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店主アリシアは美味しく未来を調理する 〜婚約破棄されたのでカフェを開業したら秘密の上客に甘やかされて困ってます〜  作者: 白月つむぎ
第4章

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第17話 黄金の蜜と、カインの確信

 第一城門を香りで突破し、第二検問をバルトとイグニスの鮮やかな連携で無力化したヴァレンタイン号は、ついに王都アストライアの最深部、白亜の王宮へと続く「英雄の階段」の麓へと到達した。


 かつては勇壮な騎士たちが凱旋を遂げ、民衆の歓声が響き渡ったはずのその大階段は、今やジョエルの放つ冷徹な魔導によって白く凍てつき、刺すような緊張感に支配されている。


 階段の頂上、王宮の重厚な扉を背にして整列していたのは、ジョエルの「右腕」と称される最強の近衛騎士団。

 全身を鈍色の硬質な鱗で覆い、身の丈を超える巨大な槍を携えたリザードマンの精鋭部隊だった。

 その中心に立つのは、全身に数多の傷跡を刻んだ老戦士、近衛団長ガザ。

 彼はかつて、ゾアと共に大陸中の戦場を渡り歩いた伝説の戦士でもある。

 だが、今の彼の瞳には、戦士の熱情ではなく、ジョエルに誓わされた「狂信的な忠誠」という名の霧が立ち込めていた。


「……止まれ。これより先は、不浄なる者の立ち入りを禁ずる聖域なり。我が部族の誇りに懸けて、一歩たりとも通すことは叶わぬ」


 ガザの声は、地響きのように重く、冷たい。

 その背後に控えるリザードマンたちの喉からは、低く不気味な唸り声が漏れ出している。

 彼らはジョエルの魔導によって、恐怖も痛みも、そして「空腹」さえも忘却させられた、生ける防壁と化していた。


 その時、王宮の高く暗い回廊の影に、一人の青年の姿があった。


 カイン・ソル・アストライア。

 ルイ様の弟であり、この王宮で今もなお、兄の玉座を、そしてアストライアの尊厳を死守し続けている孤独な守護者。

 彼は冷徹な瞳で、階段の下に陣取った不作法な移動式キッチンを見下ろしていた。


(……兄上。貴方は、どのような答えを携えて戻られたのですか。力でこの門をこじ開け、血でこの石畳を洗うというのなら、私は貴方を否定しなければならない。それが、かつて私に『温かな毒』を飲ませた貴方への、私なりの誠意だ)


