第19話 一口の温度、そのお勘定
静寂が、王座の間を支配した。
つい先刻まで、世界を焼き尽くさんと狂い咲いていた太陽の魔導――その暴威が、まるで魔法が解けたかのように、柔らかな琥珀色の余熱へと変じている。
ジョエルの震える指先が、差し出された銀のスプーンを、吸い寄せられるように掴み取った。
彼は信じられないものを見るような目で、目の前にある一切れのフォンダン・ルージュを凝視している。
彼はゆっくりと、祈りにも似た動作でそれを口へと運んだ。
その瞬間、ジョエルの瞳が大きく見開かれた。
サクッとした薄い生地が弾け、中から溢れ出した熱々のソースが彼の舌を包み込む。
漆黒のカカオの濃厚な苦みと、野苺の鮮烈な酸味。
そして、それを一つに纏め上げる黄金色の蜂蜜の、暴力的なまでの甘さ。
「……ッ、あ……」
ジョエルの喉が、一度大きく鳴った。
凍てついていた彼の視界が、一気に熱を帯びて歪み始める。
彼が数十年の歳月をかけて積み上げてきた「支配の数式」は、たった一口のデザートがもたらした「生命の温度」に触れた瞬間、その土台から音を立てて瓦解していった。
ジョエルが膝を突き、石畳に崩れ落ちる音は、王座の間に奇妙なほど重く響いた。
暴走していた魔導の残り火が、彼の周囲で光の粒となって霧散していく。
「……何という、不作法な毒だ」
ジョエルは、掠れた声で呟いた。
そのくすんだペリドットの瞳からは、冷徹な計算機の光が消え、代わりに取り返しのつかない喪失を知った一人の老人の深い哀しみが、じわりと溢れ出していた。
「私は……この力こそが、アストライアを導く唯一の太陽だと信じていた。弱く、脆く、移ろいやすい人の情など、秩序を乱す不純物に過ぎぬと……そう、切り捨ててきた」
ジョエルは、空になった皿を見つめた。
そこには、彼が「無意味だ」と断じたはずの温かさが、微かな湯気となって確かに残っている。
「だが、お前が差し出したこの一皿は……私が一度だって計算式に含めることができなかった、この世の真理そのものだった……ルイよ。王の隣にこれほどの『熱』を置いたお前の勝ちだ。私は……負けたのだな」
ジョエルは、震える手で顔を覆った。
彼が追い求めたのは、誰にも侵されない完璧な世界。
だが、その中心には、自分自身の孤独を癒すための「食卓」が欠落していた。
ルイ様が一歩、叔父である彼の前へと踏み出した。
太陽の紋章はもはや威嚇の光を放たず、ただ、迷いの中にある肉親を照らす灯火のように穏やかに輝いている。
「叔父上……私は、貴方を許すことはできません。この街を凍らせ、民を燃料に変えようとした罪は、王座の上からも、地上の上からも、消えることはないでしょう」
ルイ様の声は静かだった。
けれど、そこにはかつての逃避行を続けていた「折れた太陽」の影は微塵もなかった。
「ですが、貴方がこの一口で、失っていた温度を思い出したというのなら……私は貴方を、一人の人間として、この王宮から送り出します。それが、私の愛したこの『不作法な居場所』の流儀です」
ジョエルは一度だけ、顔を上げてルイ様を見やった。
それから、ゆっくりと立ち上がり、背を向ける。
「……ご馳走様、とは言わんぞ……そんな言葉を口にすれば、私のこれまでの人生すべてが、あまりに滑稽なものになってしまう」
ジョエルは、自嘲気味に口角を歪めると、一度も振り返ることなく王座の背後に広がる深い影の中へと歩みを進めた。
彼を捕らえる者はいなかった。
自身の築いた理が、一人の料理人のデザートによって完膚なきまでに論破された今、彼にはもはや、世界を脅かす力は残されていなかった。
彼は生涯をかけて、自らが切り捨ててきた「一口の温かさ」という重すぎる対価を払い続けることになるだろう。
それが、アリシアが用意した、最高に甘くて残酷な「お勘定」だった。
◇
王宮の外では、ようやく本物の朝日がアストライアの石畳を照らし始めていた。
ジョエルの呪縛から解き放たれた兵士たちが、夢から覚めたような足取りで、ヴァレンタイン号から漂う芳醇なスープの香りに誘われて集まってくる。
「さて、店主殿。私の投資は、期待を遥かに上回る形で実を結んだようだ。配当を受け取る喜びというのは、何度経験しても飽きませんな」
ユリウスが、派手な外套を翻しながら階段を下りてきた。
眼鏡の奥の蒼い瞳は、既に「戦後」の利権と物流の再編をシミュレートしているのだろう、狐のような鋭い輝きを取り戻している。
