第19話 極寒の進軍、情熱と魔力のボルシチ
グラン・ロアの穏やかな秋は、国境を越え「氷冠領」へ足を踏み入れた瞬間に塗り潰された。
車窓から見えていたブドウ畑の緑は消え、視界のすべてを暴力的なまでの白銀が支配する。
鉛色の空から吹き下ろす風は、もはや空気ではなく、無数の小さな刃だ。
それは馬車の厚い木板を通り抜け、私たちの体温を容赦なく奪い去っていく。
「……信じられませんわ。これが本当に、同じグラン・ロアの領内だなんて」
私は吐き出す息が真っ白に凍りつくのを見つめ、膝の上で毛布を握りしめた。
ルイ様が、私の肩をさらに強く引き寄せる。
彼の右手の「太陽の紋章」は、今や眩いばかりの黄金色に輝き、馬車の中に魔法的な熱を放っていた。
けれど、その聖なる熱さえも、窓の外で荒れ狂う猛吹雪を前には、どこか心許なく感じられた。
「アリシア。この寒さは自然のものではないよ……北の公爵が、城の魔力炉を暴走させているのだろう。侵入者を拒む、氷の結界だ」
ルイ様のエメラルドの瞳が、吹雪の向こうにあるはずの氷冠城を睨み据える。
その時、凄まじい衝撃と共に馬車が大きく傾き、停止した。
「アリシア様、ルイ様! 雪が深すぎて、馬の足が止まりました! 車輪も完全に埋まっております!」
御者台からマルクスの悲鳴に近い報告が届く。
ルイ様が扉を開けると、瞬時に凄まじい雪が車内に雪崩れ込んだ。
「――我が押そう! これしきの雪、戦士の筋肉で弾き飛ばしてくれるわ!」
ゾアが巨躯を馬車の外へ投げ出し、膝まで埋まる雪をものともせず車輪へ手をかける。
けれど、氷の魔力を含んだ雪は、ゾアがどれだけ力を込めても、まるで生き物のように車輪にまとわりつき、凍りついていく。
「……無駄だ、ゾア。この雪は意思を持っている……アリシア、外へ。馬車を捨てて進むしかない」
影の中からテリオンが現れ、私に厚手の革の手袋を差し出した。
カメリア色の瞳に宿る静かな闘志。
彼は私の手を引き、猛吹雪の中へとエスコートした。
馬車を捨て、私たちは岩陰のわずかな隙間に身を寄せた。
鉄衛騎士団の面々も、寒さで顔を青くし、剣を握る手さえも震えている。
このままでは、城に辿り着く前に全員が凍りついてしまうだろう。
「……皆様、座り込んではいけませんわ……不作法な氷には、内側からの熱で対抗しますわよ」
私は、マルクスたちが背負っていた予備の調理道具と、本邸から持ち出してきた食材を広げた。
吹雪の中での調理。
本来なら不可能だが、私にはルイ様の「太陽の紋章」という最強の熱源がある。
「ルイ様……その紋章の熱、少しばかり私の鍋に貸してくださる?」
「ああ、もちろんだ。私の光が、君の料理の火になるなら本望だよ」
ルイ様が鍋の底に手をかざすと、黄金の炎が轟音を立てて燃え上がった。
私が作ったのは、『赤ビーツと猪肉の情熱ボルシチ』だ。
真っ赤なビーツを刻み、肉厚な猪肉と共に、ルイ様の魔法の火で一気に煮込む。
そこへ、お父様の蔵から持ってきた「最高級のサワークリーム」と、大量のガーリック、そしてピリリと舌を焼くチリペッパーを加える。
真っ白な雪原の中で、そのスープだけが燃えるような深紅の色を放ち、湯気を噴き上げた。
「さあ、召し上がれ。一滴残らず飲み干して、魂に火を灯しなさいな!」
私が注ぎ分けたスープを、騎士たちが、ゾアが、テリオンが、貪るように口へ運ぶ。
「……熱い。胃の底から、力が湧き上がってくる……アリシアの作る赤は、どんな太陽よりも力強いな」
テリオンが瞳を細めて呟いた。
「ガオッ! これだ! このガーリックの刺激と、ビーツの甘み! 主よ、我の鱗が再び熱を帯びてきたぞ!」
ゾアが吠え、巨大な斧を再び握り直した。
◇
スープで活力を取り戻した私たちが、再び雪原を踏み出したその時だった。
周囲の雪壁から、白いギリースーツを纏った北の公爵の私兵たちが、音もなく現れた。
その数、およそ五十。
「……伏兵か。不作法にも程があるな……アリシア、私の後ろへ!」
ルイ様が太陽の紋章を輝かせ、光の剣を形成する。
テリオンが瞬時に三本の矢を番え、ゾアが斧を振り上げた。
だが、私兵たちが襲いかかろうとした瞬間。
闇の向こうから、一筋の紺青の光が走り、先頭の兵の武器を叩き折った。
「――おせえよ、アリシア。王様に甘やかされて、足が鈍ったか?」
雪煙の中から現れたのは、ボロボロの毛皮の外套を纏い、双剣を構えたウォーレンだった。
狼のたてがみのように野性的な段層を描く紺青の髪は、氷の粒が混じってさらに鋭さを増している。
スモークブルーの瞳は、数日間の逃走劇を物語るように充血していたが、その奥に宿る不敵な笑みは微塵も揺らいでいなかった。
「ウォーレン! 無事でしたのね!」
「……無事に見えるか? 死ぬかと思ったぜ……だが、風に乗ってきたこのガーリックの匂いで、お前たちが来たって分かったよ。不作法なほど、腹の減る匂いだったからな」
ウォーレンは肩で息をしながらも、私の前で双剣をクロスさせた。
「王様。遅刻の言い訳は、あいつらの首を並べてから聞かせてもらうぜ……ここは俺が道を拓く。アリシアを連れて、一気に城門まで駆け抜けろ!」
「……ウォーレン。君の生存力には、皮肉抜きで感服するよ。だが、命令するのは私だ。全員、ウォーレンに続け! ヴァレンタインの道は、我らで切り拓く!」
ルイ様の号令と共に、戦場が爆発した。
ウォーレンの紺青の剣筋が雪を切り裂き、ルイ様の黄金の光が闇を焼き払い、テリオンの矢が正確に急所を貫く。
私は、三人の男たちの背中を見つめながら、フライパンを強く握りしめた。
「ウォーレン! その背中、これ以上傷をつけることは許しませんわよ! ……さあ、一気に城へ乗り込みますわ!」
猛吹雪の中、私たちはついに北の公爵が待つ氷冠城の全貌を、その瞳に捉えた。
夏の終わり。
極寒の地で揃い踏みした、私の大切な男たち。
不作法な嵐の終焉は、もうすぐそこまで来ていた。