 カインは、手にした儀礼剣の柄を強く握りしめた。

 かつてカフェ・ヴァレンタインで、バルトに山盛りにされたシチュー。

 アリシアが作った、暴力的なまでに甘く、すべてを許すようなフォンダン・ルージュ。

 あの時、腹の底まで届いた不快なほどの熱。


 カインは、凍てつく王宮の空気の中で、自身の胃の奥に残っている「あの時の記憶」を頼りに、眼下の光景を注視していた。


 ◇


「バルト、イグニス……ここは、貴方たちの出番ではありませんわ」


 私が馬車から一歩踏み出すと、冷たい風が銀髪を激しく揺らした。

 バルトが心配そうに眼鏡の奥の瞳を細め、イグニスが影の中でダガーの柄に手をかける。

 けれど、私は彼らを制し、大階段の冷たい石段を一段、また一段と踏み締めて進んだ。


 右手には、銀色のフライパン。

 そして左手には、予備の黒蜂蜜が詰まった小瓶。

 私の傍らには、ルイ様が王としての威厳を纏い、静かに付き添っている。


「誇り、ですって? ……笑わせないでくださいな。貴方たちが今抱えているものは、誇りではなく、ただの『呪縛』という名の空腹ではありませんか」


「黙れ、人間の女。我らリザードマンに、食への執着などという卑俗な理屈は通じぬ。我が槍は、不敬なる者を貫くためにのみある」


 ガザが巨大な槍を突き出し、その鋭い刃先が私の喉元数センチで止まった。

 けれど、私は瞬き一つせず、彼の腕に刻まれた「ある傷跡」を見つめた。

 それはかつて、飢饉に喘ぐ自身の部族を守るために、自らの肉を削って魔獣の牙を逸らした際に負ったと言われる、英雄の証。


「……その古傷、誇りでしょう? ですが、その傷が訴えているのは、あの方への忠誠などではありませんわ……『仲間を救いたい』という、泥臭くも温かな、生命の叫び。それを今、あの方は力ずくで踏みにじっているのです。貴方の胃袋を、石のように冷たく凍らせることで」


 私は、ガザの目を真っ直ぐに見据え、不敵な笑みを浮かべた。


「カトリーナ、火入れを! ジュリアン、最高の肉をここへ!」


 私の号令と共に、ヴァレンタイン号の側面が再び豪快に展開した。

 

 ゾアは今、不測の事態からカフェを、そして王都の混乱から逃れてくる民を守るために、彼はあえて残る道を選んだ。

 けれど、彼の「戦士の矜持」は、今この場所に私と共にあった。


「リザードマンは、一度戦いから離れれば、脳がとろけるような甘露を欲する……ゾアが教えてくれましたわ。ならば、貴方たちの強情な『誇り』ごと、とろけるような甘さで包み込んで差し上げますわ!」


