第5章 王都の偽石、月光花と深夜のコンポート
王都アストライア。
その華やかな表通りの喧騒から遠く離れた、古い石畳が常に湿り気を帯びる路地裏。
若き王ルイは、マントを深く被り、従者バルトと共に一軒の古びた店へと足を踏み入れていた。
そこは「鑑定士の隠れ家」と呼ばれる、王家御用達の彫金師ですら口にするのを憚る、伝説の鑑定士が住まう場所だった。
「……おやおや。アストライアの若き太陽が、このような薄汚れた穴蔵に何の御用ですかな?」
店内の奥、山のように積み上げられたガラクタの中から、一人の老婆が這い出してきた。
その濁った瞳は、ルイの正体を見抜いているかのように鋭く光る。
「……まどろっこしい挨拶は抜きにしよう。老婆よ。貴殿なら知っているはずだ。極北の深淵に眠り、見る者の心を映し出すという原石――『蒼月の涙』の在処を」
ルイの声は冷徹で、王としての威厳に満ちている。
だが、老婆は卑屈な笑みを浮かべ、カウンターの下から一つの黒い布に包まれた箱を取り出した。
「……ございますとも。これこそが、貴方がお探しの『至高の愛』を証明する石……」
老婆が布を解くと、中から現れたのは、夜の闇を凝縮したような深い青色の宝石だった。
それはまるで生きているかのように脈打ち、妖しい光を放っている。
傍らに控えていたバルトが、その輝きを一目見た瞬間に顔を青くした。
「……ルイ様、いけません! それは伝説の原石などではない。持つ者の独占欲を増幅させ、理性を狂わせるという呪いの石『渇望の瞳』です!」
バルトが鋭い警告を発し、ルイの前に割って入る。
老婆の笑みが深まった。
「……ふふふ。王よ。貴方の心は今、焦がれるような独占欲に焼かれているのではないかな? 独占したい、閉じ込めたい……この石を使えば、彼女の心も体も、永遠に貴方の思うがまま……」
ルイの右手の紋章が、呼応するように激しく拍動した。
だが、ルイが放ったのは、老婆を沈黙させるほどの冷たい魔圧だった。
「……私は、彼女を『支配』するために宝石を探しているのではない。彼女の自由な魂を、そのままの輝きで私の隣に繋ぎ止めるための『約束』を求めているのだ」
ルイが手を翳すと、黄金の魔力が「渇望の瞳」を粉々に砕き散らした。
「行こう、バルト。本物は、もっと深く、清らかな場所にしかないはずだ」
◇
一方、王都の緊迫感など知る由もない国境の森。
昼間の賑やかさが嘘のように、カフェ・ヴァレンタインは深い静寂に包まれていた。
私は片付けを終え、テラスで夜風に当たりながら、少しだけ熱を持った頬を冷ましていた。
ウォーレンの熱烈すぎる言葉、そして遠く離れたルイ様への募る想い。
それらが心の中で渦を巻き、どうしても眠りにつけなかったのだ。
すると、影が伸びるように、音もなくテリオンが隣に立った。
「……アリシア。寝付けないのか」
「テリオン……ええ、少しだけ。月が、あまりに綺麗でしたので」
カメリア色の瞳が、夜空の月を映して静かに光る。
テリオンは何も言わず、私の隣にただ立っていた。
ウォーレンのような騒がしさはなく、けれど冷たい風を遮るように私の風上に立ってくれる、その静かな献身。
「……少し、森を歩くか。夜の花が、今だけ咲いている」
◇
私は彼に促されるまま、月明かりの森へと足を踏み入れた。
テリオンの歩みは驚くほど静かだ。
彼は時折、張り出した枝を私のために手で避け、ぬかるんだ地面があれば無言で手を取り、私を導いてくれる。
ダークエルフの持つ独特の冷涼な気配が、昂ぶっていた私の心を少しずつ凪いでいった。
森の奥、月光が溜まる小さな泉のほとりに、その花はあった。
――月光花。
月の光を吸って、白銀色に淡く発光する、一夜限りの奇跡。
「……綺麗。テリオン、こんなに素敵な場所を知っていたのですのね」
「……お前に見せたかった。アイツらのように、お前を無理に連れ回すつもりはない。ただ、お前が疲れたときに、帰る場所がここにあればいいと思っている」
テリオンが、私の隣で静かに腰を下ろした。
彼は私の手を握ることも、甘い言葉で囁くこともない。
けれど、彼が発する「静かな執着」は、冷たい夜気の中で不思議なほどの熱を持って私を包み込んでいた。
「アリシア。ルイが戻るまで、私はここでお前の影で居続ける……お前が、誰の光を選ぶとしてもだ」
その言葉に含まれた重みに、私は呼吸を忘れた。
ルイ様のように眩しくなく、ウォーレンのように熱くない。
けれど、どこまでも深く染み渡るような、暗闇の優しさがそこにはあった。
◇
森から戻ったとき、夜気で身体はすっかり冷え切っていた。
テリオンはそのまま影に消えようとしたけれど、私は彼の袖をそっと引いた。
「テリオン、少し待って……冷えたでしょう? 身体を温めるものを淹れますわ」
棚から取り出したのは、小ぶりの洋梨。
それを丁寧に剥き、芯を除いて厚めにスライスする。
小さな手鍋にバターを落とし、梨を並べる。
バターが溶けてジッという音が響き、甘い香りが厨房に漂い始めた。
そこに、私の特製「焦がし蜂蜜」をたっぷりと加え、少量のシナモンとクローブを散らす。
「……いい香りだ。お前の作るものは、夜の匂いがする」
カウンターに腰掛けたテリオンが、暗がりの中でポツリと呟いた。
私は梨が透き通るまでじっくりと煮詰め、最後に香り付けに少しの赤ワインを落とす。
「お待たせいたしました。『洋梨と焦がし蜂蜜のホットコンポート』ですわ」
立ち昇る湯気が、スパイスの香りと共に二人の間を埋める。
スプーンで梨を一口運べば、とろけるような食感と共に、蜂蜜の濃厚なコクと果実の爽やかな酸味が口いっぱいに広がった。
身体の芯から、じわじわと温もりが解けていく。
「……甘いな。だが、お前が作る甘さは、私を惑わせる」
テリオンは一口ずつ、慈しむようにコンポートを口に運んだ。
静寂の中で響くスプーンの音と、微かな薪の弾ける音。
ルイ様への想い、ウォーレンへの戸惑い。
それらが消えたわけではないけれど、今、この瞬間だけは、テリオンという静かな影に身を預けてもいいような気がした。
「……アリシア。ルイが持ち帰る宝石より先に、私のこの熱がお前を射止めればいいと、思わずにはいられない」
テリオンが私を見つめる瞳は、いつになく熱く、そして孤独だった。
私は何も答えられず、ただ冷めかけたコンポートの器を握りしめることしかできなかった。
王都で戦うルイ様への想いと、隣で静かに、けれど苛烈な執着を燃やすテリオン。
秋の夜は、まだ始まったばかりだった。




