第3話 氷下の熱情、あるいは青い火花
国境の森の朝は、清々しさを通り越し、既に焦燥感に近い熱気を孕んでいた。
眩しいほどの陽光がカフェ・ヴァレンタインの白い壁を焼き、開け放たれた窓からは終わりを知らない蝉の合唱が流れ込んでくる。
私はキッチンの奥で、昨夜クラリスから聞かされた「ウォーレン・アスター」の名を反芻していた。
没落した伯爵家の嫡男。
理想に殉じ、居場所を失った狼。
そして、私の子供の頃の「失言」を人生の拠り所にして生き延びてきた男。
エプロンのポケットには、彼が残していった青い薔薇の押し花が、まだ微かな重みを持って潜んでいる。
それを捨ててしまえばすべては幻になると分かっていながら、私はどうしてもそれをゴミ箱へ放り込むことができなかった。
それが料理人として、誰かが込めた「想い」という鮮度を蔑ろにできない、私の不作法な性分だった。
――カラン、と。
昨日の今日。
まだ開店準備も整いきっていないその時間に、ベルが鳴った。
予感はあった。
逃げ場のない夏の熱気が、扉の向こう側から一気に流れ込んでくる。
「……おはよう、アリシア。昨日の押し花、捨ててないんだな。やっぱり君は、俺を待っていたんだろう?」
入ってきたのは、やはり彼だった。
狼のたてがみを思わせる紺青の髪が、朝の光に縁取られて青白く輝いている。
ウォーレンは客として椅子に座ることもせず、真っ直ぐにカウンターへと歩み寄ってきた。
その足取りは昨日の「確認」ではなく、既に自分の居場所を見つけた者のような、確信に満ちた軽やかさ。
「おはようございます、ウォーレン。捨てていないのは、落とし主にお返しするためですわ。それから、まだ開店前です。不作法な入店はお控えいただけますかしら?」
「俺は客として来たんじゃない。君の隣を予約しに来たんだ。あの日の約束通りにな」
ウォーレンは、カウンター越しにぐいと身を乗り出した。
スモークブルーの瞳が、至近距離で私のマリンブルーの瞳を射抜く。
夜空の匂いと、旅の砂埃が混ざったような独特の香りが鼻腔をくすぐり、私は思わず息を呑んだ。
彼の指先が、カウンターの上に置かれた私の手に触れるか触れないかの距離まで近づく。
「……っ、何を……」
「君は忘れているかもしれないが、俺の心にはずっと、君がくれたあの青い花畑の光が焼き付いているんだ。理想なんて言葉で誤魔化せない、本物の執着をな……さあ、アリシア。返事を聞かせてくれ。君の答えは、もう決まっているはずだろ?」
逃げられない。
彼の言葉は甘く、けれど拒絶を許さない鋭い「圧」を持っていた。
その時だった。
カフェの裏手、ルイ様が執務を行っている離れのログハウスの方から、規則正しく、けれど明確な意志を宿した足音が近づいてきた。
コツ、コツ、と。
石畳を叩くその音は、夏の喧騒を切り裂くようにして店内に響き渡る。
「……お客様。店主が困っているようだ。注文がないのなら、お引き取り願いたい」
冷徹な、けれど火山のような熱を秘めた声。
振り返ると、そこには書類の束を手にしたままのルイ様が立っていた。
夕焼け色の髪が逆光に透け、エメラルドの瞳は、アストライアの決戦時でも見せなかったような、研ぎ澄まされた刃のような鋭利さを湛えている。
ルイ様は離れでの仕事中に、ウォーレンが放つ独特の「夜の匂い」――あるいは、アリシアという大切な場所を侵食しようとする異物の気配を、本能で察知したのだろう。
「おや……あんた、ここの店員か? 悪いが、主人の昔話に外野が口を挟まないでくれ。俺と彼女の間には、あんたには一生かかっても理解できない『時間』の積み重ねがあるんでね」
ウォーレンはルイ様を「店員」と呼び、鼻で笑った。
一歩も引かない二人の男。
かつての王として、すべてを背負ってきたルイ様の「静かなる怒り」。
没落し、すべてを失いながらも「約束」だけを武器に生き抜いてきたウォーレンの「不敵な余裕」。
店内の空気が、物理的な重さを持って軋み始めた。
「……昔話、か。あいにくだが、私は『今』と『これから』の話をしに来た。アリシアの居場所はここであり、彼女の隣に立つのは、誰に決められるものでもない」
ルイ様が、ウォーレンと私の間に割って入るようにして立った。
ルイ様の背中越しに、彼の肩が微かに震えているのが分かった。
それは恐怖ではなく、溢れ出しそうな独占欲を必死に抑え込もうとしている、一人の男としてのプライド。
「ほう、面白い……なら、どちらが彼女にふさわしいか、ここで白黒つけるか? 俺は自分の居場所を奪いに来た狼だ。噛み付くのには慣れているぜ」
ウォーレンが不敵に口角を上げた。
そのスモークブルーの瞳が、挑戦的にルイ様を見据える。
まずいですわ。不作法。あまりに不作法。
私のキッチンが、男たちの無意味なプライドの火花で焦げてしまう!
