第1話 忘却の店主、追憶の来訪者
王都アストライアでの決戦を終え、不作法に生い茂った我が家――カフェ・ヴァレンタインへと帰り着いたその日の午後は、暴力的なまでの夏の陽光に包まれていた。
馬車を降りた瞬間、肌を焼くような熱気と、鼓膜を震わせる蝉の声が押し寄せる。
つい先ほどまで目にしていた白亜の王宮や、凍てつくような冷徹な魔導の残照が、まるですべて幻であったかのように思えるほど、この森の夏は濃密で、逃げ場のない生命力に満ち溢れていた。
「……暑いですわね。バルト、皆の荷物を運び終えたら、まずは冷たいハーブウォーターを用意して差し上げて。喉を焼くような不作法な熱には、これくらいの冷たさが必要ですわ」
私は、アストライアの冒険で煤けた旅装束を解きながら、額に滲んだ汗をハンカチでそっと押さえた。
引き続き王座は弟のカインに託して、一人の男としてここへ戻る道を選んだルイ様は、まだ馬車の陰でバルトと何やら今後の報告体制について話し合っている。
クラリスは真っ先に店内の清掃へと向かい、ゾアは「夏こそ体力が要る」と、早々に裏庭で肉を焼く準備を始めていた。
そのすぐ近く、開け放した扉の陰ではカトリーナが優雅とは言い難い様子で扇子を仰ぎ、駐竜スペースではジュリアンが暑さに負けないようにとアビーに冷水を飲ませている。
そして、店の軒先ではテリオンが日差しを遮るように片手で額に影を作り、森の方角と街道の両方を交互に見やっていた。
ようやく戻ってきた、私たちの日常。
私は、郵便受けに届いていた一通の不穏な手紙――『青い薔薇』の型押しがされた、あの厄介な予感しかしない封書――をエプロンのポケットにねじ込んだ。
思い出せないことは、無いのと同じ。
美味しいもの以外は不作法に忘却する。
それが私の、平穏を守るための仕様なのだと言い聞かせて。
私はキッチンの窓をすべて開放し、氷のたっぷり入ったボウルでレモンを絞り始めた。
その時だった。
――カラン、と。
真夏の静寂を切り裂くように、入り口のベルが軽やかに鳴った。
まだ「準備中」の札を出す前だというのに、誰かしら。
アストライアから戻ったばかりの私たちを、休ませる気のない不作法なお客様は。
「いらっしゃいませ!」
私は、反射的に顔を上げ、いつもの店主の微笑みを浮かべた。
だが、その声はキッチンの熱気に溶ける前に私の喉元で凍りついた。
店内に足を踏み入れてきたのは、一人の若い男だった。
背が高く、無駄のないしなやかな体躯。
夏の盛りだというのに、深い紺色の外套を肩に引っかけ、風に晒された旅人の、そしてどこか「死線」をくぐり抜けてきた者特有の鋭い匂いを纏っている。
何より目を引いたのは、その不作法なまでに野性味溢れる髪型だった。
夜空の色をそのまま移したような紺青の髪は、まるで狼のたてがみを思わせる、無造作で鋭いレイヤーを描いている。
短剣で無造作に削ぎ落としたような不揃いな毛先は、襟足に向けて鋭くしなやかに流れており、それが彼のどこか人を食ったような風貌に危険な色気を添えていた。
灰青色の瞳は、まるで遠い異国の海をそのまま映し出したかのように深く、そして一点の迷いもなく私を射抜いた。
「お好きな席へどうぞ……と言いたいところですが、申し訳ありません、今戻ったばかりで火を落としておりますの」
私は努めて冷静に、けれど心臓の鼓動がわずかに早まるのを感じながら言葉を繋いだ。
だが、男は席に座るよりも先に、じっと私の顔を見つめて動かなかった。
その視線は、初対面の相手に向ける値踏みのようなものではない。
もっとずっと、親密で、残酷なほどに真っ直ぐな、何かを確信している眼差し。
「……お客様?」
怪訝に思って私が小首を傾げると、男はようやく、ふっと口角を上げた。
狼のような不敵な髪が、笑みと共にわずかに揺れる。
「……変わらないな。君のその、困ったときに出る眉間の皺まで、俺の記憶にある通りだ」
彼は迷いのない足取りでカウンターの席へと腰を下ろした。
記憶の図鑑のどこを捲っても、この男の項目は見当たらない。
それなのに、彼が発する空気の端々に、私は形容しがたい「既視感」を覚えていた。
それは、真夏の午後、不意に降り出す夕立の匂いのような唐突で抗いがたい懐かしさ。
「……ご注文は何になさいます? 飲み物くらいなら、すぐにお出しできますわ」
私は動揺を隠すように、事務的な口調で尋ねた。
男はメニューを指先で弾き、私を見据えたまま言った。
「甘すぎないやつを。蜂蜜は控えめ、ソースには野苺の酸味を混ぜてくれ。君、昔から甘ったるいのは得意じゃなかったろ。どちらかと言えば、少し苦みのあるカラメルや、酸味の強いベリーを好んでいたはずだ」
私は、氷を砕く手を止めた。
なぜ、この男が私の嗜好を知っているのか。
アストライアを救った後の、このタイミングで。
お客様の好みを覚えるのは私の仕事であっても、見ず知らずの他人に自分の「核」となる好みを覗き込まれるのは、これ以上なく不作法で、不快なはずだった。
