第17話 郷愁の街、風に混ざる北の予感
国境を越え、馬車が懐かしい石畳の音を響かせ始めた。
そこは、私が幼少期を過ごしたグラン・ロア。
国境の森の燃えるような夏とは違い、ここは既に秋の気配を孕んだ涼やかな風が吹き抜けている。
車窓から見える風景は、私の記憶の中にあるものよりもどこか色褪せていた。
整然と並ぶ煉瓦造りの建物や、豊かな実りを見せるはずのブドウ畑。
けれど、収穫を待つブドウの房は北から吹き下ろす不自然な冷気にさらされ、心なしか縮こまっているように見える。
行き交う人々の表情には、北の領地から滲み出してきた「氷の権力」に対する、拭いきれない不安が張り付いていた。
「……戻ってまいりましたわ。私の、そしてお父様のグラン・ロアに」
私は、窓枠を掴む手に無意識に力を込めた。
肩に流れる銀髪が、故郷の少し乾いた、けれどどこか拒絶を感じさせる冷たい風に揺れる。
「アリシア……顔色が優れないね。故郷が、君の知っている姿と違って見えるのは、君がこの場所を誰よりも愛している証拠だよ」
ルイ様が隣で、私の冷えた肩を優しく抱き寄せる。
そのエメラルドの瞳は、アストライアの王としての威厳を保ちつつも、私の不安をすべて吸い取ってくれるような深い温もりに満ちていた。
「ルイ様……ええ。お父様の自慢だったこの街が、あんな『北の不作法』に怯えているのが、悔しくてたまらないのですわ」
馬車がヴァレンタイン本邸へと続く大通りに差し掛かった時、道端で優雅に仕込み杖を回しながら立っている男が目に入った。
「……おやおや。店主殿、思いのほかお早いお着きで。ヴァレンタイン家の至宝が戻られたとあれば、このグラン・ロアの空気も少しはマシになりますかな」
眼鏡の奥で蒼い瞳を細め、人を食ったような笑みを浮かべていたのはユリウスだった。
彼はグラン・ロアの寒暖差を考慮した、機能的かつ派手な装いで、私たちを先導するように歩き出した。
「ユリウス! お父様は無事ですの?」
「ええ。無事と言えば無事ですが……現在、閣下は『北の公爵』からの度重なる嫌がらせ……いえ、『不作法な圧迫』に耐えかね、領地で最も深いワイン蔵の最奥に立てこもっておいでです」
「……立てこもる?」
「はい。北の極寒地帯から送り込まれた氷の魔導師たちが、蔵の温度をわざと下げようとするもので……閣下は『私のヴィンテージが風邪を引いてしまう!』と、涙ながらに一本一本のボトルに毛布をかけ、添い寝をしているとか。最近では、最古の熟成ボトルに『アリシア』と名付けて話しかけているという噂さえありますな」
私は思わず天を仰いだ。
マルクスが語った「家門を守るための冷徹な父」という虚像が、音を立てて粉々に砕け散っていく。
お父様は、お母様の誓約書よりも、自分のコレクションの安否に魂を削っているらしい。
「北の公爵は現在、さらに北の『氷冠領』に本拠を置いていますが、その影響力はこのグラン・ロアを飲み込もうとしています。そして、あの狼――ウォーレン殿ですが。どうやら彼は、公爵の私兵を引き連れて、さらに北の雪原へと消えたようですな。囮になったのか、それとも何かを探しているのか……いずれにせよ、あの男も相当な『不作法』を働いているようです」
◇
私たちは、ひとまず本邸の手前にある鉄衛騎士団の詰所へと入った。
旅の疲れと、故郷の変わり果てた空気に、マルクス率いる騎士団の面々もどこか意気消沈している。
「皆様、顔を上げなさいな……不作法な冷気が漂っているなら、私がそれを追い出して差し上げますわ」
私は詰所のキッチンに立ち、グラン・ロアの秋の味覚である、蜜がたっぷり詰まったリンゴを手に取った。
用意したのは、『焦がし蜂蜜とスパイスのホット・アップル・サイダー』だ。
リンゴを丸ごと絞った瑞々しい果汁に、シナモン、クローブ、そして少量のジンジャーを加える。
そこへ、私がカフェから持参した「特製の焦がし蜂蜜」をたっぷりと注ぎ込む。
沸騰直前で火を止めると、リンゴの甘酸っぱい香りとスパイスの刺激が、詰所全体に広がった。
「さあ、召し上がれ。ルイ様、ゾア。そしてテリオンも」
