0270 鉄血(てつち)に躙り縊らる救貧ノ院(2)[視点:その他]
何故? が脳裏に乱舞する。
場に【空間】ごと割り込んだ衝撃に吹き飛ばされたナリッソは思考も表情も停止する。
何が? が心内を狂い踊る。
むわっと濃密な【血】の臭いが――まるで腐って枯れ饐えたかのような、何年も放置された屠殺場の空気と院内の空気を丸ごと交換したかのような、胃を抉りせぐり巡り返すかのような生理的な嫌悪と共に怖気となって喘鳴とともに吐き出される。
その場に顕現したる、招かれざる来訪者から向けられたるは関心の薄い眼光。
しかし、”彼女”は『神の似姿』と同じ姿体、顔貌、体躯、造形であった。
しかししかし、そのうっすらとした侮蔑と憤怒だけが宿る眼光は――まるで彼を、その場に居合わせた、居合わせてしまった者達をただの『神の似姿』としてしか見ていないかのように、冷たいという感情すら込められていないほどに無機質にすら感じられる。
「ひっ……」とかろうじて息を吐く間も与えられぬ。
ナリッソの頭のすぐ上を、轟、と重たく冷たい衝撃のような、しかし鋭い気配が舞い振り抜かれた――もし、直撃していれば、最低でも首と胴が離れているという意味で、まったくただでは済まなかったであろう。
彼がそれを避けることができたのは、何のことはない、ただ単に腰が抜けて膝から力が抜けて盛大にへたり込んでしまった、ただそれだけのためなのである。
遅れて、その瞬間、”彼女”が「邪魔、どいて」と呟いたのを読唇的に知覚したか――そしてさらに、さらに遅れて、ナリッソの脳裏に【報いを揺藍する異星窟】の従徒として常時その感覚が接続されている【眷属心話】の領域に激しい警告と警戒を示す『信号』が。
今や彼の主であり、彼が属することとなった迷宮勢力たる【エイリアン使い】が生み出したる「体制」の一端が、最早期の「感知」を成したのだ。
ナリッソは、少なくとも従徒の新参として、その意味を既に感覚レベルで脳内に叩き込まれていたため、何が感知されたのかを肌感覚レベルで強制的かつ本能的に理解させられている。
発動したのはラムゥダーイン家が開発した【ラダオンの腐れ血帳簿】、対”吸血種”の感知魔法である。都市ナーレフにおいて、一般的な『長女国』の都市と同じように、各所に当たり前の防護として配置されていた魔法陣をリュグルソゥム家が補修したものが反応したのだ。
……それは良い。現に、今、遅れに遅れてナリッソは、どこからともなく何もないただの救貧院の廊下でしかなかったはずの【空間】から、景色がぐにゃりと、まるで絵画が水に濡らされて滲んだかのように歪んだかのように生じた「曲がった亀裂」から一人の吸血種の少女――身の丈よりも遥かに長大かつ巨大な「斧」を構えた戦士が現れたのを目撃したからだ。
然れど、この時、全くほぼ凡その同時に。
強烈な違和感と混乱をもたらしたのは、ほぼ同時か【腐れ血帳簿】よりも数瞬疾く、オーマの眷属たる”エイリアン”達の感知能力によって、この『救貧院』にて、よりにもよって【空間】属性の出現が検出されたことが、大いなる問題なのであった。
――だが、ナリッソが状況を疑問に思うことのできる余裕を持てたのは、そのわずか数秒足らずのことである。
出現した瞬間に辺りを薙ぎ払い壊すように振るわれた大斧により、廊下は瞬く間に半壊。
礼拝堂へ向かうために通り過ぎ、追い抜き、あるいはすれ違った数名がその破壊の余波で吹っ飛び――血と苦悶の悲鳴が破壊音の中に飛び交うのが、一瞬途絶えて、そして戻ってきた聴覚の中に飛び込んできたからである。
と、次の瞬間再び、轟、と大斧が薙がれる音が遅れて聞こえたような、気がして。
「ぼさっとしてるんじゃないよ……!」
