第2話 夏の夜の静寂、消えない青い薔薇
狂ったように鳴き喚いていた蝉の声が止み、代わりに湿り気を帯びた草むらから秋の先触れのような虫の音が漏れ聞こえる頃。
カフェ・ヴァレンタインの営業を終え、私は一人、月明かりだけが差し込むカウンターに座っていた。
目の前には、あの男が残していった一輪の「青い薔薇」の押し花。
昼間の熱気がまだ石畳や木材の奥に潜んでいるのか、首筋にまとわりつく空気は重く、じっとりとしている。
アストライアから戻ったばかりだというのに、私の心臓は別の種類の「熱」に侵されたように、不規則な鼓動を刻み続けていた。
(お嫁さんにして、なんて……本当に、そんな不謹慎なことを口にしたのかしら、私は)
記憶の糸をどれほど手繰り寄せても、現れるのは真っ青な空と、どこまでも続く花畑の断片だけ。
肝心の少年の顔も、自分が何を言ったのかも、夏の陽炎のようにゆらゆらと揺れては霧散してしまう。
美味しいもの以外は不作法に忘却する。
それが私の、この厳しい世界を生き抜くための知恵であったはずなのに。
今夜ばかりは、その性質が呪わしくすら感じられた。
「……お嬢様。まだ、その『毒』の成分を分析中ですか?」
不意に背後から、一切の気配を感じさせない静かな声がした。
振り返ると、そこには完璧に整えられたエプロン姿のクラリスが、温かなハーブティーを乗せたトレイを手に立っていた。
彼女の白緑色の瞳は、いつになく深く、思慮深い光を宿している。
「クラリス……ええ、どうしても思い出せませんの。あの男が誰なのかも、私が何をしでかしたのかも」
「無理もありませんわ。あの日のお嬢様にとって、それは数ある『困っている人を救うための言葉』のひとつに過ぎなかったのですから」
クラリスは私の向かい側の席に座り、ティーカップを置いた。
立ち上るカモミールの香りが、少しだけ私の強張った肩を緩ませる。
「……知っているのね、クラリス。あの男のことを」
「ええ。情報の整合性を取るのは侍女の務めです。あの方は、ウォーレン・アスター。かつて王都で勇名を馳せた、アスター伯爵家の嫡男でございます」
「ウォーレン……アスター家……」
初めて口にするその名前は、なぜか私の舌の上に、遠い記憶のスパイスのような苦みを残した。
クラリスは、一点の感情も挟まない事務的な口調で、その一族の歴史を語り始めた。
「アスター家は、代々『青い薔薇』を家紋に掲げてきた特異な家系です。不可能を可能にする、あるいは、叶わぬ夢を掴み取る……王家への忠誠を何よりも優先し、理想に殉じることを誇りとした、ある意味ではこの宮廷で最も『正しすぎた』一族でした」
「正しすぎた……?」
「はい。彼らは政変の嵐が吹き荒れた際、汚い裏工作や妥協を一切拒み、王家を守るためにすべての盾となって散りました。結果、不正を行っていないにも関わらず、責任を押し付けられる形で失脚し、宮廷から追放されたのです。正しすぎたがゆえに、誰からも救われなかった。それがアスター家が没落した真実でございます」
クラリスの言葉が、夏の重苦しい空気の中に沈んでいく。
理想に殉じ、居場所を奪われた一族。
あの時、花畑で泣いていた少年は、家が壊れ、未来を失い、自分の無力さに絶望していたのかもしれない。
「あの方は、没落した家の名と共に、すべてを覚えて生き延びてきました。騎士団にも宮廷にも戻れず、誇りだけを抱えて荒野を渡り歩く日々。その中で、あの方が唯一手放さなかったのが、幼い日にお嬢様と交わした、あの一文にもならないはずの約束だったのです。お嬢様は、彼を黙らせるために仰ったのでしょう? 『泣き止みなさいな。そんなに悲しいなら、私が貴方の……』」
「……お嫁さんになってあげますわ、でしたっけ」
