第2話 菓子職人の贈り物、あるいは狼の甘い強襲
ルイ様とバルトが王都へと旅立ってから、三日が過ぎた。
主を失った離れのログハウスは静まり返っているが、代わりに従者であるバルトがいつも控えていたカウンターの特等席を、我が物顔で陣取っているのは不敵な笑みを隠そうともしないウォーレンだった。
「おい、アリシア。そんなに寂しそうな顔をして窓の外を見るなよ……俺がここにいるだろ?」
ウォーレンがカウンター越しに身を乗り出し、私の顔を覗き込んでくる。
夜空を溶かし込んだような濃紺の髪がランプの光を弾き、スモークブルーの瞳が熱烈な光を湛えて私を射抜いた。
「……別に、寂しがってなどいませんわ。ただ、ルイ様がいらっしゃらないと、書類の整理が滞って困るだけですの」
「はっ、可愛くねえ嘘だな。いいか、アリシア。あいつがいねえ間くらい、俺にあんたを独占させてくれよ。幼馴染のよしみで、たっぷりと思い出させてやる……あの花畑で交わした約束、俺は一度だって忘れたことはねえんだ」
ウォーレンが私の指先に、その逞しい手を重ねようとした――その時。
コン、コン、と勢いよく扉が叩かれ、元気な声が響き渡った。
「ご無沙汰しております! アリシアさん、一周年おめでとうございます!」
扉を開けると、そこには燃えるような赤銅色の髪をツインテールにした少女、リルムが立っていた。
背中には以前と変わらず、体と同じくらい大きな道具鞄を背負っている。
「リルム! まあ、一周年のお祝いに来てくださったのね!」
「もちろんですわ! アリシアさんにどうしても受け取ってほしいものがあって、買い出しのついでに走ってきましたの!」
リルムはカウンターに鞄をドサリと置くと、中から厳重に冷やされた小さな木箱を取り出した。
蓋を開けた瞬間、厨房に立ち込めたのは、信じられないほど濃厚で、それでいて爽やかな「牧草の香り」だった。
「これ、秋の数週間の間だけ、北の高原で育った牛から採れる『黄金の収穫バター』なんです! 普通のバターよりも水分が少なくて、香りがナッツみたいに芳醇なんですわ」
リルムが差し出したバターは、名前の通り、夕焼けのような深い黄金色をしていた。
私が指先で少し掬って口に含むと、驚くほど滑らかな口溶けと共に、秋の草原を駆け抜けるような豊かなコクが鼻を抜けていく。
「……素晴らしいわ、リルム。これほどのバター、菓子職人なら誰もが喉から手が出るほど欲しがる品ですわね」
「はい! これを活かせるのは、世界でアリシアさんだけだと思って! これを使って、一周年のお祝いに、最高に『不作法』なスイーツを作ってくださいな!」
◇
若き職人の熱意に応えないわけにはいかない。
私は即座にエプロンの紐を締め直し、厨房の奥で優雅に茶を啜っていた宮廷魔導師へと声をかけた。
「カトリーナ! オーブンの火加減をお願いできますかしら? この最高級のバターを焼き上げるには、貴女の繊細な魔力が必要なのですわ」
「おーっほっほっほ! この私が直々に火番をしろとおっしゃるの? ……いいでしょう、このゴミ溜めで一番まともな食材に免じて、最高の温度を用意して差し上げますわ!」
カトリーナが派手な魔導衣の裾を翻し、指先から紅蓮の炎を放つ。
彼女の操る魔法の火は、オーブンの内側を完璧な一定温度に保ち、焼き上げの準備を整えていく。
彼女の真紅の瞳は、まるで宝石のように火の色を反射していた。
私は手鍋に黄金バターを落とし、弱火でゆっくりと熱していく。
火が通るにつれ、パチパチという軽快な音が響き、バターが溶けて澄んだ液体へと変わる。
さらに加熱を続けると、白い泡が立ち昇り、香りが「ミルク」から「香ばしいヘーゼルナッツ」へと劇的な変化を遂げた。
絶妙なタイミングで火から下ろすと、そこへ私の代名詞である「特製の焦がし蜂蜜」を投入する。
ジュワッ、という音と共に、蜂蜜のほろ苦い甘みとブラウンバターの芳醇なコクが混ざり合い、厨房全体が抗い難いほどの甘美な香りに包み込まれた。
