第3話 頬染める山葡萄のソース、至高の一石を求めた旅
空の青さが少しずつ高くなり、風の中に微かな涼しさが混じり始めた。
国境の森は、夏の終わりの濃い緑を残しながらも木々の梢がわずかに黄金色を帯び始めている。
日中の陽光はまだ肌を刺すような熱を持っているが、朝夕の湿り気を帯びた空気は、季節が確実に移ろっていることを告げていた。
私が開店前のテラスで、夏の名残であるハーブの鉢を整えていると、音もなく背後に気配が立った。
「……アリシア。これを使え。旬の走りの山葡萄だ。少し酸味が強いが、煮詰めればお前の料理に合う」
テリオンが、籠いっぱいに詰められた深い紫色の実を差し出してきた。
カメリア色の瞳は、相変わらず静かな湖面のように私の姿を映している。
彼は多くを語らない。
けれど、この瑞々しい実を見つけるために、彼がどれほど深く、険しい森を歩き回ったかは、その指先に残るわずかな土の汚れが物語っていた。
「ありがとうございます、テリオン。丁度、今朝のガレットに合わせるソースの隠し味を探していたところですわ。これなら、チーズの塩気を最高に引き立ててくれそうですわね」
「……お前が望むなら、何度でも獲ってくる。お前の手は、火を操るためだけに空けておけ」
テリオンは私の感謝を短く受け流すと、まるで最初からそこにいなかったかのように、森の深い影へと溶け込んでいった。
彼はいつもそうだ。
見返りも派手な言葉も求めず、ただ「影」として、当たり前のように私の日常の隙間を埋めてくれる。
だが、そんな静寂に満ちた朝の均衡を、雷のような豪快な足音が打ち破った。
「おーい、アリシア! 朝からアイツと何しっぽりしてんだよ。ほら、今日の力仕事は全部俺に任せろ!」
ウォーレンが、袖を捲り上げた軽装の姿で、満面の笑みを浮かべて現れた。
夏の熱気をそのまま纏ったような逞しい腕には、既にひと抱えもの薪が抱えられている。
彼は私の制止も聞かずに、ひょいとカウンターを乗り越えて厨房の内側へと侵入してきた。
「ちょっと、ウォーレン! 厨房は聖域ですわ、不作法に踏み込まないでくださる?」
「いいだろ。なあアリシア、さっきの葡萄より、俺が獲ってきた猪の方がずっとあんたを喜ばせられるぜ? それとも……俺自身の方が、もっとあんたを喜ばせられるか?」
ウォーレンが、私の腰を抱き寄せるような近さまで大胆に距離を詰めてくる。
スモークブルーの瞳が至近距離で私を捉え、その瞳には「幼馴染」という皮を脱ぎ捨てた、一人の男としての剥き出しの情熱が宿っていた。
「……ウォーレン、その逞しい腕は、お客様が座るための椅子を運ぶために使ってくださいませ。さあ、そこを退いて。今からソースを煮込みますのよ」
私は手に持った重厚な鉄のフライパンを、そっと、けれど確実な遮断の意思を持って二人の間に差し入れた。
熱烈な視線を平然と受け流し、物理的な距離を保つ。
これはルイ様が不在のこの数日間で、私が磨き上げた「不作法な男への対処法」だ。
「ちぇっ、相変わらずガードが固えな……まあいいさ。王様が帰ってくる頃には、あんたのそのフライパンも、俺を迎え入れるために振るわれるようになってるはずだぜ」
ウォーレンは不敵に笑い、私の銀髪を一房だけ指先で弄ると、名残惜しそうにテラスへと戻っていった。
「……お嬢様。誠に申し上げにくいのですが、当店はカフェであって、不作法な男たちの求愛場ではございません。その『フライパンの盾』にも、そろそろ限界があるかと思われますが」
背後で一部始終を見ていたクラリスが、淡々と床を磨きながら口を開いた。
「クラリス……分かっていますわよ。でも、あの方たちを止めるのは、夏の嵐を素手で止めるようなものですわ」