激しくどやされるような叱咤の呻き、と共にナリッソは強く体当たりされたような衝撃を受け、突き飛ばされる。それは老体のどこにそのような火事場の膂力があったのか、と思わせるほどの――老媼ヴィアッドによる当て身であった、が。
「――……ッッ!」
ナリッソの頭上で、深く鋭く苦しそうに息を呑む音が聞こえた。
仰向けに倒れて救貧院の廊下の天井を割り進む亀裂を間抜けに見上げるナリッソの眼前、見上げれば、リシュリーが青白い顔で目を見開き、わなないていた。
つまり、教父にして救貧院の院長たる彼は、何が起きたのかもわからず――かろうじて「襲撃」という語がようやく彼の喉元に届く――しかし、重大なことが今新たに始まり起きたことだけは、すぐにわかった。
――リシュリーの口から、黒い”血”が、たらりと一筋垂れたからである。
そしてナリッソは、自身がこれだけもみくちゃに吹き飛ばされたにも関わらず、痛みをほとんど感じていないということを、今更、今更ながらにようやく遅れて気づいたのだ。
だが、彼がやめろ、何をしているんだ、と震える腰を立たせて声を上げようとした、まさにその瞬間のことである。
凄まじいまるで空気そのものがあの巨大斧の如き鉄塊・金属の塊となって、しかもその鋭利な刃の切っ先を重厚さごと全開にしてこちらに圧し向けてきたかのような、強烈な敵意と破壊的な意思が入り混じった情念が、全身の皮膚どころか骨までびりびりと粟立たせるかのように叩きつけられてきた衝撃に、ほぼのけぞるようにして状態を跳ね起きさせてしまう。
跳ね起きさせてしまい、そして、ナリッソは”彼女”と目が合ってしまったのだ。
「……臭い……”血”の、女――……ッッ!」
否。ナリッソではない。
十数秒と経たず、平和――であると言ってよかったであろう、ナリッソにとって、あまりにも目まぐるしく変転してしまった己の運命の中で、一応の、一旦の、一時の新しい拠り所、場として、日常として溶け込み慣れ親しみ始めていた『救貧院』の一角を半壊させたその襲撃者たる狂える少女戦士。
彼女は、先程までナリッソにくれた無関心な一瞥と比べて想像もつかぬほど、眉間に強烈な皺が寄りその尖った犬歯が剥き出しになるほどに歯を食い縛るあまり口の端が切れて赤い紅い血が垂れるほどに憤怒しきった形相を、ただ、ただ、ただただ、リシュリーという名の【加護者】の少女に貫くように向けてきていたのであった。
「あ……あぁ……あぁぁぁ――そ、そんな――」
思考が追いつかないのである。
この事態が「開始」されてから、今この瞬間においてさえ、ナリッソにとっては全てが遅れて感ぜられていた。音も、気配さえも、きぃんとした金属音が耳元で耳鳴りのように甲高く響くような感覚と共に、ただただ遅くもどかしい。
その中で、今、彼は、ただ感情と感傷のみにより、呻き喘いでいるのである。
「死なないで――……」
先程、己を突き飛ばした際に。
ヴィアッドはその老体をナリッソの盾としていた。
触れるだけで両断され消し飛ばされそうになる鉄塊の豪撃が、ほとんどその枯れ枝のような老体を掠めており――ほとんど、今は元【霜露の薬売り】の頭目として知られ、そして、かつては村一番の薬師の娘として知られたる老ヴィアッドは、文字通りの意味で、その腰を斬開されて千切れかけていたのであった。
――そして、共にヴィアッドに叱られ、あるいは窘められながら、オーマより半ば押し付けられる形でこの『救貧院』で働いてきた、もう一人。
リシュリーがごぶりとさらに一塊の黒い血を喀吐する。
そのおぞましい死臭すら感じられるどろどろの粘液が自身の肌に触れる感触にぞくりと激しく震えつつも、しかし、ナリッソは気づいてしまった。
ヴィアッドが死にきれていないことに。