「……甘いな。けれど、この奥にあるジンジャーの熱が、凍りかけた闘志を呼び覚ます。アリシア。君は、この地の絶望さえも糧に変えてしまうのだね」
ルイ様が、慈しむようにカップを傾ける。
「おおお……! この蜂蜜の力強さ! 主よ、我の胃袋が、北の公爵の氷など一瞬で溶かしてやると叫んでおるぞ! このまま、あの蔵にいる公爵殿のワインもろとも飲み干してやりたい気分だ!」
ゾアが豪快に飲み干し、巨躯を震わせて笑う。
その時、影の中から音もなく現れたテリオンが、私の隣に立った。
彼は差し出されたカップを受け取ると、カメリア色の瞳をじっと私に向けた。
「……アリシア。この地には、嫌な風が吹いている。お前を狙う不純なノイズが、街のあちこちから聞こえる」
テリオンが私の名前を呼ぶたび、彼の静かな執着が肌に触れるようで、胸の奥がチクリと痛む。
彼はカップの湯気の向こうから、鋭い視線で私を射抜いた。
「……だが、お前がこうして火を灯し続ける限り、私の矢が迷うことはない。アリシア。お前を、あの不作法な雪山へは行かせない……私がお前の盾となり、北の冷気をすべて切り裂こう」
「テリオン……ありがとう。でも、私が行かなければならないのですわ」
テリオンは私の言葉を遮るように、空いた方の手で私の銀髪の先を軽く撫でた。
「……わかっている……だから、私はお前の影になる」
テリオンの指先から伝わる熱い決意。
それはルイ様やウォーレンが放つ情熱とは違う、静かで、けれど決して折れることのない「影」としての誇りが宿った響きだ。
「テリオン。貴方の射抜く先には、いつも私の進むべき道がありましたわね」
私は少しだけ俯き、彼の指先から逃れるようにして、けれど拒絶ではなく深い信頼を込めて、自分の髪をそっと整え直す。
マリンブルーの瞳が、立ち昇るアップル・サイダーの湯気越しに彼を真っ直ぐに見つめた。
「不作法なのは、私の方かもしれませんわ。皆様の平穏な日常を守るはずの店主が、皆様を凍てつく戦場へと連れて行くのですもの……でも、貴方の影が寄り添ってくれるなら、私は北の吹雪の中でも、迷わずフライパンを振るい続けることができますわ」
私はふっと、覚悟を決めた微笑みを浮かべる。
「さあ、いつまでも浸ってはいられませんわ……冷める前に、そのサイダーを飲み干してしまいなさいな。私たちの故郷を、あの冷たい不作法な男から奪い返しに行くのですから!」
力強い言葉に、テリオンは満足げに瞳を細め、静かにカップを傾けた。
◇
アップル・サイダーの温もりが広がる中、詰所にはかつての活気が微かに戻り始めていた。
鉄衛騎士団の面々も、アリシアの料理によって「自分たちの守るべきもの」を思い出したのか、鎧を磨く手に力がこもっている。
私は窓から遠く、北の地平を仰いだ。
ここグラン・ロアはまだ秋の装いだが、その向こうには、重く冷たい白銀の雲が牙を剥くように居座っている。
そこに、ウォーレンがいる。
そして、お母様を救うための「誓約書」を握る、北の公爵が。
「……ルイ様。私は、お父様を蔵から引きずり出し、北の公爵に『本当の不作法』を教えに行かなければなりませんわ」
「ああ、アリシア。共に行こう……君のフライパンが北の氷を砕くとき、私の光がそのすべてを焼き尽くすだろう。マルクス、明朝より全軍を北へ向かわせる。ヴァレンタインの領地に土足で踏み込んだ代償を、公爵に支払わせる時だ」
「御意にございます、ルイ様!」
ユリウスが「やれやれ、ワインより熱い主従ですな。眼鏡が曇って困りますよ」と皮肉を言いながらも、その手は既に北の防衛網を記した地図を広げていた。
グラン・ロアに灯った一筋の火。
それは、これから始まる「北の精算」への、静かなる、けれど熾烈な宣戦布告だった。
「さあ、クラリス。明日の朝食は、最も体力のつくものを用意しますわよ」
「畏まりました、お嬢様……北の公爵も、まさか自分の首を獲りに来るのが『料理人』だとは、夢にも思っていないでしょうね」
私たちは夜の静寂の中、不気味に光る北の空を見つめ、それぞれの武器を、そして心を研ぎ澄ませた。