私は、絞り出すような声で続きを口にした。
その瞬間、頭の中の霧がわずかに晴れ、一人の少年の泣き顔が鮮明に浮かび上がった。
夜空の色をした髪を乱し、必死に声を殺して、青い花を握りしめていた少年。
私はただ、その泣き顔が不作法に思えて、あるいは純粋に放っておけなくて、自分の立場も考えずにその言葉を投げたのだ。
「お嬢様にとっては、その場限りの救いの言葉だったかもしれません……ですが、すべてを失ったあの方にとって、その言葉は人生を繋ぎ止めるための『唯一の灯火』となってしまいました」
クラリスの視線が、カウンターの押し花に向けられる。
「アスター家は、誓いを『借金』のように回収することで有名です。理想を捨てなかったがゆえに没落した彼らにとって、約束を違えることは、死に等しい不作法……お嬢様、あの方は“忘れられる側”で済むような男ではありませんわ。あの方は、お嬢様が投げた無責任な光を、十数年かけて本物の太陽に変えようと、執念深く研ぎ澄ませてきたのですから」
執念。
その言葉が、私の背筋を冷たく撫でた。
昼間、ウォーレンが去り際に見せた、あのスモークブルーの瞳。
そこにあったのは、懐かしさなどという生温かいものではない。
自分のすべてを懸けて、ようやく手元に引き寄せた「獲物」を見つめるような、静かな、けれど苛烈なまでの渇望。
「……通用しませんわ。そんな昔のこと……それに、私にはもう、ここで守らなければならない日々があるのですもの」
私は、離れのログハウスで休んでいるであろうルイ様のことを思った。
アストライアのすべてを捨てて、私の隣を選んでくれた王。
その穏やかな日常を、私の不作法な失言ひとつで壊されてたまるものですか。
「……ええ。お嬢様がそう仰るのであれば、私めもそのように対処いたします。ですが、ルイ様も既に察していらっしゃいますわ……王としての勘ではなく、一人の男としての、逃れようのない不吉な予感を」
クラリスはトレイを片付け、立ち上がった。
彼女は去り際に、私の肩にそっと手を置き、今日一番の冷徹な、けれど信頼に満ちた言葉を遺した。
「あの方は、お嬢様を縛るつもりはない、と仰いました……それは裏を返せば、お嬢様の意志など関係なく、無理やりにでも自分の世界へと連れ去る準備ができている、ということです。アスターの青い薔薇は、不可能を可能にする花。お嬢様、今夜は、火の元を確認して、鍵を厳重におかけくださいませ。過去という名の不作法な客は、扉が閉まっていても、夢の中からでも忍び込んできますから」
クラリスが去った後のカフェは、再び深い静寂に包まれた。
私は、いつまでも冷めることのない押し花を、そっと指先でなぞった。
ウォーレン・アスター。
理想に殉じ、居場所を失い、それでもなお一人の少女の言葉を糧に生き延びてきた狼。
私は、彼の執念に震えながらも、心のどこかで分かっていた。
明日、また彼がベルを鳴らした時。
私はもう、知らないふりをして逃げることはできないのだと。
夏の夜が、不気味なほどに長く感じられた。
窓の外では、月明かりに照らされた森が、まるでウォーレンの髪色のように深い紺碧に染まっている。
「……不作法ですわ……全部、夏の暑さのせいですわよ」
私は自分にそう言い聞かせ、重い腰を上げた。
明日、この店に火花が散る。
それは魔導の光ではなく、一人の男の執念と、一人の王の独占欲がぶつかり合う、不作法で甘酸っぱい、けれど逃げ場のない嵐の始まり。
私はキッチンの灯りを消し、闇の中で静かにフライパンを磨き始めた。
どんな過去が襲ってこようとも。
店主として、最高の「おもてなし」で、そのすべてを焼き切って差し上げると誓いながら。




