第1話 祝一周年のスペシャリテ、三つ巴の視線と王の旅立ち
国境の森が、燃えるような黄金と鮮烈な朱色に染まった。
風が吹くたびに、乾いた落ち葉がカサカサと小気味よい音を立てて舞い踊る。
空はどこまでも高く、透き通るような秋の青さが広がっている。
私がこの森に逃げ込み、一軒の古びた空き家を「カフェ・ヴァレンタイン」として再生させてから、ちょうど一年。
当初は自分とクラリスが静かに暮らすための隠れ家のつもりだったこの場所は、今やかつてないほどの人々と、そして「不作法な賑やかさ」に満たされている。
「お母様、そのジャガイモはもう少し厚めに剥いてくださる? 今夜はホクホクとした食感を楽しめる一周年記念のグラタンにしますの」
「分かっているわ、アリシア。泥を落とし、皮を剥く。完璧な円を描くように……ふぅ、ヴァレンタインの誇りがジャガイモの皮と共に削られていくようですわね」
厨房では、最高級のシルクをエプロンで包み込んだお母様が、真剣な眼差しでピーラーを握っている。
隣では、お父様が大切そうに抱えてきたヴィンテージ・ワインのボトルを、クラリスが容赦なく「振る舞い用」の棚へと並べ替えていた。
「アリシアァァ! その『女王の涙』だけは、せめて私がお客様に注がせてくれ! 煮込みの隠し味にするなど、あまりにも不作法……っ!」
「お父様、今日は一周年記念ですわ。お客様に最高の喜びを届けるのが、店主の、そして家族の役目でしょう?」
「……うう。娘が立派になりすぎて、父の涙が止まらんよ。クラリス、ハンカチを……」
「閣下、涙を拭いてください。磨き粉がつきます」
一年前には想像もできなかった、ヴァレンタイン公爵家の「日常」。
私は窓から差し込む柔らかな秋の陽光を浴びながら、今日という特別な日のための仕込みを完成させた。
◇
正午を回ると、森の静寂はどこへやら、カフェのテラス席は予約で満席となった。
ゾアが巨躯を揺らして座り、イグニスがハーブを片手に現れ、カトリーナとジュリアンがアビーと共に降り立つ。
マルクス率いる騎士たちが賑やかに周囲を囲む中、私は一年間の感謝を込めたスペシャリテを運び出した。
まず運ばれたのは、『森の栗と厚切りベーコンのガレット・焦がし蜂蜜仕立て』。
そば粉の生地は端がカリッと焼き切られ、鉄板の熱で香ばしい匂いが立ち昇る。
その上には、じっくり煮詰めた栗のペーストと、脂身が甘い厚切りベーコンが鎮座する。
ナイフを入れれば、中央に落とした卵の黄身がとろりと溢れ出し、仕上げに回し掛けた焦がし蜂蜜のほろ苦い甘さと混ざり合う。
栗の素朴な滋味と肉の塩気。
それらが絶妙な均衡で重なり合い、一口ごとに口の中で「秋」が爆発するような一品だ。
続いて供されたのは、『三種のキノコと公爵家秘蔵ワインの濃厚スープ』。
お父様の秘蔵ワインをあえて贅沢に煮詰め、芳醇なコクだけを抽出した漆黒の液体。
そこへバターでソテーしたポルチーニの力強い香りが加わる。
一口含めば、キノコの圧倒的な「土の旨味」がワインの熟成された深い香りと共に鼻を抜けていく。
それは名門ヴァレンタイン家の重厚な歴史を飲み干すような、不作法なほど贅沢な味わい。
そして最後は、『お母様が剥いたジャガイモの黄金グラタン』。
お母様が慣れない手つきで一生懸命に剥いたジャガイモを薄くスライスし、最高級の生クリームとチーズを幾重にも重ねてオーブンへ。
表面には焦げたチーズが黄金の膜を張り、スプーンを差し込めば中からホクホクと湯気を上げる真っ白なジャガイモが顔を出す。
生クリームの優しさが、お母様の不器用な努力を包み込んでいる、この店で一番温かな一皿だ。
「――おお、このグラタン! オリヴィアの剥いたジャガイモは、なんて……なんて甘いんだ!」とお父様が感動し、お母様が「当然ですわ。私の指先の感覚をすべて注ぎ込みましたもの」と、不敵に、けれどどこか誇らしげに微笑む。
幸せな「家族の味」が広がる一方で、カウンターの特等席では、三人の男たちの視線がアリシアを巡って火花を散らしていた。
