第4話 暴走する熱、そして狩人の溜息
国境の森の朝は、不気味なほどの静寂と、肌を刺すような湿った熱気に包まれていた。
カフェ・ヴァレンタインのキッチンでは、氷を砕く音と、私が振るうフライパンの音だけが規則正しく響いている。
窓の外では既に蝉が狂ったように鳴き始め、朝露が蒸発する匂いが「今日も逃げ場のない夏が来る」と告げていた。
「……まったく、夏という季節は、どうして人の感情まで不作法に発酵させてしまうのかしら」
私は、カウンターの端で、一言も交わさずに並んで座る二人の男に、冷ややかな視線を向けた。
一人は、アストライアの若き王、ルイ様。
彼は離れのログハウスから持ち込んだ書類を広げ、優雅に羽ペンを走らせているが、その視線は時折、隣の男へと鋭く向けられている。
もう一人は、紺青のウルフカットを揺らし、不敵な笑みを浮かべてコーヒーを啜るウォーレン。
彼は客としての節度などどこかに忘れてきたかのように、慣れた手つきで砂糖壷に手を伸ばしていた。
「……ルイ様……ウォーレン……私の目の前で、冷戦を繰り広げるのはおやめなさいな。空気が重くて、せっかくのハーブの香りが台無しですわ」
「アリシア。私はただ、執務をしているだけだよ……隣に、不法侵入者のような気配を感じるだけだ」
「はは。不法侵入とは心外だな、王様。俺は正当な『予約者』として、ここに座っているだけさ……もっとも、注文した覚えのない『冷たい視線』までサービスで付いてくるとは思わなかったがな」
パチパチと、視線が交差するたびに火花が散る。
アストライアでの死闘よりも、よほど神経を削るようなこの不毛な争いに、私は深すぎる溜息を吐いた。
「……お黙りなさいな! そんなに体力が有り余っているのなら、食材の調達を手伝ってくださいませ。夏限定の『黄金ベリー』が、森の北側で食べ頃を迎えているはずですの。冷菓のソースにするには、今朝のうちに摘んでおかなければなりませんわ」
私が提案すると、二人の男は同時に立ち上がった。
「私が護衛を務めよう、アリシア。森の北側は最近、魔力の歪みが激しいと聞く。君を一人で行かせるわけにはいかない」
「魔力の歪み? なら、現場慣れしている俺の方が役に立つぜ。あんたは、その高価な服を泥で汚さないように気をつけてるのがお似合いだ」
◇
結局、地獄のようなパーティ編成が決まった。
先頭を行くのは、この森の主とも言えるダークエルフの狩人、テリオン。
その後ろを私が歩き、左右をルイ様とウォーレンが挟むようにして固める。
テリオンは、背後から漂ってくる尋常ならざる「圧」に、何度も耳をぴくつかせ、不快そうに唇を噛んでいた。
「テリオン、何か見つかりました?」
「……いや。獲物の気配はするが、それ以上に、後ろからのノイズが煩わしい。お前たち、殺気を消せ。森が怯えている」
テリオンの冷徹な指摘に、二人は一瞬だけ顔を見合わせたが、すぐに鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
森の奥へ進むほど、熱気は濃密になり、不自然なほどに重苦しい魔力が漂い始める。
お目当ての黄金ベリーが実る群生地に辿り着いた時、事件は起きた。
――グオォォォォォンッ!
大気を震わせる地響きと共に、巨大な「紅蓮猪」が姿を現した。
身の丈は優に三メートルを超え、その剛毛は夏の猛暑と自身の魔力の暴走によって、文字通り真っ赤に燃え上がっている。
森の主の一体として知られるこの魔獣は、普段は大人しいはずだが、今は理性を失った赤い瞳で私たちを睨みつけていた。
「魔力の熱暴走か。暑さで正気を失っているな……アリシア、下がれ!」
ルイ様が瞬時に前に出た。
右手の甲の「太陽の紋章」が黄金の輝きを放ち、私たちの前に半透明の魔導壁を展開する。
ウォーレンが外套を脱ぎ捨て、背中から二振りの剣を抜き放った。
無造作にレイヤーの入った紺青の髪が夏の風に踊る。
左右の手で逆手に保持された双剣が、陽光を跳ね返して冷徹な銀色の閃光を放った。
「命令はしない――だが、私の背中を信じろ、ウォーレン・アスター!」
「悪くない……行くぞ!」
ウォーレンが狼のような身のこなしで地を蹴った。
凄まじい速度。
左右の双剣が、交互に、そして同時に魔獣の肉を切り裂いていく。
一振りが剛毛を削ぎ、もう一振りがその下の肉を断つ。
二振りの刃が描く軌道は、まるで獲物を追い詰める狼の牙のように鋭く、変幻自在だ。
その時、頭上の樹上から、音もなく二本の矢が放たれた。
一本は魔獣の右目を射抜き、もう一本は左前足の腱を正確に断ち切る。
「……遅いぞ、王と狼。連携がまるでなっていない。私が視界を奪う。今のうちに片をつけろ」
テリオンが樹上から、冷ややかな声で指示を出した。
彼は二人の派手な動きには混ざらず、狩人として最も効率的な「無力化」を、一切の無駄なく実行していた。
「ルイ様! ウォーレン! ただ攻撃するだけでは、その熱を逃がせませんわ!」
私は後方で叫んだ。