否、ヴィアッドだけではない。
如何なる手段によってか【空間】を転移してきたかのような――まるで【騙し絵】家の襲撃か、はたまた、その傘下として同種の力の行使を許され強いられていた【人攫い教団】の手口であるかのような――吸血種の少女『狂』戦士がもたらした制圧のための破壊の暴風に巻き込まれた者達が、救貧院で顔なじみとなった家族に近いような関係となった者達が数名。
あるいは頭を割られ、あるいは肩からざっくりと叩き切られ、あるいは四肢を飛ばされ。
死にかけ、死に瀕し、死に惑い。
しかし、死にきれずにいた。
リシュリーがごばり、どぶりとえずくように黒い塊を吐き出すのと合わせて、黒い涙を流すのと合わせて、ヴィアッドを含めた彼ら彼女らは、血色を失いながら、同時に血色が戻るという、まるで命の並みが満ちては引いてまた満ちるを繰り返すかのように呼吸を止め、たかと思うや激しく喘鳴し、また止めてたか、と思うやぜぇぜぇと喉を潰す勢いで息を吸うような痙攣を繰り返していたからである。
「――悍ましい、さん。こんな”血”は、あっちゃいけない」
……リシュリーが、あれほど硬くヴィアッドに禁じられ、主オーマからも諭されていたにも関わらず、その【癒穢の憑坐】としての力を、一切の、一顧の躊躇もなく、ヴィアッドを始めとした救貧院の知己達の危難を遠ざけるために全力で行使しているのは一見して明らかなことであった。
ナリッソはその瞬間、恐怖に腰がすくむのも忘れ、自身の全身を自ら殴り飛ばしたくなる衝動に駆られる。自身が、すぐに動けなかったせいで――ヴィアッドを死なせかけているだけでなく、さらにその「ついで」に深傷をおそらく負って、それをリシュリーに押し付けるなどというヘマをやらかしたのだ、と、強烈な恥と怒りが湧いて出てきたのであった。
だから、彼は震える足を叩きつけるように立ち上がった。
『救貧院』を破壊することが目的ならば、今ここで悠長に立ったまま、こちらを眺め回して何かを勝手に納得して呟きながら睨めつけてなどいないであろう、その吸血種の少女戦士は。
つまり、その言動からも、その「狙い」が建物や場所ではないことが明白。
――遅れた思考がようやく追いつき、そして、その瞬間だけ、追い越していた。
それは決して、リシュリーがこの場を絶大なる【癒やしの乙女】の神威によって覆ったことの影響で、ナリッソから痛みという痛み、苦しみという苦しみが削ぎ落とされたために、思考がクリアになったからだけでは、ない。
目線と言動からして、その吸血種が狙っているのは、もはや論を待つ必要がないほどに明々であったからだ。
――構えられたる命を刈り潰すが如き大斧の冷たく鋭利なる重圧は、恐ろしい。
――どうしようもなく恐ろしい。
ナリッソは怒りによって自らを奮い立たせていても、それは生理的本能が激しく揺さぶられ狂奔するかのような慄きとは残念ながら並立する類のものである。
だが、それでも、左遷され愚弄され、酒に溺れながら自らさえもが押さえつけてきた、彼の中に鬱積し続けた怒りが、否、憤りと呼ぶべきものが確かにあったのだ。
それが静かな爆発を見せていた。
「そんなものあってはいけない――ユーリルがそんなものに誑かされるだなんて、絶対に許さない」だなどと、ナリッソにはおよそ知ったことではない事情や妄言の類が、いかな吸血種の少女にあろうが、そう、知ったことではなかった。
あるいは、その憤嘆は、此度の襲撃者張本人たるその狂戦士に向けられたものであったか。
それとも、それはそのようなる【運命】を与えた、より大きな存在に向けられていたのか。
「……なぜ……この子が、この子達が……」
――こんな目に遭わなければ、ならないのか?