その隣では、セシルが大きな丸眼鏡を拭いながら、分厚い報告書を脇に抱えて満足げに頷いていた。
「ユリウス、セシル。王都の裏側で、民の命を守るために動いてくださったこと、心より感謝いたしますわ」
私が一礼すると、セシルがキラキラと瞳を輝かせて身を乗り出した。
「お礼など、アリシア様! 私はただ、この騒動が終わった後に、あの『森の実りのタルト』を安心してホールで注文できる環境を整えたかっただけですわ! 次は必ず、ギルドの休暇を申請して、開店から閉店まで居座らせていただきますからね!」
相変わらずの潔い食いしん坊ぶりに、私は思わず噴き出してしまった。
ユリウスはそんな彼女の頭を軽く叩くと、不敵な笑みを私に向けた。
「……では、私は一度盤から降りましょう。次に私がこの席へ戻る時、この街の『味』がより豊かになっていることを祈りますよ。店主殿、ルイ殿……良い投資先に出会えたこと、光栄に思う」
ユリウスとセシルは、王都の混乱を鎮めるために喧騒の中へと消えていった。
一方で、影の中から音もなく現れたのは、イグニスだった。
アッシュグレーの長髪に、返り血ではない何かの魔導の残滓を纏った彼は、ひどく不機嫌そうに鈍色の瞳を細めていた。
「イグニス、貴方も行ってしまうの?」
「……ふん。俺は取り立て屋だ。報酬のない場所に長居する趣味はねえ……だが、あの森の庭の土、俺がいない間に雑草が増えてそうだからな……気が向いたら、また肥料の相談に乗ってやる」
死の気配を纏う殺し屋は、一度もこちらを見ることなく、ふいと背を向けて森の方角へと消えていった。
だが、その歩みは以前のような冷たさはなく、どこか「帰る場所」を急ぐ者のそれであったように思う。
カトリーナは「不作法な兵士共の顔なんて、もう見飽きましたわ!」と毒づきながらも、テリオンと共に、ジュリアンのユニコーンが癒しきれなかった微細な魔力汚染の浄化に手を貸していた。
マルクス率いる鉄衛騎士団も、本来の自分たちの拠点であるカフェ周辺の警備へと戻るべく、整然と隊列を組み直している。
一時的な同盟は、静かに、そして確実に解散していく。
それは冷たい決別ではなく、それぞれが自身の日常を取り戻したという、何よりの勝利の証だった。
◇
私たちは、夕暮れに染まる街道を、再びカフェ・ヴァレンタインへと向かっていた。
上空ではアビーがのんびりと翼を休ませながら旋回し、御者台ではバルトが、まるで何事もなかったかのような完璧な手綱捌きで馬車を走らせている。
車内には、私とルイ様の二人だけだった。
揺れる馬車の中、窓から差し込む茜色の光が、ルイ様の穏やかな横顔を照らしている。
「……ルイ様。結局、何も終わっていませんわね。叔父上は姿を消し、王都の傷跡も、この国の未来も、まだ霧の中ですわ」
私が膝の上のフライパンをなぞりながらぽつりと呟くと、ルイ様はそっと私の手に自身の大きな手を重ねた。
「それでいい、アリシア。すべてを一瞬で解決するのは、あの方が求めた冷徹な計算の領分だ。私たちは、これから時間をかけて、少しずつ温め直していけばいい。この国も……そして、私たちの関係も」
ルイ様の言葉が、胸の奥の深い場所に、フォンダン・ルージュの熱のようにじんわりと染み込んでいく。
彼は王座を弟のカインに託し、再びこの不作法な森へ戻る道を選んだ。
それは、王としての義務以上に、一人の男として私と共に生きるという、静かな、けれど苛烈なまでの決意表明だった。
「……では、戻りましょうか。私たちの、カフェへ」
「ああ……お腹が空いたよ、アリシア。君の焼いた、あの少し焦げた不器用なパンが食べたい」
「あら、ルイ様。私のパンは、不器用ではなく、不作法に美味しいのですわよ? ……お代は、一生かけて、高くつきますわよ」
私たちが小さく笑い合うと、馬車はいつもの、あの不作法に生い茂った森の入り口へと差し掛かった。
嵐は去った。
けれど、世界はまだ不完全で、残酷な余韻を孕んでいる。
それでも、私たちが選んだこの日常という名の戦場は、どんな宮殿よりも気高く、愛おしい熱量に満ちていた。
◇
カフェ・ヴァレンタインの玄関。
そこには、クラリスとゾアが、完璧な準備を整えて私たちを待ち構えていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様、ルイ様……中の秩序は私めが保っておきました。夕食の準備も、お嬢様がフライパンを握るその瞬間を今か今かと待ちわびておりますよ」