アーモンドパウダーと卵白を合わせた生地に、この「黄金の液体」をたっぷりと混ぜ込み、カトリーナの管理するオーブンへと滑り込ませた。
数分後、オーブンからは表面がこんがりとキツネ色に焼き上がり、縁はカリッと、中は驚くほどしっとりとしたフィナンシェが姿を現した。
「さあ、焼き立てですわよ。リルム、召し上がれ」
リルムは待ちきれない様子で、火傷しそうなほど熱いフィナンシェを両手で受け取った。
そのまま大きく一口かじると、彼女の若草色の瞳が、驚愕で見開かれた。
「……っ!! すごいですわアリシアさん! バターの香りが、ただ濃いだけじゃなくて、焦がし蜂蜜と合わさって、まるで森の奥で熟成された蜜を食べているみたい……! 表面のサクサク感と、中のじゅわっと溢れるバターの質感が、私の持ってきた『黄金』をこれ以上ないほど幸せにしていますわ!」
リルムは頬を染め、恍惚とした表情で二口目へと運ぶ。
その様子に満足しながら、私はウォーレンの前にも一皿を置いた。
「ウォーレン、貴方の分もございますわよ」
「……っ、この匂い、反則だろ。あんたの店にいると、腹が減る以上に、心が落ち着かねえ」
ウォーレンは豪快に一口かじると、そのまま私の方へ一歩詰め寄った。
カウンター越しの至近距離。
彼のスモークブルーの瞳が、これまでにないほど真剣に、そして甘く私を捉える。
「アリシア……美味すぎる……でも、これだけじゃ足りねえな」
ウォーレンは食べ終えた指先を拭うこともせず、そのまま私の頬にそっと触れた。
彼の指先から伝わる熱が、私の思考を白く塗り替えていく。
「なあ、アリシア。あいつは、あんたに綺麗な宝石を持ってくるつもりらしいが……俺は、あんたのこの指先が作る『温かい味』を、誰よりも近くで守ってやりたい。宝石なんて冷てえ石ころより、俺の体温の方が、あんたを安心させられると思わねえか?」
「……ウォーレン、貴方。不作法ですわ。お客様が見ていますのに」
「いいんだよ。俺は本気なんだ、アリシア。あんたを取られるくらいなら、俺は不作法な狼にだってなってやるよ」
ウォーレンが私の耳元で囁く。
その低く震える声に、私の心臓が不規則なビートを刻み始める。
「ちょっと、そこの不作法な狼! 私の神聖なオーブンの前で、見苦しい痴話喧嘩を披露しないでくださる? ……まあ、ルイがいない間くらい、少しは楽しませてあげても良いですけど。おーっほっほっほ!」
カトリーナが扇子を広げ、吊り上がった真紅の瞳を細めて二人を冷やかす。
その横でお皿を洗っていたお母様も、愉しげに口を開いた。
「あらあら。ルイ様がいらっしゃらないと、森の狼さんは随分と積極的ですこと。ルイ様が戻られた時に、この光景を見せて差し上げたいくらいだわ」
「お母様! カトリーナ! 今は仕事に集中してくださいませ!」
赤面する私をよそに、二人は楽しそうに笑い合う。
テラスの隅ではテリオンが不機嫌そうに矢を磨き、ゾアがガハハと笑いながらガレットを追加注文していた。
◇
やがて、至福の試食会を終えたリルムが、満足げに道具鞄を背負い直した。
「ありがとうございました、アリシアさん! 黄金のバターが、あんなにドラマチックな一皿になるなんて……私、また新しいインスピレーションが湧いてきました! ……あ、それとウォーレンさん。アリシアさんをあんまり困らせちゃダメですよ?」
「……分かってるって。ほら、これ道中で食えよ。余ったフィナンシェだ」
ウォーレンが不器用そうに手渡した小さな包みを受け取り、リルムは満面の笑みで頷いた。
「はい! アリシアさん、また遊びに来ますね! 一周年、本当におめでとうございます!」
リルムは軽やかな足取りで、秋の陽だまりの中へと帰っていった。
彼女の赤銅色の髪が見えなくなるまで見送り、私はようやく深く息を吐く。
けれど、隣からは依然として、狼のような熱い視線が私を射抜いたままだった。
ルイ様のいないカフェ・ヴァレンタイン。
秋の風は涼しいはずなのに、私の頬に触れたウォーレンの指先の熱だけが、いつまでも消えずに残っていた。