”向けられていた”ものもまた、それは、リシュリーという名の黒き血に苦しみながらも他者を救おうとする――主オーマの辛辣なる評によれば、それは献身などではなく、ただの「居場所」を求めるためにそれ以外の方法を知らぬ哀れさであるらしいが――そんな少女のみに向けられたもの、ではなかったか。
あっけなく左遷させられてしまった自分にどれだけのことができたのか、は置いておこう。
しかし、あの時以上に、もう少しだけ何かはできたはずだったのだ。
……『末子国』の表に向けられた世界とは別の”裏側”に連れて行かれてしまった、一部の【聖人】であった子供達のために。
その積年の堆積し続けた無念と、その無念の中から生まれた強烈な憤りが、ナリッソを動かした。
今まさに大斧を横薙ぎに構えた吸血種の少女戦士が、そこで初めてナリッソの存在を明確に認め、訝しみ半分・侮蔑半分の眼差しを向けてくる。
言葉はない。
お互いに。
両腕をついて跪き、黒い血を吐き続けながら、それでも倒れまいと顔を上げているリシュリーの眼前、吸血種との間に立ちはだかって両手を広げるナリッソは、情けないほどに震える己を自覚していたのであった。
邪魔するならば砕き斬り潰す。
両断されようとも通さない。
そのような2つの意思が視線と共に交わる。
何も力を持たない、ただの、最近やっと多少「祈り」が使えるようになった程度の”才無し”の末端教父如きが、上級の魔法使いをも屠る危険な吸血種を相手に、何秒も保たせることができようか。
否、それこそ無関心にただの作業のように一刀の下に斬り飛ばされてそれで終わる。
常ならば、そのはず。
然れど、たまさか、ナリッソが心の底に重ね続けた、ある種の世界か神々だかに対して感じ続けた”理不尽さ”への抗いのような一念が、一瞬だけ、なぜそこまで激怒しているのかはわからないが、しかし並々ならぬ情念を込めてリシュリーに赫怒を叩きつけんとしてくるその吸血種の少女に、数秒だけ、その存在を認識させたのである。
――そして、その数秒が生死の運命を分けた。
ナリッソが引かぬことを理解し、2秒で吸血種の少女狂戦士がゼロ距離加速、と同時に反動で砕けた脛から血飛沫が吹き出しつつ、一瞬でナリッソとリシュリーの眼前に距離を詰める。鉄塊の如き大斧は既に振りかぶられている――言うまでもなく無理な軌道で両腕も軋んで血と骨の欠片を吹き出している――が。
鉄塊と共に憤怒と存在抹消を願うが如き激烈なる敵意そのものが、二人に叩きつけられる、その寸前。
硬質な衝突音が複数響き渡る、と共に。
アシェイリという名前の彼女は、戦闘の中で【空間】の揺らめきを知覚した。
”銀色の靄”が残滓の如く視界を飛び散ったかと思うや、その刹那、魔獣の類を思わせる「足爪」が4対眼前に出現。大斧を受け止める、と共にその一部が獣の機敏さの如き軌道で流れるように彼女の胴を狙ったのである。
それを内臓破裂ごと強引な勢いで体をひねり、撃ち落とされて床を叩き割るように激しく落ちた大斧の柄を踏むように跳躍して強引に避け、距離を取ったアシェイリの眼前。
「間に合ったなぁ、おい。メルドットよ――いや、ここでは”ヤヌス”と呼ぶか?」
「どっちでもいいわ、ジェミニ=ゼイモント。間に合ったってことは、予感が的中してしまったということだ」
緊張しているのか、していないのか判然としないような軽口のような調子で。
しかし、同時にそれぞれのその半身は――裏表走狗蟲の形態を前面に剥き出しにし、人間部分をほとんど「しまい」込んだ姿体の「半エイリアン共生体」たるコンビが、誰よりも真っ先に、その場に駆けつけていたのであった。
「魔獣、いや、お魔人さん――!?」
