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店主アリシアは美味しく未来を調理する 〜婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の上客に甘やかされて困ってます〜  作者: 白月つむぎ
第6章

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第2話 菓子職人の贈り物、あるいは狼の甘い強襲

 ルイ様とバルトが王都へと旅立ってから、三日が過ぎた。


 主を失った離れのログハウスは静まり返っているが、代わりに従者であるバルトがいつも控えていたカウンターの特等席を、我が物顔で陣取っているのは不敵な笑みを隠そうともしないウォーレンだった。


「おい、アリシア。そんなに寂しそうな顔をして窓の外を見るなよ……俺がここにいるだろ?」


 ウォーレンがカウンター越しに身を乗り出し、私の顔を覗き込んでくる。

 夜空を溶かし込んだような濃紺の髪がランプの光を弾き、スモークブルーの瞳が熱烈な光を湛えて私を射抜いた。


「……別に、寂しがってなどいませんわ。ただ、ルイ様がいらっしゃらないと、書類の整理が滞って困るだけですの」


「はっ、可愛くねえ嘘だな。いいか、アリシア。あいつがいねえ間くらい、俺にあんたを独占させてくれよ。幼馴染のよしみで、たっぷりと思い出させてやる……あの花畑で交わした約束、俺は一度だって忘れたことはねえんだ」