「お嬢様がそうやって受け流すから、彼らの『勘違い』という名のスパイスがどんどん濃くなるのです。お父様はワイン蔵で泣き、お母様はジャガイモを剥きながら賭けを始めていらっしゃいますよ……『誰が最初に、アリシアのフライパンを降ろさせるか』と」
「……もう、家の中まで不作法なんですのね!」
私は赤くなる頬を隠すように、テリオンからもらった葡萄をボウルに入れ、木べらで力強く潰し始めた。
溢れ出す濃紫の果汁が、私の動揺を飲み込んでいく。
このモヤモヤとした熱を鎮めるには、無心で料理に向き合うのが一番だ。
小鍋に潰した葡萄を移し、少量の赤ワインと、私の特製「焦がし蜂蜜」をたっぷり加える。
弱火でじっくり煮詰めれば、葡萄の野生味溢れる酸味と、蜂蜜のほろ苦い甘みが融合し、まるで宝石のルビーのような輝きを放つソースへと変わっていく。
「ふぅ……次は生地ですわね」
そば粉に塩と水を加え、ダマにならないよう丁寧に混ぜ合わせる。
熱したフライパンにバターを滑らせ、生地を薄く、円を描くように広げる。
ジッ、という小気味よい音と共に、香ばしいナッツのような香りが厨房に広がった。
生地の中央に、濃厚なグリュイエールチーズと、ウォーレンが昨日届けてくれた猪肉の塩漬けを薄切りにして並べる。
さらにその上に卵を落とし、生地の四方を畳んで正方形に整える。
仕上げに、先ほど仕込んだばかりの「山葡萄ソース」をたっぷりと。
「できましたわ。皆様、賄の時間ですわよ!」
「待ってました! おお、このソースの酸味、猪肉の脂っこさを完璧に中和してやがる。アリシア、やっぱりあんたと俺は、食い合わせも最高だな!」
ウォーレンがガレットを頬張りながら、またもや不敵な笑みを向ける。
影からはテリオンが音もなく現れ、自分の皿を確保した。
「……葡萄の渋みが、肉の野卑な味を殺している。アリシア。これこそが、私の求めていた調和だ」
不作法な男たちの視線と、それぞれの称賛。
私はフライパンを置くことも忘れ、再び高くなる鼓動を誤魔化すように、忙しく次の仕込みへと手を動かした。
◇
一方、喧騒の森から遠く離れた王都。
ルイは、窓から差し込む冷たく厳かな朝光を背に、巨大な宝石の目録を机に広げていた。
傍らには、バルトが用意した最高級の紅茶が湯気を上げているが、ルイはその一口すら口に運んでいない。
彼のエメラルドの瞳は、ある一点を、飢えた猛獣のような鋭さで見つめていた。
「……ルイ様。既に、王家の宝物庫にある『星屑の雫』ではご不満なのですか? あれはかつての女王が愛した、国宝級のサファイアですが」
バルトが静かに問いかける。
ルイは目録を指でなぞり、低く、けれど重みのある声で応えた。
「……バルト。彼女の瞳は、ただのサファイアでは表現できない。光の加減で変わるマリンブルー、そしてその奥に宿る自由な魂。ありきたりの国宝など、彼女の誇りを縛るにはあまりに軽すぎる」
ルイの脳裏には、今この瞬間も彼女の傍に居座っているであろうウォーレンの姿が浮かんでいた。
幼馴染という、自分には決して手に入らない「時間」を持つ男。
そして、音もなく彼女に寄り添う狩人の存在。
「……一刻も早く、彼女を私の名で塗りつぶしたい。この右手の紋章よりも強固な、逃れられない『約束』で彼女を繋ぎ止める……そのためには、世界で唯一、彼女だけを象徴する石が必要だ」
ルイの指先が、目録の隅に記された古い伝説の上で止まった。
『蒼月の涙――極北の地の深淵に眠り、見る者の心を映し出すという幻の原石』
「……これを探す。公務を最短で片付けろ、バルト。私は、あの森の狼に、彼女の笑顔を独占させるつもりはない」
「……畏まりました。ルイ様のその『不作法な情熱』、全力でお支えいたしましょう」
王の決意が、静まり返った執務室に炎のような魔力の揺らぎを生んでいた。
至高の一石を巡る旅。
それは、愛という名の「支配」を望む、若き王の挑戦でもあった。