呟くが早いか、【血の狂戦士】アシェイリが自らねじり破裂させた身体から噴出した血を技能【血肉繋ぎ】と【血操術】の合せ技により、複数の刃と成し、様々な角度からゼイモントとメルドットを襲わせた。
【血操術】に特化しているわけではない【血の狂戦士】の技能では、例えばユーリルのそれほどの威力を出すことはなかったが、その目的は牽制。そしてあわよくば負傷を与えつつ、その「半エイリアン共生体」という、およそアシェイリにとっても見たことも聞いたこともない”魔獣に寄生された人体”としか表現のできない肢体が――果たしてどう動くのかを測るための一撃である。
それはいわば彼女の、初めて相対する敵に対する際の戦士としての勘による仕掛けといったところであろう。
だが、こと戦闘行動に際しては【エイリアン使い】オーマの眷属にして”名付き”たるヤヌスとジェミニとしての半身と意識が前面に急浮上している2人は、軽い目配せと共に息のあった連携で全身を幾度もひねり返すように急旋回。アシェイリが、人と同じ人体構造を【血の狂戦士】の再生能力を前提とした破断前提の強引さで血まみれになりながら捻り跳ぶのに対し、こちらは走狗蟲元来の敏捷性をいかんなく発揮し――”人体部分”を抱えながらも全ての血刃を躱し、あるいはその【蹴撃】によって蹴り払い砕く。
――【報いを揺藍する異星窟】における従徒の同志として、ユーリルと手合わせをしたことも当然にある両名である。
だが、その吸血種の手管に対するあまりに慣れた対処を見て、大斧の柄を掴みつつ、引き寄せる反動で飛び退りながら、アシェイリもまた、そのことを敏感に嗅ぎ取っていたのである。
――彼女が探し求め、そして、このような手段を受け入れてまでして、強引な襲撃を仕掛けた理由そのものたる少年との痕跡を、”名付き”エイリアン共生体コンビから。
「ユーリルを返せッッ!」
赫怒と裂帛を込めた大斧の半円の如き横薙ぎは、決して【血の狂戦士】としての自己破壊前提のみによる戦闘法ではない。大斧が過剰なほどの質量の塊である所以は、その豪撃の勢いのままに振り抜かれつつ、アシェイリ自身もその慣性に乗って半孤を描くような急速の重心移動を成すためのものでもある。
此方が人体離れした形態であるならば、アシェイリは人種離れした(吸血種も広義で捉えれば人間種系とされる)慣性運動のまま、振り抜き床に叩きつけ割った大斧をそのまま軸とするように自らをぶん回す要領で、ヤヌスに空中からの両蹴りを見舞ったのである。
撃ち抜かれる瞬間、全身を縮めこませるようにして衝撃を受け止めつつ、吹き飛ばされるヤヌス=ゼイモント。だが、即座に脇に回り込んだジェミニ=メルドットの【爪撃】が少女戦士の脇腹を抉らんと【おぞましき咆哮】と共に迫り、アシェイリは追撃を諦めて回転の余勢を駆ってさらに四半回転。ジェミニに対し、大斧の後ろに回り込んでその鉄塊を盾とするようにして表裏走狗蟲の爪と牙の複合連撃を弾く。
が、ジェミニは攻撃の手を緩めない。
というのもそこでさらに数秒の時を稼ぎつつ――その間に、ふっ飛ばされがてら、ヤヌスがその爪に今にも事切れかかっていながら事切れられないでいるヴィアッドを足爪に引っ掛けながら、ずざざざ、と『救貧院』の廊下だったひび割れと粉塵にまみれた床を大きく滑りながら、ナリッソとリシュリーの元まで一気に彼女を運んだからである。
「……よく耐えたな、ナリッソ殿! 二人を任せても良いな?」
鼻水が垂れていることにも気づかず、血走って見開かれた眼をゼイモントに向けながら、ナリッソ=ハーバマイスが壊れたようにこくこくと首を縦に振る。