バルトが優雅に扉を開けると、そこには懐かしい、木とハーブ、そして僅かなスパイスの香りが漂っていた。
私はエプロンを締め直し、キッチンへと向かおうとした。
――だが、その時。
入り口のポストに、一通の、見慣れない封筒が届いているのに気づいた。
それは、アストライアの公用封筒でも、商人の請求書でもなかった。
淡いブルーの紙に、美しく型押しされた「青い薔薇」の紋章。
そこには、どこか高貴で、けれど懐かしい、流麗な筆跡が踊っていた。
『アリシアへ。
風に乗って、面白い噂が届いた。
森の奥で、看板もろくに出さずに
店を開いている貴族令嬢がいるらしい。
……まったく、君らしい。
あの花畑で、俺の手を掴んで言った言葉を、
俺は一度も手放していない。
忘れたふりをするほど、器用じゃないんでな。
だから――迎えに行く。
精算だの、清算だの、
堅苦しい言い方は好みじゃない。
ただ、約束の続きをしに行くだけだ。
逃げ道なら、俺が選ぶ。
夜道でも構わないだろう?』
……ええと、これは……。
私は、その手紙を読んだ瞬間、記憶の最深部に埋もれていた「何か」が、おぼろげに輪郭を持ち始めるのを感じた。
真っ青な空。
見渡す限りの花畑。
そして――泣いていた、ひとりの少年。
夜の色をした髪を乱して、必死に涙をこらえようとしていた、どこかの没落寸前だった貴族の子息。
そうだ。
私はあの時、彼をどうにか黙らせたくて、深く考えもせずに口を滑らせたのだ。
「大きくなったら、お嫁さんになってあげますわ」
今思えば、あまりにも無責任で、あまりにも軽率。
慰めのつもりで投げたその言葉に、意味も重みも持たせる気なんて、欠片もなかった。
――忘れていたのは、当然だ。
あれは私にとって、数ある幼少期の失言のひとつでしかなかったのだから。
けれど。
その「忘れていたはずの約束」を、十数年越しに律儀に覚えている男がいるとしたら。
しかも、それをわざわざ手紙にしたためて寄越すほどに。
「……冗談でしょう」
思わず、そう呟いた。
胸の奥に、説明のつかないざらつきが残る。
あの時泣いていた少年は、もういない。
代わりに現れようとしているのは、私の過去を盾に、堂々と扉を叩いてくる「男」だ。
正直に言えば、少し、厄介な予感しかしなかった。
「アリシア? どうしたんだい、そんな難しい顔をして……それは、誰からの手紙かな?」
背後から、ルイ様がひょいと手紙を覗き込もうとした。
私は心臓が跳ね上がるのを感じ、全速力でその手紙を背中に隠した。
「い、いえ! 何でもありませんわ、ルイ様! ……ただの、不作法な季節の挨拶ですわ、ええ、そうですわ!」
「……そうかい? なんだか、ルイとしてではなく、一人の男として、非常に嫌な予感がするのだが……その青い薔薇の紋章、どこかで見覚えがあるような……」
ルイ様の直感が、かつてないほど鋭利に冴え渡っている。
私は引き攣った笑みを浮かべながら、後ずさりしてキッチンへと逃げ込んだ。
幼馴染。
結婚の約束。
そんな絵本に出てくるようなお話、今の私に必要ありませんわ!
私は、今、この場所で、ルイ様やみんなと過ごす不作法な日々に、お腹いっぱい満足しているのですから。
けれど、新しい波乱の、あるいは甘酸っぱい「ドタバタ」の足音が、扉のすぐ外まで来ていることに、私はまだ気づいていなかった。
私は、深呼吸をして、いつものように力強くフライパンを握りしめる。
「クラリス、仕込みを始めますわよ! ……まずは、騒がしい心臓を落ち着かせるための、最高のディナーからですわ!」
その時、カラン、と。
入り口のベルが、軽やかに鳴った。
「いらっしゃいませ!」
第4章 Fin
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
第4章は「力」や「正しさ」ではなく、「温度」で決着をつける章でした。
世界を支配しようとした者と、ただ一皿を差し出した者。
そのどちらが人を救うのか——答えは、きっと明白だったと思います。
アリシアとルイは王宮を後にし、再び「日常」へと戻りました。
けれど、物語が終わったわけではありません。
次章では、少し肩の力を抜いて。
過去から届いた一通の手紙が、アリシアの平穏な日々を、別の形で揺らしていきます。
不穏ではないけれど、決して静かでもない——
そんなラブファンタジーの第5章も、お付き合いいただければ幸いです!