「……お黙りなさいな!」
私の叫び声と共に、キッチンに鋭い音が響いた。
銀色のフライパンをまな板に叩きつける音。
その衝撃で、一瞬だけ店内の不穏な空気が霧散する。
「ルイ様も、ウォーレンも! 私の聖域で勝手に火花を散らさないでくださいませ! 火事になったら、お二人とも出入り禁止にして差し上げますわよ!」
「アリシア……?」
「……おっと、店主が怒ったか」
驚きで動きを止めた二人に、私は一切の容赦をしない眼差しを向けた。
私は迷いなく、冷蔵魔法がかけられた保管庫から、巨大な「氷の塊」を取り出した。
「お二人とも、夏の暑さに中てられて、脳みそが沸騰しているようですわね。そんなに熱い議論を交わしたいのなら、まずはこれでお腹を……いえ、頭を冷やしなさいな!」
私はフライパンを火にかける代わりに、冷えた鉄板の上に氷を乗せた。
そこへ、アストライアの黒蜂蜜と、森で摘んだばかりの極限まで酸っぱいクランベリーのシロップ、そしてアクセントに微かな苦みを持つミントのエッセンスを叩き込む。
ガリガリ、と。
氷を削る音が、店内に不作法に響き渡る。
私はそれを、キンキンに冷えたクリスタルグラスに山盛りにし、その上から真っ赤なシロップを滝のように回しかけた。
「……さあ、召し上がれ。特製『不作法な氷結ハニー・ベリー』ですわ!」
差し出されたのは、見た目こそ美しいが、食べれば一瞬で理性が凍りつくような、極寒のデザート。
ルイ様とウォーレンは、気圧されるようにしてそれを受け取り、同時に口へと運んだ。
「……ッ……!!」
一口食べた瞬間、二人の表情が劇的に凍りついた。
あまりの冷たさに、眉間の奥がキーンと突き刺すような痛みに襲われる。
酸っぱいベリーが唾液を強制的に分泌させ、蜂蜜の甘さが疲弊した脳に直接響く。
静寂。
物理的な冷たさによって、店内の熱量が奪い去られていく。
「……冷たい……冷たすぎるぞ、アリシア」
ルイ様が、涙目になりながら頭を押さえた。
「……はは……君、本当に……容赦ないな……頭の中が、一瞬で真っ白になったぜ」
ウォーレンが、氷の刺激に顔を顰めながらも、愉快そうに笑った。
「……お腹が満たされれば、少しは理性的になれるでしょう? ルイ様、書類仕事に戻ってくださいませ。カインがお待ちですわ。ウォーレン、貴方も一度外へ出てその狼のような熱を冷ましてきてくださいな。お客様として出直すなら、歓迎して差し上げますわよ」
私は、レードルを突きつけて宣言した。
二人の男は、互いに視線を交わし――それはまだ火花を散らしていたけれど――最後はどちらも、私の「主」としての威厳に折れる形で、ゆっくりと距離を取った。
「……わかった。アリシア、私は離れに戻る。けれど、君の隣を誰かに譲る気はない。それだけは、覚えておいてほしい」
ルイ様はそう言い残し、最後にウォーレンを一瞥して、離れのログハウスへと戻っていった。
その背中は、以前よりもずっと力強く、守るべきものを持つ男の矜持に溢れていた。
「……俺も、今日はここまでにしておくよ。けど、アリシア。俺は昨日言ったはずだ。『迎えに来た』ってな。君の作る毒に、俺の人生はもう手遅れなんだよ」
ウォーレンは、空になったグラスをカウンターに置き、楽しげに笑って店を後にした。
再び、カフェに夏の静寂が戻ってくる。
けれど、それは以前の平穏とは決定的に違う、嵐の前の静けさ。
「……不作法。本当に、揃いも揃って不作法ですわ」
私は、溶けかけた氷が残るボウルを見つめ、深すぎる溜息を吐いた。
王としてのルイ様と、過去の約束を抱えたウォーレン。
私の日常という名の戦場に、かつてないほど「恋愛」という名の火力が投入されてしまった。
私は、震える指先でフライパンを磨き直した。
これからの夏は、どうやら王都での戦いよりも、ずっと汗をかくことになりそうですわ。
「……クラリス。もっと氷を用意しておいて。次に誰かが熱いことを言い出したら、今度は頭からぶっかけて差し上げますわ!」
火花を散らす男たちの攻防は、まだ始まったばかりだ。