眼前で繰り広げられる、吸血種と半エイリアンの目まぐるしき闘争。
相手を斃し征するための血みどろの命の駆け引きを目の当たりにしつつ、しかし、ナリッソはリシュリーを庇ったままそこに立っていたのだ。
その歯茎さえ見えるような食いしばりの表情に感嘆と賞賛を与えつつ、ヤヌスからゼイモントの頭部がにょきっと半分できてにやりと笑みを向ける。
「……がっ……う、ぐふ、ぅぅ……も、もっと……年寄りは丁重に……この、くそ……ジジイ……」
「死に損なったなぁ、ヴィアッド! はっはっは、とりあえず応急処置だ!」
苦悶を八つ当てるように睨みつけるヴィアッドの悪態など意に介すことも無し。
ヤヌスが懐から「命石」を一欠片取り出し、なんと、ヴィアッドの傷口に強引に突っ込んだのである、その爪で。
およそ、腰斬されて物理的な意味で「2個」になりかけていたヴィアッドが、どこにそれほどの体力が残っていたのかというほどの激痛への悲鳴を上げるが、それだけ元気ならばまだ大丈夫だ、とゼイモントは豪気に大笑し――ヤヌスに意識を切り戻す。
ジェミニからの「さっさと助けに来い!」という半ば苛立ったようにまくしたてる抗議が【おぞましき咆哮】の中に”エイリアン語”混じりで叩きつけられてきたからであった。
なればこそ即応はヤヌスが遥かに早い。
絡みつき飛び跳ねて立ち回るように隙を狙うジェミニに対し、アシェイリは大斧を振り回しながら――ただ闇雲に破壊を撒き散らすにあらず。走狗蟲の機敏性が、起伏ある地形を足場とした跳躍と機動性にあることを見抜きながら、あえて、破壊した『救貧院』の廊下の瓦礫の中にジェミニを追い込まんとしていたのである。
そしてその後方からヤヌスが十字牙を開きながら食らいつかんと少女狂戦士の首筋を貫かんと迫り、しかしアシェイリはそれをあえて誘いながら既に食らいつかれ食いちぎられると同時に【血肉繋ぎ】によってゼイモントの「牙」ごと抑え込む構えを備えており、しかししかしそのような吸血種の”常套手段”などユーリルとの「立ち合い」の中で既に共有済みであった”名付き”としてのヤヌスが寸前で反転してアシェイリの呼吸と間をずらす。
そしてそれがジェミニが制圧されかけていた状態から脱する隙を生み、ヤヌスとジェミニはまるで鏡に映るかのような対称の軌道を跳びながら、少女狂戦士が大斧を軸にその衝撃力を自らを回転させる横軸の円運動と化すならば、こちらは足爪を振り下ろすための獰猛なる走狗蟲の縦軸の円運動で対抗すると言わんばかりに、彼女の対応力を試すかのように同時に斬りかかったのであった。
「くッ……この、ちょこまかと……!」
想像した以上に手こずらされている、という焦燥がアシェイリの赫怒を深めていく。
――時は『救貧院』の側の味方であることなど、百も承知であった。
ユーリルが、あの悍ましく忌まわしい”腐った黒い血”の女に囚われているだけではない。
そこには【闇世】の勢力が、魔人が。
それも【迷宮領主】が関わっている、と、彼女はそう聞かされていたからである。
見ている間にも、非戦闘員のくせに己に立ちはだかって妨害をした教父崩れが、死にかけの死ねない死ぬことを強引に禁じられているだけの老婆に背を貸し、リシュリーをその身で隠すように退避しようとする――おまけに、そこに魔法使いと思しき「女」まで現れたのをアシェイリは認めたのである。
「また……マルドジェイミ家――!?」
積極的に仕掛けてはこようとはせず、教父崩れを労るように、しかし、油断無く【精神】属性魔法の気配を放ちながらこちらに微笑みを浮かべ……何やらわけのわからない興奮した甘ったるい誰かに向けた独り言を口走って身を捩っている姿を目の当たりにしながら、アシェイリは、なんだあの「お変態さん」は、と意識を乱される。