料理人としての私の目が、魔獣の背中――魔力が最も集中している「放熱部位」が、異常な高熱によって白く変色しているのを見抜いたのだ。
「あの魔獣は、今、中から煮えている状態ですの! 特定の部位を冷やし、魔力を強制的に『中和』しなければ、自爆してしまいますわよ!」
「冷やすだと!? こんな熱風の中でか!」
ウォーレンが、魔獣の牙を双剣で受け流しながら叫ぶ。
金属が擦れ合う高い音が響き、彼の腕に火の粉が舞う。
「……ならば、アリシア、あれを使え! 私が道を拓く!」
ルイ様が、自身の魔力を一点に集中させ、魔獣の動きを縛るための黄金の鎖を放った。
それに応えるように、私は旅鞄の中から、今朝用意したばかりの「不作法な冷却ハーブ粉」を取り出した。
「ウォーレン、これをあの白くなっている部位へ! ルイ様、その瞬間、一気に浄化の光を叩き込んでくださいませ!」
「了解だ、お嬢様!」
ウォーレンが粉末の瓶を受け取り、再び地を駆けた。
ルイ様が光の鎖を限界まで引き絞り、魔獣の動きを完全に封じ込める。
テリオンが三本目の矢を放ち、魔獣の喉元を射抜いて最期の咆哮を封じた。
その一瞬の隙を突き、ウォーレンが宙を舞う。
紺青の髪をなびかせ、双剣を風車のように回転させて魔獣の背中へと肉薄した。
一振りの剣で魔獣の背中の外殻を強引にこじ開け、その隙間に粉末を叩きつける!
ジュワッ、という水蒸気爆発のような音が響き、魔獣の熱が一気に冷え込んだ瞬間――。
「……アストライアの光よ、静寂を導け!」
ルイ様の放った清浄な黄金の光が、魔獣を優しく包み込んだ。
狂っていた赤い瞳から力が抜け、巨大な猪は、夏の昼寝でもするかのようにその場に巨体を預けた。
戦いは終わった。
森には再び、蒸し暑いけれど平穏な静寂が戻ってきた。
ルイ様とウォーレンは、肩で息をしながら、互いに視線を交わした。
そこには、朝の冷戦とは違う、戦友としての、あるいは「ライバルとして優秀である」という事実を認めざるを得ない、苦々しくも確かな敬意が宿っていた。
「……はっ……あんた、口だけじゃないんだな……意外と、背中を預けても怖くなかったぜ」
「……君もだ……その身のこなし、到底ただの放浪者とは思えない……だが、アリシアの隣に立つ資格があるかどうかは、別の話だがな」
「……はは、最後までそれかよ……頑固な王様だ」
二人は、泥を払いながら、再び不器用な距離を保ち始めた。
私は、お目当ての黄金ベリーを収穫しながら、二人の様子を少しだけ微笑ましく見つめていた。
どんなに反目し合っていても、守るべきもののために手を取り合える。
それは、不作法ではあっても、とても誇り高いことだと思ったから。
だが、その様子を、少し離れた樹上の影から見つめていたテリオンは、違った。
彼はカメリア色の瞳を細め、手にした弓を静かに背負い直した。
夕焼けが森を琥珀色に染め始め、私たちの影を長く伸ばしていく中、彼は独り言のように、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……不作法なのは、暑さのせいだけではないな」
◇
カフェに戻り、バルトやクラリスが迎える中、私たちは収穫したベリーをキッチンへと運び込んだ。
テリオンは、カウンターの隅で、冷えた水を一気に飲み干すと、ルイ様とウォーレン、そして料理の準備を始めた私の背中を、複雑な眼差しで見つめていた。
「……テリオン、どうしました? お疲れでしたら、何か栄養のあるものを作りましょうか?」
私が尋ねると、テリオンは一瞬、何かを言いかけ、けれどそれを飲み込むようにして再び静寂を纏った。
「……いや、いい……ただ……煩わしいノイズが増えた、と感じただけだ」
「ノイズ……?」
「……お前の周りの、空気が騒がしい。狩場に、これほどの雄が並んでいれば、森も落ち着かないだろう」
彼はそう言い残すと、いつものように誰よりも速く、けれどどこか名残惜しそうに、夜の森へと消えていった。
ノイズ。
テリオンが口にしたその言葉の意味を、私は本当の意味では理解していなかった。
ルイ様という、深く穏やかな太陽。
ウォーレンという、激しくも懐かしい夜空。
そして、影のように、けれど確実に私の歩みを見守り続けてきた狩人の、静かなる独占欲。
夏の熱気は、食材を熟成させるだけではない。
蓋をしていた男たちの感情を、これ以上なく不作法に、激しく掻き乱し始めていた。
「……お嬢様。ノイズ、というのは、決して雑音のことではございませんわよ」
背後で、クラリスが銀のスプーンを磨きながら、意味深な微笑みを浮かべた。
「……それは、誰にも譲りたくない、魂の震えのこだまにございます」
私は、黄金色に染まったベリーを手に取り、少しだけ顔を赤らめた。
私の周りのノイズは、夏が終わるまで、さらにその音量を増していきそうだった。
「……さあ、仕込みを再開しますわよ! ノイズなんて吹き飛ばすくらい、最高に甘酸っぱいデザートを作って差し上げますわ!」




