祭壇に鎮座する「蒼月の涙」は、マリンブルーの光を脈打たせながら、ルイの精神を蝕むように輝いている。
加工という名の「対話」。
それは石に込められた古代の呪い――所有者の負の感情を純化させ、誠実な祈りへと変える過酷な儀式であった。
「……っ……まだ足りないのか」
ルイの視界が白く霞む。
指先は魔力の過剰供給により、凍えるような冷たさと焼けるような熱さを同時に感じていた。
そこへ、重厚な石扉を叩く音が響く。
「……陛下。その石は、持ち主が『すべてを捨てる覚悟』をしなければ形を変えませんぞ」
現れたのは、かつて先代王に仕えた伝説の彫金師、ギルフォードであった。
「ギルフォードか……すべてを捨てるだと? 私は……彼女を守るために、この国を、この力を維持せねばならんのだ」
「逆ですな。王としての誇りも、男としての独占欲も、一度すべて空にしなされ。ただ一人の女性を幸せにしたいという、子供のような無垢な願いだけを石に注ぐのです。さもなくば、その石は貴方の命を吸い尽くすまで止まりませぬよ」
ルイは歯を食いしばり、薄れゆく意識の中で、エメラルドの瞳をさらに鋭く光らせた。
王という重責、他者への嫉妬。
それらを剥ぎ取った後に残る、ただ一つの「答え」。
「……アリシア。君に笑っていてほしい。ただ、それだけだ」
ルイの呟きと共に、祭壇の光が爆発的に膨れ上がる。
精錬のクライマックスは、すぐそこまで迫っていた。
◇
一方、国境の森。
昨日のウォーレンとのピクニックの余韻は、お母様やクラリスの鋭い冷やかしによって、なかば強引に「現実」へと引き戻されていた。
私は朝から、少しだけ重い身体を引きずるようにして、厨房のカウンターを磨いていた。
(……昨日のこと。ウォーレンのあの真っ直ぐな瞳……そして、ルイ様から預かったこの鍵)
胸元の鍵に触れる。
その冷たさが、今の自分の曖昧な立ち位置を責めているような気がして、私は小さく息を吐いた。
すると、いつものように音もなく、テラスの影からテリオンが現れた。
「……昨日は、楽しかったようだな。狼の不器用なエスコートは、お前の趣味に合ったか」
テリオンの声は、いつにも増して冷たく、けれどその奥に隠しきれない焦燥が滲んでいた。
カメリア色の瞳が、私の少しだけ乱れた心の湖面を見透かすように射抜いてくる。
「……テリオン。いえ、その。ウォーレンが、どうしてもと言うものですから」
「……あいつは、声が大きい。派手に動き、お前の気を引こうとする……だが。私は、あいつのような『不器用』ではない」
テリオンが、カウンターの上に一つの小さな包みを置いた。
包みから現れたのは、見たこともないほど透き通った銀色のキノコと、微かに青い光を放つ薬草の束だった。
「……これは……月銀草? それに、銀嶺トリュフではありませんか! テリオン、これを見つけるのに、どれほど深い森へ入ったのです?」
「……お前に、本当の『夜の味』を教えると言ったはずだ。狼の持ってきた不格好な獲物とは違う……これを使って、お前の腕を見せてくれ」
テリオンが私を見つめる視線には、ウォーレンの真っ直ぐな熱とは違う、静かだが逃れられない「深淵」のような執着が宿っていた。
◇
料理人として、この希少な食材を前にして腕を振るわないわけにはいかない。
私は自分自身の迷いを断ち切るようにフライパンを握った。
今日の一皿は、『月銀草の香りを纏った、銀嶺トリュフと熟成チーズのクリームリゾット』。
まずは月銀草を細かく刻む。
包丁を入れた瞬間、森の奥深くにある泉のような、清涼でいて妖艶な香りが厨房いっぱいに広がった。
小鍋にバターを落とし、最高級の米を透き通るまで炒める。
そこに自家製のチキンブイヨンを少しずつ加え、米が旨味を吸い込むのをじっくりと待つ。
仕上げに、たっぷりのパルメザンチーズと、銀嶺トリュフをこれでもかと贅沢に削り入れた。
