第18話 氷の城への招待状、父との再会
ヴァレンタイン公爵邸の地下へと続く階段は、外の秋の涼やかさとは完全に切り離されていた。
一段降りるごとに、空気の密度が変わる。
かつては芳醇なブドウの香りと、数百年の歳月が醸し出す静謐な熟成の香りが満ちていたはずのその場所を、今は刺すような冷気が支配している。
「……お父様! いらっしゃいますのね!?」
私が最奥の重い鉄扉を開けた瞬間、冷気が霧のように溢れ出してきた。
広大な蔵の奥。
かつては最高級のヴィンテージが整然と並んでいた棚の陰で、一人の男がうずくまっている。
毛布を幾重にも巻きつけ、まるで唯一の救いであるかのように一本の大きなワインボトルを抱きしめてガタガタと震えている父、ヴァレンタイン公爵だ。
「……ア、アリシアか……? ああ、幻覚が見える。銀髪の天使が、私の『女王の涙』を迎えに来てくれたのだな……これさえ、これさえ守り抜けば、私はもう思い残すことは……」
「幻覚ではありませんわ! シャキっとなさい、お父様!」
私は迷わず駆け寄り、父の肩を掴んで激しく揺さぶる。
泥臭くも大地に根を張るジャガイモのようであれと教えてくれたのは、他ならぬこの父だ。
その彼が、寒さに震え、ワイン一本に縋っている姿はあまりにも不作法で見過ごせない。
「おお、本物のアリシア! おお、温かい……見てくれ、北の公爵の差し向けた魔導師どもが、この蔵の結界を弄りおって……私の可愛いワインたちが、寒さで震えているのだ。ワインは生き物、この温度変化は虐待に等しい!」
「お父様、ワインは震えませんわ。震えているのは貴方ですわよ」
呆れて溜息をつく私に対し、父はモノクルを落としそうなほど目を見開いた。
その瞳には、恐怖を通り越した「憤怒」が宿っている。
「聞いてくれ、アリシア。あいつは、あの北の公爵とやらは……人間ではない! 私の秘蔵中の秘蔵、あのアスター家からかつて譲り受けた伝説のポートワインを……あやつ、あやつ……『肉の煮込みの隠し味』に、ドボドボと使いおったのだぁぁぁ!」
「……はい?」
「あのような至宝、一滴で金貨十枚は下らぬ逸品を! 熟成に半世紀を費やした神の雫を! ただの! 牛肉の! 煮込みに! 不作法にもドボドボと! これは宣戦布告だ! ヴァレンタイン家に対する、いや、美食の歴史に対する最大の侮辱だぞぉぉ!」
地下蔵に父の悲痛な叫びが木霊する。
お母様の命や「白銀の誓約」の重圧もさることながら、美食と素材を何よりも愛するヴァレンタインの血筋として、北の公爵の「素材への冒涜」が、父の逆鱗に触れたのだ。
◇
父の震えを止め、その曇った瞳に光を取り戻すには、言葉よりも先に「味」が必要だ。
私は蔵の隣にある、試飲用の小さな簡易キッチンへと向かった。
道具は手入れが行き届いている。
クラリスが既に磨き上げていたのだろう。
「お父様。その震え、私が止めて差し上げますわ。美食を冒涜する不作法な男には、本物の『味』で対抗するのがヴァレンタインの流儀ですわね」
私はフライパンを火にかけ、父が抱えていたものとは別の、けれど同じく上質な赤ワインを取り出した。
今夜の料理は、『秘蔵赤ワインと焦がし蜂蜜のラグー(肉煮込み)』だ。
まずは細かく刻んだセロリ、玉ねぎ、人参を、バターでじっくりと炒める。
野菜の甘みが引き出されたところで、表面を強火でカリッと焼き固めた牛肉を投入する。
そこへ、惜しみなく一本のワインを注ぎ込む。
ジュワッ、という音と共に、ブドウの芳醇な香りが立ち昇り、冷え切った蔵の空気を一瞬で塗り替えていった。
そして仕上げは、私のカフェの神髄。
熱した小鍋で琥珀色になるまで熱した「最高級の蜂蜜」を、鍋の中へと流し込む。
蜂蜜の濃厚な甘みがワインの鋭い酸味を包み込み、隠し味の生姜と黒胡椒が、料理に一本の芯を通す。
「さあ、召し上がれ……ワインは、こうして『命』を繋ぐために使うものですわよ」
震える手でスプーンを取った父が、一口、そのラグーを口に運ぶ。
その瞬間、彼の頬に赤みが差し、モノクルの奥の瞳がカッと見開かれた。
