第6話 赤紫の狩人と森の獲物、乱反射する恋のノイズ
王都アストライア、その聖域のさらに奥深く。
ルイはバルトと共に、伝説の原石「蒼月の涙」へと至るための古い礼拝堂の前に立っていた。
湿った空気と静寂が支配するその場所で、ルイは右手の紋章が放つ微かな熱を感じていた。
「……ルイ様。先ほどの老婆が消え際、こう呟きました。『石は、最も清らかな鏡にのみ宿る』と。それは物質的な輝きではなく、持ち主の魂の在処を問うているのかもしれません」
バルトが掲げる灯火の先、礼拝堂の最奥に鎮座していたのは、凍りついた湖のように滑らかな「真実の鏡」であった。
ルイがその前に立った瞬間、鏡面は波打ち、彼自身の深層心理を映し出し始める。
鏡の中に映っていたのは、高潔な王の姿ではなかった。
愛する女性を誰の目にも触れさせぬよう、黄金の檻に閉じ込めてしまいたいと願う、一人の男の剥き出しの独占欲。
その執着は泥のように重く、醜い。
「……そうだ。私は、彼女を誰にも渡したくない。あの不作法な男たちから遠ざけ、私の腕の中だけで笑わせていたい。それが私の、最も濁った『本音』だ」
ルイは自らのエゴを否定しなかった。
むしろ、その醜ささえも自分の一部であると受け入れ、鏡の中の自分を真っ直ぐに見据える。
「だが、その醜さを抱えたまま、私は彼女を愛し抜く。支配ではなく、彼女が私を『選ぶ』ための光になりたい……この想いが偽りでないなら、答えを見せてくれ」
ルイが鏡に触れた瞬間、鏡面は眩いマリンブルーの光を放って砕け散った。
破片の中から現れたのは、夜明けの海を凝縮したような一石の原石。
「……『蒼月の涙』……! 手に入れたぞ、バルト。待っていてくれ、アリシア」
ルイはその原石を愛おしそうに、そして壊れ物を扱うように掌に包み込む。
「この石を、ただの石のままにしておくわけにはいかない。王都随一の彫金師のもとへ向かおう。この歪な独占欲を、彼女を生涯守り抜くための『誓い』へと加工するために」
「……畏まりました。ルイ様。その不作法な情熱、最後までお供いたしましょう」
主従は闇を切り裂くように、地下の隠れ工房へと足を進めた。
◇
一方、国境の森「カフェ・ヴァレンタイン」。
昨夜、テリオンと過ごした静かな時間と、洋梨のコンポートの甘い余韻。
私の心はまだ少しだけその温もりに包まれていたけれど、朝一番の厨房でその幕は強引に引き剥がされることになった。
「――よお、アリシア……随分と楽しそうな『残り香』がするな」
ウォーレンが、いつもの自信満々な笑みをどこかに忘れてきたような、少しだけ拗ねた顔でカウンターに肘をついていた。
スモークブルーの瞳が、じっと私の手元を捉える。
「ウォーレン……朝からどうかしましたの? 薪割りならもう終わっていると聞きましたけれど」
「薪なら割ったさ。だが、俺の『鼻』は誤魔化せねえ。昨日の夜、ここでテリオンと何か食ってただろ。俺が知らない間、俺が知らない場所で、あんたがアイツと笑ってたと思うと……ああ、もう! 不公平すぎるだろ!」
ウォーレンはまるで飼い主に置いていかれた大型犬のように、切なげな声を上げてカウンターに額を押し付けた。
彼の感情は真っ直ぐで、濁りがない。
だからこそ、その独占欲は熱を帯びて私の肌に伝わってくる。
「……ウォーレン、不作法ですわ。あれは冷えた身体を温めるための賄いですのよ。そんなに構ってほしいのなら、朝食のパンを多めに焼いて差し上げますわ」
「パンなんていらねえよ! 俺が欲しいのは……!」
ウォーレンが私の手を握ろうと身を乗り出した瞬間。
背後の影から、それを遮るように冷徹な殺気が立ち昇った。
「……騒がしいな、狼……」
テリオンが、音もなくそこに立っていた。
昨夜の穏やかさはどこへやら、カメリア色の瞳はウォーレンを排除すべき対象として見据えている。
「テメエ……! また影からコソコソと! アリシアを夜中に連れ回して、何を吹き込んだ!」
「……私は何も言っていない。お前のような『騒音』とは違う」
二人の間に流れる不穏なノイズ。
クラリスが「……朝から心拍数の高いお客様ばかりで、雑巾が乾く暇もございませんね」と溜息をつき、お母様が愉しげにジャガイモを剥いている。
爆発寸前の男たちの小競り合い。
それを物理的に打ち破ったのは、森から響いた地響きのような音と、凛とした、けれど少しだけ上ずった声だった。
「テリオン!! いるんでしょ、出てきなさい!」
扉が勢いよく開け放たれ、店先に姿を現したのは、漆黒に紫が混じる長髪をなびかせた、ダークエルフの女性――サイラだった。
彼女は肩に、自分の背丈ほどもある巨大な「森の紅猪」を担いでいた。
返り血を浴びたその姿は凄惨でありながら、神々しいほどに力強い。
「サ、サイラ!? 里のまとめ役が、なぜこんなところまで……」