トリュフの土着的な力強い香りと、月銀草の透き通るような芳香が、クリームの濃厚な甘みの中で完璧に調和していく。
「お待たせいたしました、テリオン。貴方の運んでくれた『森の深淵』、一皿に閉じ込めましたわ」
テラス席、まだ朝の霧が残る空気の中で、テリオンがリゾットを一口運んだ。
カメリア色の瞳が微かに見開かれ、彼はゆっくりと、慈しむように喉を鳴らした。
「……美味い。やはり、私の目に狂いはなかった。お前は、この森のどんな生き物よりも、美しく残酷な魔法を使いこなす」
「魔法だなんて、大げさですわ」
「……違う。お前は、この味で私を……そして、アイツらを繋ぎ止めている……アリシア。狼の熱狂ではなく、私のこの静寂を、お前の『一等席』に置いてはくれないか」
テリオンが、テーブル越しに私の手をそっと覆った。
ウォーレンの熱い掌とは違う、少し冷んやりとして、けれど確かな体温。
彼はそのまま、私の指先に触れるか触れないかの距離で、吸い寄せられるように唇を寄せた――その時。
「――おい!! テメエ、テリオン! アリシアに何してやがる!」
その甘美な沈黙をぶち壊したのは、裏庭から戻ってきたウォーレンの怒号だった。
彼は泥のついた薪を放り出し、獣のような速さでテラスへと駆け込んできた。
「……騒がしい、狼。見ての通り、朝の試食中だ。お前の作った『泥臭い弁当』の口直しにな」
「なんだと!? テメエ、俺の弁当を馬鹿にしやがったな! アリシア、こいつに何を食わせたんだ!」
ウォーレンがリゾットの香りに一瞬絶句するが、すぐに双剣の柄に手をかけた。
対するテリオンは、座ったまま音もなく背中の黒弓を引き寄せ、流れるような動作で矢を番えた。
至近距離。
矢先がウォーレンの喉元を正確に狙う。
「……それ以上近づけば、その喉を森の肥やしにするぞ」
「やってみろよ、耳長! どっちがアリシアの隣にふさわしいか、今ここで白黒つけてやる!」
「おーっほっほっほ! 見苦しいですわね! 朝からリゾット一つで殺し合いだなんて!」
カトリーナが高笑いし、お母様が「あら、リゾット? 私の分もあるかしら」とジャガイモを剥き続ける。
カオスが頂点に達した、その時。
「ええい、やかましいッ!! 私の朝のワインを、不作法な殺気で濁らせるな!」
二階のバルコニーから、カイゼル髭を逆立てたお父様――ヴァレンタイン公爵が、モノクルを光らせて怒鳴り散らした。
その手には、空になったワインボトルが握られている。
「ウォーレン、テリオン! それに王都でコソコソしているルイもだ! 貴様ら、アリシアを巡って小競り合いをするのはもう飽きた! ヴァレンタイン家の娘を娶るということが、どれほど重い不作法か、分かっておらんようだな!」
お父様はバルコニーから飛び降りるような勢いで階段を駆け下り、二人の間に割って入った。
「決めたぞ! アリシア! 私は今から、このカフェを舞台にした『花婿選定の三つの試練』を執り行う! ルイが戻るまでに、貴様らにはこの家の伝統……すなわち『最高の食材』と『最高の礼節』を証明してもらう! それができぬ不作法者には、娘の指先一本触れさせん!」
「お、お父様!? 何を勝手なことを……!」
「黙れアリシア! これは私の、ヴィンテージ・ワインよりも重い決断だ! お前たち、異論はないな!?」
ウォーレンは双剣を収め、不敵に笑った。
「上等だ。実力行使なら望むところだぜ」
テリオンも弓を静かに下ろし、カメリア色の瞳を細めた。
「……面白い。狩人の執念、見せてやろう」
王都で最後の精錬に挑むルイ様、森で野性を剥き出しにするウォーレン、そして深淵から愛を囁くテリオン。
お父様という名の巨大なノイズが加わり、カフェ・ヴァレンタインは、かつてない「花嫁争奪戦」という名の長期戦へと突入しようとしていた。




