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店主アリシアは美味しく未来を調理する 〜婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の上客に甘やかされて困ってます〜  作者: 白月つむぎ
第4章

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第18話 盤面の崩壊、甘美なる最終手

 白亜の王宮、その深部にある王宮徴収局の一室は、外の喧騒が嘘のような死の静寂に包まれていた。


 かつては大陸一の物流を誇ったアストライアの心臓部。

 だが今、ここに並ぶ無数の書架と机は、あるじである役人たちがジョエルの魔導儀式に「燃料」として駆り出されたことで、抜け殻のように寒々しい。


 その部屋の片隅で、一人の初老の役人が、震える手で帳簿を捲っていた。

 彼の名はエドモン。

 アストライアに三十年仕えてきた、実直さだけが取り柄の兵站官だ。

 彼は恐怖に顔を歪めながら、目の前の数字の「不一致」に頭を抱えていた。


「おかしい……計算が合わん。王都全域の魔導結界を維持するための『刻印石』が、昨日から三割も消失している。それだけではない、地下蔵に備蓄されていたはずの保存食までもが、まるで煙のように消え去っている……」


 ジョエルの支配下において、数字の不一致は「反逆」と同義だ。

 発覚すれば、自分もまたあの冷たい儀式の祭壇へ捧げられることになるだろう。


 エドモンは胃を握りつぶされるような痛みに耐えながら、必死に羽ペンを走らせた。

 だが、書き直せば書き直すほど、事実は残酷に彼を追い詰める。

 この王都の「ことわり」そのものが、内側から腐り落ち、別の何かに書き換えられているのだ。


「……それは、消えたのではありませんよ。正当な投資家へ、配当として支払われただけのことです」


 不意に、背後から軽薄な、けれど背筋を凍らせるほど冷静な声が響いた。

 エドモンが弾かれたように振り返ると、そこにはいつの間に入り込んだのか、王都で流行りの派手な外套を纏った一人の男が立っていた。

 綺麗に切り揃えられた金髪。

 知性を感じさせる眼鏡の奥の蒼い瞳は、獲物を品定めする狐のように細められている。


「き、貴様は……何者だ! ここは王宮の禁域だぞ!」


「おっと、失礼。私はただの投資家ですよ……まあ、この盤面が破綻するか、それとも逆転するか。その結果に、人生を賭けている男、とでも呼んでください」


 男――ユリウスは、大仰な動作で帽子を取ると、優雅に、しかしどこか人を食ったような笑みを浮かべて一礼した。

 彼はエドモンの怯えを気にする様子もなく、ずいと机に歩み寄ると、その長い指先で帳簿の一節を指し示した。


「兵站官殿、貴方の悩みはこれでしょう? 刻印石の消失、食糧の不足、そして近衛騎士団への不自然な補給記録……これらはすべて、ジョエルという『支配者』が計算外に置いた、不純物の仕業ですよ」


「不純物だと……? 貴様、何を知っている!」


「私が知っているのは、ジョエルが恐怖で縛り上げたこの王都が、実はとっくに『腹を空かせている』という事実だけです」


 ユリウスは懐から、一冊の几帳面な綴じ込みを取り出し、机の上に置いた。

 そこには、感情を一切挟まない、極めて事務的で冷徹な筆跡が並んでいた。

 処刑記録と収監者数の不一致。

 ジョエルの魔導契約によって「命を吸い取られている」市民たちの詳細なリスト。

 そして、その呪縛を解くための「対価」として、どこのギルドが、どの孤児院が、どの商人が動いているかという、膨大な相関図。


「……これは、セシルのまとめです。彼女、無駄話を嫌うんですよ。だから『事実』しか書かない……これを見れば、王都の流通をジョエルから奪い取り、裏で誰に食糧を回しているか、一目瞭然でしょう?」


 エドモンは、その書類を貪るように読み込んだ。

 読み進めるうちに、彼の顔から血気が引き、代わりにある種の戦慄が走り抜けた。


 ジョエルが「恐怖」と「計算」で構築した絶対的な支配。

 だが、その足元では、アリシアのカフェを訪れたあの詐欺師と、その相棒である影のプロフェッショナルが、数日前から蟻の穴を穿つように、王都のシステムを食い破っていたのだ。


「ギルドの報告書を書きながら空腹に耐えていた彼女が、ようやく本気を出しましてね。今、王都の闇市場や孤児院のネットワークを通じて、ジョエルの結界を支える魔導回路には、致命的な『不純物』が混入されている……もう、ジョエルが指を鳴らしたところで、この街の民は一人も死にませんよ。死ぬのは、あの方のプライドだけだ」


 ユリウスは狐のような笑みを深め、眼鏡の奥で蒼い瞳を不気味に光らせた。

 彼がかつてカフェを去る際、店主であるアリシアへ遺した言葉。


『盤上の駒は、自らが駒だと気づいた時が一番強い』。


 今、この王都で、ジョエルの命令に従うふりをしながら牙を研いでいた「駒」たちが、一斉に盤をひっくり返し始めていた。


「兵站官殿……賭けは、もう終わっています。あとは、誰がこの結果にサインをするか、それだけですよ」


 ユリウスがそう告げた瞬間。

 窓の外、王宮の正面階段の方角から、轟音と共に一つの「香り」が流れ込んできた。

 冷え切った王宮の空気を一瞬で塗り替える、濃厚で、暴力的なまでに温かな、蜂蜜と肉の芳香。


「……ああ。来たようですね」


 ユリウスは窓辺に歩み寄り、遠く英雄の階段を見上げた。

 そこには、黄金の魔力を纏った一台の馬車。

 そして、フライパンを手にし、最強の近衛騎士団さえも食卓へといざなう銀髪の令嬢の姿が見えた。

 