「……失礼ですが、お客様。私たち、どこかでお会いしたことがありまして?」
私は、カウンター越しに彼を真っ直ぐに見据えた。
男は、私の問いかけを待っていたかのように、低く、喉を鳴らして笑った。
不規則な段を描く紺青の髪の隙間から、スモークブルーの瞳が楽しげに細められる。
「いいよ。忘れてていい。忘れられる程度の男だったのは、俺の方だ」
彼はそう言うと、窓の外で狂ったように鳴く蝉の声に耳を傾けた。
その横顔は、まるで遠い過去の断片を慈しんでいるかのように穏やかで、けれど私にとっては、この夏の熱気よりもずっと逃げ場のない圧迫感を持って迫ってきた。
私は無言でキッチンに戻り、彼の注文通りの飲み物と、余っていたカカオテリーヌに酸味の強いベリーソースを添えた。
カウンターに置かれた一皿を、男は一口、ゆっくりと時間をかけて咀嚼した。
その瞬間、彼の眉間がわずかに寄り、口元に何とも言えない満足げな笑みが浮かぶ。
「……美味いな。不作法なほどに芯が通っていて、一口食べれば、もう他の退屈な料理には戻れなくなる……やっぱり君の料理は、最高に質のいい『毒』だ」
「毒だなんて、褒め言葉として受け取っておきますわ……けれど、名乗る気のないお客様に、これ以上私の手の内を明かすつもりはありませんわよ?」
私が少しだけ棘を含ませて言うと、男は満足げに立ち上がった。
彼は懐から、汚れのない数枚の銀貨をカウンターに置いた。
そして去り際に、私の心臓を裏側から掴むような言葉を吐き捨てた。
「安心しろ。今さら泣きながら『お嫁さんにして』なんて言わせる気はない。俺は、君を縛りに来たんじゃない。ただ、迎えに来ただけだ」
「……っ、なんですって!?」
私が反論する間もなく、彼は振り返らずに店を出て行った。
開け放たれた扉から、熱を孕んだ夏の風が勢いよく吹き込み、入り口のベルを激しく揺らす。
カウンターの上には、彼が置いた銀貨と共に、一輪の「青い薔薇の押し花」が残されていた。
私はその場に立ち尽くしたまま、逃げていく彼の背中を目で追った。
心臓が、耳の奥で早鐘を打っている。
――迎えに来た?
――お嫁さん?
その断片的なキーワードが、頭の中で激しく火花を散らす。
脳裏に、不意に鮮烈な、そしてひどく眩しい映像が浮かんだ。
真っ青な空。見渡す限りの花畑。
そこで、泥だらけの顔で、今にも消え入りそうな声で泣きべそをかいていた、一人の少年。
私は、彼の涙を止めたくて、そしてその不甲斐なさを叱咤したくて、たしかに言ったのだ。
『泣き止みなさいな。そんなに悲しいなら、私が貴方の……』
「……嘘でしょう。本当に、そんな不作法なことを口にしましたの、私?」
私は自分の額を抑え、深すぎる溜息を吐いた。
十数年前の、幼い頃の、適当極まりない慰めを、なぜ、あんなに狼のような鋭い色気を纏った男が後生大事に抱えて現れるのか。
「……アリシア? 今の客は、誰だい?」
店内の奥、アストライアから持ち帰った荷物を整理していたルイ様が姿を現した。
彼の透き通るようなエメラルドの瞳が、カウンターに残された押し花と、私の青ざめた表情を捉える。
その表情が、一瞬で王としての冷徹な鋭さを取り戻したのを私は見逃さなかった。
それは、王としての警戒心ではない。
もっと個人的で、剥き出しの、「独占欲」に近い熱。
「……ルイ様。ええと、その……ただの、少し風変わりなお客様ですわ」
「そうかい? だけど、今の男が去り際に君に向けていた気配は……到底、ただの『客』が店主に向けるものではなかった。それに、その青い薔薇」
ルイ様は私の隣に立ち、カウンターに残された押し花をじっと見つめた。
彼の手が、無意識のうちに私の肩へと伸び、引き寄せるように置かれる。
普段なら顔を赤らめて逃げ出すような彼のストレートな愛情表現も、今は不思議と、私を繋ぎ止めてくれる唯一の錨のように感じられた。
「なんだか、アストライアの軍勢に囲まれた時よりもずっと……非常に、嫌な予感がするのだが。アリシア、君は本当に、彼に心当たりがないのかい?」
「……それが、思い出せませんの……いえ、思い出してはいけないような気がしてきましたわ」
私は、震える指先でその押し花をそっと手に取った。
押し花からは、微かに、けれど確実にあの男と同じ「旅と夜の匂い」が漂ってくる。
「ルイ様……今日のディナーは、少し火力を強める必要がありそうですわ……この夏の暑さを、すべて焼き切ってしまうくらいの勢いで」
「……ああ。そうだね。私も、いつもより少し、君のそばを離れたくない気分だよ、アリシア……何があっても、私は君を手放すつもりはないからね」
ルイ様の低い声が、夏の熱気の中で心地よく、けれど不穏に響く。
ジリジリと、蝉の声が最高潮に達する。
カフェ・ヴァレンタインの穏やかな夏は、今、一通の手紙と、とある男の登場によって、予期せぬ「激動」の季節へと姿を変えようとしていた。
次にベルを鳴らすのが、運命か、あるいは過去の清算か。
私は店主として、逃げることなく、その不作法なすべてを料理して差し上げる覚悟を決めた。