テリオンが珍しく目を見開く。
サイラは獲物をドサリとテラスに下ろすと、荒い息をつきながら、胸元の護符を握りしめた。
「……我慢できなかったのよ! 里の連中が『テリオンは人間の女の店で、毎日甘いものに鼻の下を伸ばしている』なんて噂をするから……! 私は、確かめに来ただけなんだから!」
サイラはそう言い放つが、その赤紫の瞳は既にテリオンの姿を捉え、感情を隠せずに揺れている。
彼女は里を長く空けられない立場でありながら、その衝動を抑えきれずにここまでやってきたのだ。
「お久しぶりですわ、サイラ。最高の獲物を運んできてくださったのね」
「……あら、アリシア……ふん、相変わらずひ弱そうな女ね。いいわ、この私が命懸けで獲ってきたこの猪で、私の想いの方が重いってことを、テリオンに分からせてあげる!」
サイラは私をライバル視しながらも、テリオンの視界に自分がどう映っているかを必死に気にしている。
その戦士としての強さと、恋する少女のような脆さのギャップ。
これはまた、とてつもない「ノイズ」の予感に、私は不敵な笑みを浮かべた。
「よろしいですわ、サイラ。その挑戦、店主として喜んでお受けいたしますわ!」
◇
私は一瞬でエプロンを締め直し、サイラが獲ってきた紅猪の解体に取り掛かった。
今日のメインは、『紅猪のワイルドロースト・焦がし蜂蜜と三種のベリーソース』。
まずは、サシが綺麗に入ったロース肉を、厚さ三センチの豪快なステーキ状にカットする。
それを熱した鉄板に置き、一気に表面を焼き上げる。
ジューッ……!! という、脳を直接刺激するような激しい音が厨房に響く。
焼ける脂の甘い香りが、店内に充満していく。
裏庭から戻ってきたイグニスが、その香りに足を止め、ゾアが黄金の瞳を輝かせて鼻を鳴らす。
肉をひっくり返すと、そこには完璧なメイラード反応によって生まれた、美しい焦げ色の皮膜が出来上がっていた。
ソースは、テリオンがくれた山葡萄やお父様の大切にしているヴィンテージ・ワインに加え、森で摘んだ二種類の野苺を合わせ、私の「焦がし蜂蜜」をたっぷりと投入して煮詰める。
肉から出た脂を回しかけながら、じっくりと中まで熱を通し、仕上げに深紅のベリーソースを滝のように注ぎ込む。
「さあ、召し上がれ! 狩人の誇りと、私の情熱の一皿ですわ!」
「……うまい……サイラ、お前の狙いに一点の曇りもないのが、肉の鮮度で分かる」
テリオンが、一口ずつ丁寧に咀嚼する。
サイラはその様子を、さっきまでの強気はどこへやら、耳まで真っ赤にして見守っている。
「……当たり前でしょ……貴方が好きだって言ってた、森の北側で獲ったんだから……おいしい? テリオン」
「……ああ……だが、アリシアのこのソース、蜂蜜のコクが肉の野性味を一段階上の『美食』へと引き上げている……二人の力が合わさった結果だ」
一方で、ウォーレンがその様子を黙って見ているはずがなかった。
「おい、テリオン! 俺だって明日は熊を仕留めてきてやるよ! アリシア、俺の肉もそんな風に美味そうに焼いてくれるんだろ!?」
「ウォーレン、まずはそのヨダレを拭ってくださいませ……」
そこへカトリーナが「おーっほっほっほ! 見てくださいなジュリアン、この収拾のつかないゴミ溜めを!」と高笑いし、ジュリアンが「あ、あの……喧嘩はやめて、みんなで仲良く食べませんか……?」とオロオロする。
お父様は「私のヴィンテージ・ワインがまたソースに使われたああ!」と悲鳴を上げ、お母様は「ウォーレン一歩後退、サイラ乱入で倍率が混沌としてきたわね……ふふ、楽しいわ」とジャガイモを剥き続けている。
テリオンは、自分の周囲で渦巻く感情の嵐――あまりに巨大な「ノイズ」に、眉間に皺を寄せながらも、皿を空にした。
「……不作法な連中が増えたが……アリシア……この味だけは、私の芯に残る」
テリオンが不意に私の目を見つめてそう告げた。
その瞬間、サイラの「キーッ! テリオン、今のどういう意味よ!」という叫びと、ウォーレンの「おい、俺にもその肉を一口よこせ。チクショウ、美味すぎるじゃねえか!」という怒号が重なり合い、カフェのボルテージは最高潮に達した。
賑やかで、不作法で、愛おしいこの日常。
◇
食後、里へと帰るサイラを見送る。
「……アリシア……今日は礼を言うわ。でも、次は負けないわよ。次に私が来る時は、テリオンの隣を誰にも渡さないんだからね!」
サイラは不器用に髪をかき上げ、逃げるように森へと消えていった。
静寂が戻ったテラスで、私は胸元の「鍵」にそっと触れた。
ルイ様。
王都の空も、今頃は私たちが囲んだこのソースのような、深い深紅に染まっているのでしょうか。
貴方のいないこの一席が埋まる時、このノイズは一体どんな和音を奏でるのか。
私はそれを、期待と少しの不安を持って待っているのです。