「……んんっ! この、喉を焼くようなスパイスの刺激の後に来る、蜂蜜の慈悲深い甘み……野菜の滋味をワインのコクが完璧に増幅させておる。おお、アリシア! 私の血が、ヴァレンタインの誇りが蘇るようだ! 私は……私は負けん! あの不作法な煮込みを作った男に、美食の真髄を教えてやらねばならん!」
父はスープまで一滴残らず飲み干すと、カイゼル髭をピンと跳ね上げ、シャキっと立ち上がった。
その姿には、先ほどまでの情けない姿は微塵もなかった。
◇
食卓を囲むように、ルイ様、テリオン、そしてゾアが集まる。
地下蔵の冷気を打ち消すような、屈強な男たちの熱気が充満する。
「主よ、この肉の匂い……北の連中の不作法な煮込みとは格が違うな! 我も食うぞ! 北の公爵の首を、このラグーの具材にしてやりたい気分だ!」
ゾアが豪快に笑い、巨大な皿に山盛りになった肉を、一瞬で胃袋へと収めていく。
黄金の瞳には、戦士としての高揚が宿っている。
「……ルイ殿。この書状、ただの脅迫ではないようですな」
ユリウスが眼鏡を拭きながら、父が持っていた書状の末尾を指した。
そこには、ワインの冒涜報告のあとに、北の公爵からの真の、そして最も残酷な要求が記されていた。
『ヴァレンタインの娘よ。
母の命と、ウォーレン・アスターの首を
救いたければ、北の最果て「氷冠城」へ来い。
そこで、貴女の血に刻まれた「本当の契約」を
完遂してもらう……
ちなみに、貴公の父上が守りたがっている
ヴィンテージの残り半分は、
今夜の私の部下たちのスープのベースに
使わせてもらうことにした』
「本当の契約……? お母様の署名だけではなかったのですか?」
ルイ様が私の手を強く握り締める。
彼のエメラルドの瞳には、かつてないほどの鋭い光が宿っていた。
「アリシア。北の公爵は、君の『料理の魔力』そのものを狙っているのかもしれない。君の作る味が、人々の心を繋ぎ、王の孤独さえも溶かす……その力を、北の永久凍土を維持するための触媒にしようとしている可能性があるんだ」
「私を北の氷の柱にでもするつもりかしら。不作法にも程がありますわね。私の料理は、人を温めるためにあるのです。誰かを凍らせるための道具ではありませんわ!」
私が凛と言い放ったその時、背後の闇から、気配もなくテリオンが歩み寄ってきた。
彼はルイ様の視線を正面から受け流し、私の目の前に立つと、迷いのないカメリア色の瞳で私を見つめた。
「……アリシア。奴の狙いが何であろうと、私がお前を氷にさせはしない」
彼は私の肩に軽く手を置き、周囲の不穏な空気を断ち切るように囁いた。
「……お前がフライパンを振るうその背後、不純なノイズは一切通さない……アリシア、私を信じて前だけを見ていろ。影がお前を包み、すべての冷気を遮断する」
「……テリオン。ええ、信じていますわ。貴方の放つ矢が、私の勇気になりますもの」
ルイ様の黄金の守護、テリオンの静かな影、そしてゾアの圧倒的な武力。
三者三様の熱が、私の覚悟をより強固なものへと変えていく。
「参りましょう、皆様……お父様、貴方はここでワインを守っていてくださいな。お母様とウォーレン、そして奪われたワインの誇りは、私が必ず連れ戻しますわ」
「アリシア、私を置いていかないでくれぇ! あいつは……あいつは私のポートワインを、スペアリブのコーラ煮のように扱ったのだぞぉぉ!」
泣きつく父をクラリスに任せ、私は地下蔵を後にした。
◇
ヴァレンタイン邸の前に並ぶ、鉄衛騎士団の馬列。
ルイ様が手配した豪奢な馬車が、月明かりを受けて鈍く光っている。
馬車に乗り込む直前、私は北の空を仰いだ。
そこには、昨夜よりも一層深く、暗い白銀の雲が広がっている。
まるで、私たちを飲み込もうと待ち構える巨大な獣の口のように。
「アリシア、行こうか。君が火を灯すなら、私はそのすべてを輝かせる太陽になろう」
ルイ様が差し出した手を取り、私は馬車へと乗り込んだ。
真夏の終わりだというのに、私たちの吐く息は、かすかに白く染まり始めていた。
北の果て、氷冠城。
そこには、ウォーレンが、そして私の家族の運命を握る真実が待っている。
不作法な招待状には、最高に熱い「返礼」を届けてやらなければならない。
馬車が動き出し、石畳を叩く蹄の音が夜のグラン・ロアに響き渡る。
私の心の中にある「自由」と「誇り」の炎は、北の風を受け、より激しく燃え上がっていた。