「……やはり、理屈じゃない。盤面をひっくり返すのは、いつだって、あのお嬢様が用意するような『理屈じゃない一手』だ」


 ユリウスは満足げに肩を竦め、懐から今朝の残りだというフォカッチャの包みを取り出した。

 彼はそれを一口だけ、大切そうに咀嚼し、目を細める。


「セシル、聞こえるか? ……準備は整った。あのお嬢様が、王宮の扉を料理の香りでぶち破った……次は、君の出番だ。王都の帳簿を、正義の名前で書き換えてやりなさい」


 部屋の隅、影の中から返答はなかった。

 だが、そこには一瞬だけ、丸眼鏡の奥で鳶色の瞳が輝くような錯覚と、几帳面な書類が捲れる音だけが残った。


 ◇


 その頃。

 王宮の最上階、王座の間へと続く重厚な扉の前に、私たちは立っていた。

 リザードマンの近衛騎士たちが、もはや敵ではなく、腹を空かせた一人の生命として私たちの背後で安堵の溜息をついている。


「ルイ様……扉が、開いていますわ」


 私は、誰の手も借りずに自ら解かれた扉を見つめた。

 内側からかんぬきを外したのは、カインだろう。


 彼は今、どこかで見守ってくれている。

 この先にある「決着」を、アストライアの正当な継承者として。


 私は、ルイ様の横顔を見た。

 彼の瞳には、もはや迷いはない。

 エメラルドの輝きは、アリシアが灯したキッチンの火のように、静かで、力強い熱を宿している。


「行こう、アリシア……叔父上に、私たちのフルコースを届ける時だ」


「ええ……とびきり濃厚な一皿を、用意しておりますわ」


 私たちは、一歩、王座の間へと踏み込んだ。

 広大な広間の中央。

 アストライアの象徴である太陽を模した円環が刻まれた床の上に、一人の男が座っていた。


 くすんだペリドットのような瞳。

 完璧に整えられた身なり。

 ジョエルは、私たちが現れたことに驚く様子も見せず、ただ手元の小さなチェス盤を見つめていた。


「……不作法な者たちだ。私の精緻な計算を、こうも安っぽい『香り』と『味』で掻き乱すとは……不純物が混じった盤面など、もはや眺める価値もない」


 ジョエルが、指先でチェスのキングの駒を弾いた。

 駒は石畳の上で虚しく転がり、高い音を立てて止まる。


「だが、お前たちは忘れている……アストライアの太陽は、支配のためだけの力ではない……それは、この国そのものを灰に帰す、終焉の光でもあるということを」


 ジョエルが立ち上がった瞬間、王宮全体が激震した。

 床に刻まれた術式が、不気味な赤黒い光を放ち始める。


 イグニスが持ち帰った「最終的な破壊」。

 ジョエルは、自身の計算通りに世界が動かないのであれば、この王都アストライアそのものを道連れに、心中を図ろうとしているのだ。


「……叔父上! 止めてください! これ以上、民を、この国を傷つけるのは!」


 ルイ様が叫び、右手の紋章が黄金の光を放つ。

 だが、ジョエルは冷酷な笑みを浮かべ、天空へと手をかざした。


「遅い……儀式は既に、臨界を超えた……太陽の魔導を制御できるのは、真なる絶望を知る者のみ……ルイ、お前のような、料理の甘さに中てられた腑抜けた王に、何ができるというのだ」


 王宮の天井が割れ、そこから太陽の暴走したエネルギーが、巨大な火柱となって降り注ごうとしていた。


 カトリーナが、必死に防壁を張る。

 バルトが、ルイ様の前に立ちはだかる。

 イグニスが、影のダガーを構えてジョエルの隙を伺う。

 

 けれど、私はただ一人、この場に似つかわしくないほど穏やかな動作で、旅鞄から一つの皿を取り出した。


 それは、過去にカインに振る舞い、ルイ様を骨抜きにした、あの『雪解けのフォンダン・ルージュ』。

 

 公爵家から持ち出した「ソレイユ・スパイス」を極限まで練り込み、アストライアの暴走する魔力さえも「火加減」として利用し、今この瞬間に焼き上がったばかりの、究極のデザート。


「……そんなに冷え切った顔をしないでくださいな、ジョエル叔父様」


 私は、吹き荒れる魔力熱の中で、一歩、ジョエルの前へと進み出た。

 銀髪が炎のように舞い、瞳にはマリンブルーの強い光が宿る。


「貴方の計算が狂ったのは、貴方が一度も、この『温度』を知ろうとしなかったからですわ。絶望で世界を焼き尽くす前に、まずはこの甘さで、ご自分の凍てついた心を溶かしてご覧なさいな」


 私は、黄金色の蜂蜜をたっぷりと回しかけたフォンダン・ルージュを、ジョエルの目の前へと突き出した。


 暴走する太陽の熱。

 それさえも、このデザートの「ソース」を温めるための熱量に過ぎない。


(ジョエル。貴方の描いたチェックメイト――私が、世界で一番甘くて、不作法な「デザート」で、白紙に戻して差し上げますわ!)


 私は、スプーンをジョエルの手元へと、優雅に差し出した。

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