「……美味いな、アリシア。あんたがこの森に逃げ込んできてから一年か。俺がもっと早くあんたを連れ去っていれば、この一年、もっと甘い時間を過ごせたのにな」
ウォーレンが、フォークを置かずに私を見つめる。
スモークブルーの瞳には、「幼馴染」という立場を武器にした、剥き出しの親愛が宿っている。
「ウォーレン、貴方は食べ終わったら薪割りの手伝いをしてくださる? 居候をさせる条件でしたわよ」
「ああ、分かってるって。あんたの隣にいられるなら、俺は一生この店の雑用係でも構わない……なぁ、アリシア。俺、あんたとの『あの約束』、本気で果たしに来たんだぜ?」
ウォーレンが私の手を不意に掴み、その指先に軽く唇を寄せようとする。
刹那。
その手に、ルイ様が持っていた銀のカトラリーが、カチンと鋭い音を立てて重なった。
「……ウォーレン。一人の『男』として助言しよう。アリシアは今、店主として忙しい。不作法な接触は控えてもらいたいな」
夕焼け色の髪をなびかせ、エメラルドの瞳を氷のように冷たく光らせたルイ様。
彼の右手の「太陽の紋章」が、威嚇するように黄金の光を放つ。
「はっ、出たな、王様。あんたは『王』としての公務で、いずれここを離れる身だろ? アリシアの隣に四六時中いられるのは、俺みたいな自由人の方だよ」
「……公務の合間を縫ってでも、私はここへ来る。彼女には魂の『鍵』を預かってもらっているからね」
ルイ様が、私の胸元のペンダント――彼から預かった鍵――を指差す。
黄金の守護者と、紺青の狼。
二人の間で、空気がピリピリと震える。
そこへ、影の中から音もなく現れたテリオンが、無造作に二人の間に割って入った。
「……二人とも、朝からノイズが過ぎる。アリシア。髪に、栗の殻がついている」
テリオンがカメリア色の瞳を細め、私の髪に指を伸ばした。
その声には、誰よりも深く、静かな独占欲が滲んでいる。
彼は二人を無視して、私にだけ聞こえる声で囁いた。
「……薪割りも、水汲みも、すべて私が終わらせた。お前は、料理のことだけを考えていればいい……お前の影は、私だけで十分だ」
「テリオン……ありがとうございます。でも皆様、喧嘩をするならテラスの端でやってくださる?」
私が最高の笑顔(という名の威圧)を浮かべると、最強の男たち三人が同時に口をつぐんだ。
「ふふ、不作法な男たちに囲まれて、アリシアも大変ね。でも、あんなに熱烈に求められるなんて……ジャガイモを剥く甲斐があるというものだわ」
お母様が、皿洗いの手を止めて愉しげに笑う。
お父様は「アリシアを嫁にやるなど認めんぞぉぉ!」とワインを煽ってマルクスに宥められていた。
◇
祝祭が一段落した夕暮れ時。
テラスを片付ける私の前に、ルイ様が正装を纏って現れた。
「……アリシア。少し、いいかな」
西日に透ける夕焼け色の髪が、美しく、けれどどこか寂しげに揺れている。
「……私は、これから一度王都へ戻る。バルトと共に、数日間、城を空にできない案件ができた」
「公務ですのね……ルイ様、あまり根を詰めないでくださいませ。帰りを待っておりますわ」
私が微笑むと、ルイ様は私の手をとり、その白く細い指先をじっと見つめた。
ウォーレンの熱烈なアピール。
テリオンの静かな献身。
それらを目の当たりにしたルイ様の瞳には、王としての余裕ではなく、一人の男としての「焦燥」が色濃く浮かんでいた。
「……王権で君を縛ることは容易だ。だが、私はそんな形で君を隣に置きたいわけではない……けれど、今のままでは……いつか君の心の隙間に、あの狼や影が入り込んでしまうのではないかと、私は……生まれて初めて、敗北の恐怖を感じている」
「ルイ様……?」
「君を、誰にも渡したくない。誰の目から見ても、君が私の唯一無二であることを証明したい……アリシア。次に私がここへ戻る時、私は君に相応しい『答え』を、形にして持ってくる……期待して、待っていてくれないか」
ルイ様はそれ以上は語らず、ただ一度、私の額に深い誓いを込めた口付けを残して、馬車へと乗り込んだ。
アストライアの王宮へ。
若き王の煩悶は、一人の令嬢に贈るための「永遠の宝石」を探す旅へと、その姿を変えようとしていた。