 私は、馬車から引き出された大型の鉄板に、たっぷりの無塩バターを落とした。

 ジューッ、という激しい音と共に、凍てついた王宮の空気が一気に爆発的な熱を帯びる。

 そこへ投入したのは、森の境界でテリオンが仕留めた、最高級の脂が乗った厚切り肉。


「ルイ様……お願い。貴方の、慈愛の光を。彼らの『痛み』を癒すための熱を、ここに」


 ルイ様が、迷いなく紋章を宿した手を鉄板にかざした。

 黄金の魔力が肉の繊維一本一本に染み込み、細胞を強制的に覚醒させていく。

 そこへ私は、公爵邸から持ち出した「ソレイユ・スパイス」を振り、さらに王都の地下蔵から救い出した漆黒の極上蜂蜜をドロリと回しがけた。

 瞬間。

 王宮の大階段を、暴力的なまでの芳香が駆け上がった。


 蜂蜜が加熱され、焦げた砂糖のような官能的な甘さ。

 スパイスが弾け、肉の脂を鮮やかに引き立てる野性味溢れる重厚な香り。

 そして、ルイ様の魔力がもたらす、冬の陽だまりのような温かな熱波。


「……名誉でお腹は膨れませんわよ、ガザ団長」


 私は、フライパンで蜂蜜を肉に絡め、表面をカリカリの飴状に焼き上げた。

 黄金色の輝きを放つその肉塊を、私は大皿に盛り、ガザの足元へと差し出した。


「その古傷、誇りでしょう? でしたら今日は、“生き延びた者の食事”をなさいな……さあ、跪いて。不作法なおかわりを、要求なさいませ」


「……我は、アストライアの盾……ジョエル様への誓いを……」


 ガザの声が微かに震える。

 槍を握る指先が、抗い難い本能の熱に晒されて強張っている。


「誓い、ですって? その冷たい誓いが、貴方の後ろで震えている部下たちの喉を潤してくれますの? ……見てごらんなさい、彼らの目を。もう、嘘はつけませんわよ」


 ガザが後ろを振り返ると、そこには槍を杖にして、今にも崩れ落ちそうなほど香りに酔いしれている部下たちの姿があった。

 彼らの瞳には、ジョエルの冷徹な支配ではなく、かつて部族の焚き火を囲み、戦いの勝利を共に祝った時の、泥臭くも確かな「生命の輝き」が戻り始めていた。


「……あ、あ、ああ……っ!」


 ガザは、咆哮にも似た呻きを上げると、ついにその巨大な槍を石畳に投げ捨てた。

 彼はそのまま、私の目の前で膝を突き、震える手でその皿を掴み取った。


「……食らうがいい! これが、我らが守りたかった、生命の温度だ!」


 ガザが叫ぶと、整列していたリザードマンたちが一斉に崩れ、我先にとヴァレンタイン号のカウンターへと殺到した。


 理屈も名誉も、ジョエルの計算式も。

 すべては、この圧倒的な「甘美なる真理」の前に、無意味な灰となって消え去っていく。


 ◇


 回廊の影でそれを見ていたカインは、自身の震える唇をぎゅっと噛みしめた。


 市民を救い、兵を殺さず、ただ料理の香りで王都の「凍てつき」を溶かしていく光景。

 それは、彼がかつてカフェの円卓で突きつけられた、「玉座の上からでは見えない温かさ」そのものだった。

 

(……兄上。貴方は、剣で支配するのではなく、温もりで人々を繋ぎ止める道を選ばれたのですね。あの時、私を窒息死させるかと思ったほどの不謹慎な甘さを、貴方はこの王都のすべてに分け与えるおつもりか)


 カインは、階段の上で銀色のフライパンを振るう私の姿を、まじまじと見つめた。


 その瞳には、もはや疑念の色はない。

 この女性は、王を堕落させる魔女ではない。


 孤独な王の隣で、誰よりも不作法に、誰よりも熱烈に、彼が歩むべき「正道」を照らし続ける灯火なのだと確信した。


(……兄上は、間違っていなかった。あの不作法な毒にあてられたのが、私だけでなかったことに……今は感謝しよう)


 カインは静かに影の中に消え、王座の間へと続く重厚な内扉のかんぬきを、その手で音もなく外した。

 彼が「門番」として守り続けてきた最後の仕事。

 それは、自らが鍵を開け、真の王を迎え入れることだった。


 ◇

 

 大階段を埋め尽くしていた緊張感は、今や「宴」の熱気へと塗り替えられていた。


 ガザは、最後の一切れを惜しむように飲み込むと、ルイ様の方を向き、深く、重厚な一礼を捧げた。

 その瞳に宿っていた霧は完全に晴れ、真の王を見据える戦士の知性が宿っている。


「……ルイ様……不作法な振る舞い、万死に値します……ですが、この一皿が……ジョエル様に凍らされていた、我らの魂を呼び戻してくれました」


「……よい、ガザ。君たちの誇りは、この一杯のスープと肉の中に、確かに受け継がれていた……行こう。叔父上に、私たちの答えを届けに」


「はっ! 不作法な門番は、今、ここに解散いたしました。扉の鍵は、既に内側から開けられております。陛下、アリシア殿……武運を」


 ガザの言葉と共に、王宮の巨大な扉が、音を立ててゆっくりと開かれた。

 その先にあるのは、かつてのルイ様の玉座。

 そして、そこに君臨する、冷徹な計算機のような男、ジョエル。


 バルトが眼鏡を正し、イグニスが影の中でダガーの輝きを確かめる。

 テリオンは、もはや周囲に敵がいないことを確認し、静かに弓を納めた。


「……行きましょう、ルイ様……デザートを待たせるのは、店主として失格ですもの」


「ああ、アリシア……最高のメインディッシュを、叔父上に召し上がってもらおう」


 私たちは、王宮の長いレッドカーペットを歩き始めた。

 背後からは、満腹になったリザードマンたちの、どこか安堵したような寝息と、「ありがとう」という言葉にならない咆哮が聞こえてくる。


 ジョエル。

 貴方は、名誉や義務で人々を縛り、世界を冷たいチェス盤に変えた。


 けれど、私はこのフライパンで、貴方の盤面を「不作法な食卓」へと変えて差し上げましたわ。


 さあ、最後のチェックメイト。


(貴方の心臓を焼き切るほどの、極上のフルコース……受け取る準備はよろしいかしら?)


 私たちは、王座の間へと続く最後の扉へと、手をかけた。

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