――まさかそのような手管までもが【精神】魔法なのか? と思わされたということは、ないが、ないのだが、致命的な隙を生んでしまったことで、快哉と共にヤヌスとゼイモントの裏表走狗蟲コンビが交差挟撃を仕掛けるのを許してしまうのである。
そして今、彼女は、無理に無理を重ねた体勢のために、直ちに回避行動を取ることができない。無論、【血の狂戦士】としての耐久力を考えれば、そのまま自爆的に巻き込んでの反撃も可能であるが――相手が『迷宮』ならば、この珍妙奇ッ怪なる化け物コンビなどという”前座”を相手に消耗しすぎることなど得策などであるわけが、ないのだ。
だが、そのような逡巡は戦場の只中における戦士としてあるまじき隙。
ヤヌスとジェミニが両側からその膝蹴りによりアシェイリの頭部を同時に潰さんと迫った――まさにその刹那のことであった。
まるで意思を持ったかのようにアシェイリの手から蹴り落とされていた大斧が、物理法則を無視したかのように。
否。
物理法則から異なる法則――例えば”生命法則”にでも支配者が入れ替わったかのように、グンッ、と突如跳ね上がるかのように起立し直立。
ヤヌスをその斧腹で叩き落し、同時に、メルドットの「なにぃ!?」という驚愕の叫びと共に剣と爪が叩きつけ合う硬質な衝撃音。
見ればまるで意思を持ち生きているかのような、魔力によって自由に空中を飛び回る【踊る刀剣】が一振り、くるくると、ジェミニを叩き落しながらブーメランのように自らも跳ね返っていく――。
――その使い手の掌の中に。
「大丈夫か!? アシェイリ、助けに来たぞ! 3対1だなんて卑怯な連中だなぁ!」
威勢良く発される活声。
【空間】魔法と、そして――微かに辺りに響き渡る、まるで鉄鐸を薙いだかのような”金属音”と共に――ナリッソが当初目撃したのと同じあたりの空間から。
褐色の引き締まったその体躯を曝け出しながら、機敏なれど力強い舞踏をこそ披露するが如き【刃の踊り子】ネフェフィトが登場。と同時に、その腰に吊るされた布袋をじゃらりと鳴らすや。幾振りもの、まるで意思を持って宙に浮かぶが如き『武器系』の眷属達を展開し、場にいる全員の注目を集めようとするかのような大喝を放ったのであった。
「おい、【エイリアン使い】! 隠れていないでさっさと出てこい、これは――あー、ええっと! とにかく出てきてお前の力を見せてみろ! うん、迷宮抗争だ!」
何かが想定外であったか、頭を抱えるように舌打ちするアシェイリ。
対し、思わず顔を見合わせるヤヌスとジェミニ、から文字通り顔を覗かせたゼイモントとメルドット。
……さしもの楽観論的思考の持ち主であるこの2名でさえも、ネフェフィトの言動の意味を測りかねたか。
だが、最緊急の”時間稼ぎ”という、その最低限なれど最重要のこの場での目的は、完全に達することができた、と言える。
ネフェフィトの檄に前後し、先程までリシュリーがいた位置(既にナリッソに連れられて廊下の向こう側まで離れている)に【闇】魔法が、まるで空間がぎゅっと凝縮されるかのような目に見えた歪みと共に震撼。
――全身から吹き出す【血】。
それは、その凄絶なまでの高速移動術がもたらす必然の反動によるもの。
秘技【虚空渡り】により、長距離を一瞬を単位とする間に駆け抜けてきた、吸血種の少年ユーリルもまた、ネフェフィトの口上のための時間分だけ遅れて、この場に推参する。
……そして、粉塵と破砕によって半分瓦礫と化した『救貧院』の廊下にて、吸血種の少年と少女は、静かに互いの眼を見つめ合うのであった。





