第16話 不作法な強行突破、石畳を焼く芳香
国境の森を揺らす地響きと共に、移動式キッチン・ヴァレンタイン号が発進した。
カトリーナの魔導によって極限まで強化された馬車の車輪は、泥濘む道も、不作法に突き出た岩肌も、まるで平地であるかのように滑らかに、かつ力強く捉えて進む。
上空ではアビーが巨大な翼を広げ、先導の咆哮を上げた。
車内で私は、改装されたばかりの調理台に立ち愛用のフライパンを握りしめていた。
銀色の肌は朝日を浴びて、これから始まる不作法な逆襲への決意を示すように鋭い光を放っている。
「……ルイ様。準備はよろしくて?」
私が隣に立つルイ様に視線を送ると、彼は自身の右手の甲に宿る太陽の紋章を愛おしむようになぞり、力強く頷いた。
「ああ、アリシア。この輝きが、かつてのように誰かを呪うためのものではなく、君の料理の一部として、誰かを温めるためにあるのだと信じている。行こう。私の故郷、アストライアへ」
街道を突き進むヴァレンタイン号の窓から見える景色は、王都に近づくにつれて異様な変貌を遂げていた。
かつては旅人や商人たちで賑わっていたはずの道には、人影一つない。
それどころか、街道脇の木々は白く凍りつき、まるで時間が停止したかのような、吐き気がするほど純粋で冷徹な魔力が大地を覆っている。
これが、ジョエルが敷き詰めた「盤面」の正体。
やがて、眼前にアストライアの第一城門が姿を現した。
切り立った崖の頂に築かれたその門は、巨大な水晶の防壁によって覆われ、触れるものすべてを拒絶するような冷たい輝きを放っている。
門の前に立ちふさがるのは、ジョエルの呪縛によって意志を奪われた、アストライアの精鋭騎士たちだった。
彼らの鎧は黒く変色し、その瞳には生気の一欠片も宿っていない。
「……前方、アストライア第一城門。守備隊、およそ五十。武装、重装歩兵……陛下、アリシア様。これより、不作法な『入城手続き』を開始いたします」
御者台で手綱を操るバルトが、眼鏡の縁を指先で直し、冷静に告げた。
その燕尾服は風に激しくたなびき、群青色の瞳には一点の曇りもない。
門を守る騎士たちのリーダーが、剣を抜き放ち、私たちの馬車を制止しようと前に出た。
その瞳は濁り、ただジョエルから与えられた「侵入者を排除せよ」という命令だけを遂行する自動人形のように無機質だ。
「……ふん。あんな死人同然の連中を、力でねじ伏せても時間の無駄だな」
馬車の屋根に音もなく飛び乗ったイグニスが、鈍色の瞳を細めて呟く。
彼の背後には、テリオンが弓を構え、一点の迷いもない動作で矢を番えていた。
だが、彼らはまだ動かない。
今回の突破において、彼らの武力は「保険」に過ぎないからだ。
「おーっほっほっほ! 良いですわ、アリシア! 不作法な結界には、不作法な熱量をお見舞いして差し上げなさいな!」
カトリーナが馬車の側面に設けられた展開式の魔導コンロに、全力の魔力を注ぎ込んだ。
私は微笑み、改装されたキッチンの「換気レバー」を力強く引いた。
ヴァレンタイン号の煙突から、濃密な、けれどこれ以上なく温かな蒸気が一気に吹き上がる。
私は鍋の中に、公爵邸から持ち出したあの「ソレイユ・スパイス」を惜しみなく投じた。
「不作法な結界には、不作法な熱量をお見舞いして差し上げますわ!」
瞬間、ヴァレンタイン号から放たれたのは、破壊の衝撃波でも、強大な魔法でもなかった。
それは、鼻腔を、そして魂の記憶を直接揺さぶるような「至高の香り」だった。
長期熟成されたバターが熱を得て放つ芳醇なコク。
丁寧に炒められた玉ねぎが湛える、大地のような甘み。
そして、ソレイユ・スパイスが太陽の熱を呼び覚まし、ルイ様の魔力が宿った野菜たちが歌うような香りの旋律。
第一門を覆っていた水晶の結界が、その香り――「熱」に触れた瞬間、微かに震えた。
理屈ではない。ジョエルの冷徹な計算式では解けない、生物としての本能を叩き起こす香りの暴君。
「……な、なんだ、この匂いは……?」
無機質な彫像のようだった黒騎士たちの列に、明確な動揺が走った。
彼らはジョエルの魔導によって、恐怖と義務以外の感情を凍結されていたはずだった。
だが、この香りはそんな表面的な呪縛など無視して、彼らの脳髄の奥底に眠る「記憶」に触れたのだ。
幼い頃、母が作ってくれた温かなスープ。
戦場から帰り、冷え切った体を温めた祝祭の夜の煮込み料理。
厳しい冬を越し、初めて春の陽だまりを感じた時の、あの心の緩み。
凍りついていた石畳の温度が、ヴァレンタイン号が通過するたびに溶け、立ち上る湯気が王都の冷えた空気を強引に「生活」の温度へと引き戻していく。
誰も倒れない。
誰も裏切らない。
ただ、門を守る騎士たちの肩から力が抜け、握りしめた剣の先が、迷うように地面へと下がっていく。
「……腹、減ったな」
守備隊長がぽつりと呟いたその一言は、ジョエルの呪縛が、もっとも原始的な「欲求」の前に敗北した瞬間だった。
