第21話 最後の審判、そして新しい日常へ
北の凍てつく氷冠城を後にした私たちは、休む間もなくアストライアの王都へと飛んだ。
空は高く、既に秋の澄んだ空気が街を包んでいる。
けれど、私たちの目的地である王宮の北端――「白亜の獄塔」だけは、相変わらず冷徹な拒絶の光を放っていた。
石造りの螺旋階段を降り、最下層の重厚な鉄格子の前で足をとめる。
そこには、かつて迎賓館のテラスで傲慢に指を鳴らしていた面影もない、一人の窶れた貴婦人が座っていた。
お母様――ヴァレンタイン公爵夫人だ。
「……何の用かしら……敗者に、これ以上何の屈辱を与えに来たというの……ルイ陛下、貴方も不作法な方ね……娘の『お遊び』に付き合って、王宮の監獄まで足を運ぶなんて」
お母様の声は、ひび割れた磁器のように乾いていた。
けれど、その瞳に宿るプライドの欠片だけは、まだ鋭く私を刺そうとしてくる。
「不作法なのは、お母様の方ですわ……ルイ様は、私を連れてきたのではありません。一人の王として、貴女に『慈悲』を届けに来てくださったのですわよ」
私は一歩前に出た。
ルイ様が私の隣で、右手の紋章を静かに輝かせる。
その黄金の光が、湿り気の強い地下牢を暖かな色で塗り替えていった。
「……公爵夫人。貴女が北の公爵と結んだ『白銀の誓約』。その原本は、アリシアの手によって既に灰となった。貴女を極刑に処すための唯一の証拠は、もうこの世には存在しない」
ルイ様の静かな宣告に、お母様が息を呑んだ。
「……燃やした? ……そんな馬鹿な……あれは、ヴァレンタイン家を、そして私の野心を永遠に縛るはずの鎖だったのに……アリシア、貴女、あんな恐ろしい場所へ本当に行ったというの?」
「ええ。お父様がワイン蔵で震えながら守っていたものを、私が代わりに精算してまいりましたわ。お母様。原本がない今、ルイ様は貴女の罪を『北の公爵による脅迫に屈した一時的な不祥事』として処理すると仰ってくださいました……死罪は免れますわ」
「……死罪は、免れる? ……私が?」
お母様の指先が、目に見えて震え始めた。
自分が誰かを選ぶ立場ではなく、選ばれる側……それも、かつて「人形」として扱っていた娘の情けによって生かされる。
その事実は、彼女にとって処刑台よりも残酷な屈辱だったに違いない。
「……ですが、お母様……法的な罪が消えても、貴女が犯した不作法は、まだこの胸に残っておりますわ……貴女が私に強いた『完璧な令嬢』という名の監獄。それを、今ここで私が掃除して差し上げますわ」
私は、獄塔の冷たい石造りのテーブルに、持参したバスケットから温かな一皿を取り出した。
それは、お母様がこれまで最も忌み嫌っていたであろう、泥臭い料理。
『皮付きジャガイモと猪肉の不作法なポトフ』だ。
お父様が大切に育てた、泥のついたままの力強いジャガイモ。
それをあえて皮を残したまま大きく切り、ゾアが獲ってきた野性味あふれる猪肉と共に、じっくりと煮込んだ。
味付けは塩と胡椒、そしてお母様が「下品だ」と眉を顰めていた、大量のガーリックと香草。
上品な銀の食器ではなく、無骨な木の器に盛られたそれは、湯気と共に圧倒的な「生の匂い」を放った。
「……お母様、召し上がれ……これが、私が愛し、守り抜いた世界の味ですわ。お母様が教えなかった、泥の中で生きる者の、本当の誇りです」
「……ふん、相変わらず……下品な香りね……こんなもの、ヴァレンタインの人間が食べるものでは――」
お母様は、震える手でスプーンを取り、一口、そのスープを流し込んだ。
その瞬間。
彼女の目から、大粒の涙がこぼれ落ち、器の中に波紋を作った。
「……熱い……どうして、こんなに不作法なのに……こんなに、温かいのよ……ああ、そうね……私は、「高貴な白銀の令嬢」である前に、貴女が「泥に根を張って生きる、不器用で温かい一族の女」と言うことを忘れていた……そして、誰かのために料理を作る喜びを……すべて、あの迎賓館の冷たい壁の中に、置いてきてしまったのね……」
お母様は、声を上げて泣いた。
完璧な淑女の仮面が剥がれ落ち、そこにはただ、自分の過ちに気づき、娘の強さに圧倒された一人の女性がいた。
ポトフを完食したお母様は、どこか清々しい表情を浮かべていた。
「……アリシア……私の負けよ……貴女の料理は、私の築いたどんな壁よりも、強固で温かかった……ごめんなさい……貴女という『一人の人間』を、私は一度も見ていなかったわね」
初めて聞く、お母様の謝罪の言葉。
私は、胸の奥にあった冷たいしこりが、スープの熱に溶かされて消えていくのを感じた。
「……わかってくだされば、よろしいのですわ……お母様、貴女の判決は決まりましたわよ」
私はルイ様と顔を見合わせ、微笑んだ。
「王命により、貴女を『国境の森にあるカフェ・ヴァレンタイン』での、永久無給の皿洗い兼、下働きの刑に処しますわ……もちろん、お父様も一緒ですわよ? あの方、ワインボトルを持ち込んで、既に店の離れを占拠するつもりでいますもの」
「……ふふ……皿洗い? ……私が? ……あんな情けない夫と、不作法な魔物たちに囲まれて? ……死刑の方がマシだと言いたいけれど……貴女の料理を毎日食べられるなら、それも悪くないかもしれないわね」
お母様が、初めて「母親」らしい、柔らかな笑みを浮かべた。
夏の終わり。
白亜の獄塔の鉄扉が、重々しく、けれど解放の音を立てて開く。
私は、ルイ様の手を握り直し、光り輝く地上へと続く階段を登り始めた。
背後からは、ウォーレンの「おばさん、手伝うぜ」という不敵な声と、テリオンの「……ノイズが消えたな」という静かな呟きが聞こえてくる。
不作法な嵐は、過ぎ去った。
明日からは、再び、森のキッチンに賑やかな笑い声と、最高に美味しい料理の匂いが戻ってくる。
私の、私たちの、新しい日常が、ここからまた始まるのだ。