 ウォーレンが私の指先に、その逞しい手を重ねようとした――その時。

 コン、コン、と勢いよく扉が叩かれ、元気な声が響き渡った。


「ご無沙汰しております! アリシアさん、一周年おめでとうございます!」


 扉を開けると、そこには燃えるような赤銅色の髪をツインテールにした少女、リルムが立っていた。

 背中には以前と変わらず、体と同じくらい大きな道具鞄を背負っている。


「リルム! まあ、一周年のお祝いに来てくださったのね!」


「もちろんですわ! アリシアさんにどうしても受け取ってほしいものがあって、買い出しのついでに走ってきましたの!」


 リルムはカウンターに鞄をドサリと置くと、中から厳重に冷やされた小さな木箱を取り出した。

 蓋を開けた瞬間、厨房に立ち込めたのは、信じられないほど濃厚で、それでいて爽やかな「牧草の香り」だった。


「これ、秋の数週間の間だけ、北の高原で育った牛から採れる『黄金の収穫バター』なんです! 普通のバターよりも水分が少なくて、香りがナッツみたいに芳醇なんですわ」


 リルムが差し出したバターは、名前の通り、夕焼けのような深い黄金色をしていた。

 私が指先で少し掬って口に含むと、驚くほど滑らかな口溶けと共に、秋の草原を駆け抜けるような豊かなコクが鼻を抜けていく。


「……素晴らしいわ、リルム。これほどのバター、菓子職人なら誰もが喉から手が出るほど欲しがる品ですわね」


「はい! これを活かせるのは、世界でアリシアさんだけだと思って! これを使って、一周年のお祝いに、最高に『不作法』なスイーツを作ってくださいな!」


 ◇


 若き職人の熱意に応えないわけにはいかない。

 私は即座にエプロンの紐を締め直し、厨房の奥で優雅に茶を啜っていた宮廷魔導師へと声をかけた。


「カトリーナ! オーブンの火加減をお願いできますかしら? この最高級のバターを焼き上げるには、貴女の繊細な魔力が必要なのですわ」


「おーっほっほっほ! この私が直々に火番をしろとおっしゃるの? ……いいでしょう、このゴミ溜めで一番まともな食材に免じて、最高の温度を用意して差し上げますわ!」


 カトリーナが派手な魔導衣の裾を翻し、指先から紅蓮の炎を放つ。

 彼女の操る魔法の火は、オーブンの内側を完璧な一定温度に保ち、焼き上げの準備を整えていく。

 彼女の真紅の瞳は、まるで宝石のように火の色を反射していた。


 私は手鍋に黄金バターを落とし、弱火でゆっくりと熱していく。

 火が通るにつれ、パチパチという軽快な音が響き、バターが溶けて澄んだ液体へと変わる。

 さらに加熱を続けると、白い泡が立ち昇り、香りが「ミルク」から「香ばしいヘーゼルナッツ」へと劇的な変化を遂げた。


 絶妙なタイミングで火から下ろすと、そこへ私の代名詞である「特製の焦がし蜂蜜」を投入する。

 ジュワッ、という音と共に、蜂蜜のほろ苦い甘みとブラウンバターの芳醇なコクが混ざり合い、厨房全体が抗い難いほどの甘美な香りに包み込まれた。

 アーモンドパウダーと卵白を合わせた生地に、この「黄金の液体」をたっぷりと混ぜ込み、カトリーナの管理するオーブンへと滑り込ませた。


 数分後、オーブンからは表面がこんがりとキツネ色に焼き上がり、縁はカリッと、中は驚くほどしっとりとしたフィナンシェが姿を現した。


「さあ、焼き立てですわよ。リルム、召し上がれ」


 リルムは待ちきれない様子で、火傷しそうなほど熱いフィナンシェを両手で受け取った。

 そのまま大きく一口かじると、彼女の若草色の瞳が、驚愕で見開かれた。


「……っ!! すごいですわアリシアさん! バターの香りが、ただ濃いだけじゃなくて、焦がし蜂蜜と合わさって、まるで森の奥で熟成された蜜を食べているみたい……! 表面のサクサク感と、中のじゅわっと溢れるバターの質感が、私の持ってきた『黄金』をこれ以上ないほど幸せにしていますわ!」


 リルムは頬を染め、恍惚とした表情で二口目へと運ぶ。

 その様子に満足しながら、私はウォーレンの前にも一皿を置いた。


「ウォーレン、貴方の分もございますわよ」


「……っ、この匂い、反則だろ。あんたの店にいると、腹が減る以上に、心が落ち着かねえ」


 ウォーレンは豪快に一口かじると、そのまま私の方へ一歩詰め寄った。

 カウンター越しの至近距離。

 彼のスモークブルーの瞳が、これまでにないほど真剣に、そして甘く私を捉える。


「アリシア……美味すぎる……でも、これだけじゃ足りねえな」


 ウォーレンは食べ終えた指先を拭うこともせず、そのまま私の頬にそっと触れた。

 彼の指先から伝わる熱が、私の思考を白く塗り替えていく。


「なあ、アリシア。あいつは、あんたに綺麗な宝石を持ってくるつもりらしいが……俺は、あんたのこの指先が作る『温かい味』を、誰よりも近くで守ってやりたい。宝石なんて冷てえ石ころより、俺の体温の方が、あんたを安心させられると思わねえか?」


「……ウォーレン、貴方。不作法ですわ。お客様が見ていますのに」


「いいんだよ。俺は本気なんだ、アリシア。あんたを取られるくらいなら、俺は不作法な狼にだってなってやるよ」


 ウォーレンが私の耳元で囁く。

 その低く震える声に、私の心臓が不規則なビートを刻み始める。


「ちょっと、そこの不作法な狼! 私の神聖なオーブンの前で、見苦しい痴話喧嘩を披露しないでくださる? ……まあ、ルイがいない間くらい、少しは楽しませてあげても良いですけど。おーっほっほっほ!」


 カトリーナが扇子を広げ、吊り上がった真紅の瞳を細めて二人を冷やかす。

 その横でお皿を洗っていたお母様も、愉しげに口を開いた。


「あらあら。ルイ様がいらっしゃらないと、森の狼さんは随分と積極的ですこと。ルイ様が戻られた時に、この光景を見せて差し上げたいくらいだわ」


「お母様! カトリーナ! 今は仕事に集中してくださいませ!」


 赤面する私をよそに、二人は楽しそうに笑い合う。

 テラスの隅ではテリオンが不機嫌そうに矢を磨き、ゾアがガハハと笑いながらガレットを追加注文していた。


 ◇


 やがて、至福の試食会を終えたリルムが、満足げに道具鞄を背負い直した。


「ありがとうございました、アリシアさん! 黄金のバターが、あんなにドラマチックな一皿になるなんて……私、また新しいインスピレーションが湧いてきました! ……あ、それとウォーレンさん。アリシアさんをあんまり困らせちゃダメですよ?」


「……分かってるって。ほら、これ道中で食えよ。余ったフィナンシェだ」


 ウォーレンが不器用そうに手渡した小さな包みを受け取り、リルムは満面の笑みで頷いた。

 

「はい! アリシアさん、また遊びに来ますね! 一周年、本当におめでとうございます!」


 リルムは軽やかな足取りで、秋の陽だまりの中へと帰っていった。

 彼女の赤銅色の髪が見えなくなるまで見送り、私はようやく深く息を吐く。


 けれど、隣からは依然として、狼のような熱い視線が私を射抜いたままだった。


 ルイ様のいないカフェ・ヴァレンタイン。

 秋の風は涼しいはずなのに、私の頬に触れたウォーレンの指先の熱だけが、いつまでも消えずに残っていた。

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