彼は無意識のうちに一歩下がり、それを見た他の騎士たちも、潮が引くように道を開けた。
規律が崩れたのではない。
王都の論理が、一皿の料理がもたらす「郷愁」の前に、その意味を失ったのだ。
「進んでください、バルト。お客様をお待たせするのは不作法ですもの」
「承知いたしました、アリシア様」
ヴァレンタイン号は速度を落とすことなく、開かれた城門を悠然と通り抜けた。
通過する際、騎士たちの瞳に宿っていた霧が晴れ、彼らが「自分たちはなぜ戦おうとしていたのか」という困惑の表情を浮かべるのを、私は窓越しに確認した。
だが、真の突破は、ここからだった。
門をくぐった直後、背後で重厚な門扉が閉まる音が響く。
そこには、第一門を突破した私たちを逃さぬよう、ジョエルの「理性的な対応」としての第二の検問が待ち構えていた。
今度は市民たちの亡霊ではない。
ジョエルの意志を忠実に実行する、魔導契約によってがんじがらめにされた「契約兵士」たちが、機械的な正確さで私たちの前に立ちはだかる。
彼らに「香り」は効かない。
彼らは味覚も嗅覚も、既にジョエルへの契約の対価として捧げているからだ。
「……アリシア様。ここからは、少々『事務的な処理』が必要なようです」
バルトが静かに馬車を止め、手綱をクラリスへと手渡した。
同時に、屋根の上にいたイグニスが、影に溶けるようにして地上へと降り立つ。
「バルト、お前が『表』か?」
「ええ、イグニス殿。私めが礼儀正しく、通行の許可を頂戴して参りましょう……貴殿は、その背後にある『不純物』の排除を」
「ふん……いいぜ。飯の邪魔をする野犬どもを片付けるのは、嫌いじゃない」
驚くべきことに、彼らは最初から役割を分担していた。
バルトが燕尾服の襟を正し、第二検問の責任者の前へと歩み寄る。
責任者が武器を構えようとした瞬間、バルトは懐から一枚の書状――もとい、王都の正式な「通行許可証」を取り出した。
「恐れながら……こちら、本日の通行記録でございます。既に王宮の事務方には、陛下のご入城に関する『例外条項』が受理されておりますよ」
「なっ……馬鹿な! そんな記録、我々は聞いていない!」
「おや、おかしいですね……貴殿たちの台帳の、三十五ページ目をご覧ください。私めが、先ほど『修正』しておきましたから」
バルトは不敵な微笑みを浮かべた。
彼は第一門を香りで突破している最中、移動式キッチンの影で、簡易魔導を用いた遠隔操作により、検問所の魔導記録を書き換えていたのだ。
事務と秩序を司るバルトにとって、王都の堅苦しいシステムは、料理のレシピを書き換えるよりも容易な遊び場に過ぎなかった。
「貴様……ッ!」
責任者が激昂し、兵たちに攻撃を命じようとした、その時。
彼らの足元から、黒い影が伸び、兵たちの影を縫い止めた。
イグニスだ。
「……無駄だ。お前らの足元にある『殺気』は、すべて俺が買い取った。動けば、影ごと魂を切り離すぞ」
イグニスの鈍色の瞳が、死の淵のような冷たさで敵を射抜く。
彼は香りが均一に門全体に届くよう、風向きの魔導を微調整しながら、同時に検問所の伏兵たちの位置をすべて特定し、影の魔法で無力化していた。
光の秩序を弄ぶバルトと、闇の死を操るイグニス。
二人の「守護者」による、一切の無駄がない、非暴力的な制圧。
「……ルイ様。不作法な邪魔者は、すべて掃き清められました」
バルトが優雅に一礼し、再び御者台へと戻る。
ヴァレンタイン号は、一滴の血も流すことなく、そして誰一人傷つけることなく、アストライアの第一、第二城門を鮮やかに突破したのだ。
馬車が王都のメインストリートへと足を踏み入れる。
だが、そこには別の地獄が広がっていた。
理性を奪われ、ジョエルの魔導によって「空腹」という苦しみだけを増幅された市民たちが、ふらふらと、熱と香りを求めて馬車へと群がってきた。
「ルイ様。見てください。彼らは、飢えています……けれど、それは食べ物だけではありませんわ。自分たちの心が『自分のものである』という実感が、足りていないのです」
私は、大鍋の蓋を開け、再び最高火力を注ぎ込んだ。
石畳を焼くのは、もはやただの香りではない。
ジョエルの冷徹な支配を、根底から溶かし尽くす「慈愛の熱量」。
「お黙りなさいな。空腹で怒るほど、不作法なことはございませんわよ! ……さあ、温かいスープができましたわ。どなた様も、一列に並んで、不作法なおかわりを要求なさいな!」
私の叫びと共に、ヴァレンタイン号のカウンターが勢いよく開かれた。
ジョエル。貴方はこの街を、冷たい盤面へと変えた。
けれど、私はこの不作法な移動式キッチンで、その盤面を「食卓」へと変えて差し上げますわ。
反逆のフルコース。
その最初の一皿が、今、アストライアの絶望を温かな琥珀色に染め上げていく。
(次の一手、貴方はどのような「不作法」で応えるのかしら?)




