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0269 鉄血(てつち)に躙り縊らる救貧ノ院(1)[視点:廃血]

 ”聖女”と呼ばれ、そうであることを強いられた少女リシュリー=ジーベリンゲルは、この日、夢を見ていた。


 【聖言士(イリセリナ)】として、その思考と口から発する言葉には、彼女を憑坐(よりまし)とする遥かなる【八柱神】が一柱【破邪と癒(クールエ=)やしの乙女(アトリテラ)】が引き起こす『神威(イリセナ)』が不意に()る。

 そうした現象の副作用を避けるように心と体が自然にそうするようになったのかは、リシュリー自身にとっても定かではないが……彼女は、あまり「夢」というものを見ない体質であった。


 ――果たして、それは夢の中で何かにより近しく触れてしまうことを恐れてのものか。


 たとえば【癒やしの乙女】の指先であるとか。

 たとえば――欠片たりとも思い出すことのできぬ、養父イセットに拾われる以前の、闇と謎に包まれた自分自身の過去や出自や来歴といった記憶の一切であるだとか。


 拾われ、物心を取り戻した時には、リシュリーは既に()()リシュリーだったのだ。

 誰かの命を守るために、命の反対のもの、を五臓から生理的えづきと共にせぐりあげる黒き渇血と共に引き受ける。それは、自分が何者かもわからない空っぽの少女だったリシュリーにとって、与えられた大切な役割であり、存在意義であった。


 まるで大昔に、記憶すらも掻き消えて沈殿し霧散した暗黒のその澱の中で、多分自分はもっと酷く何かを失っている、と。

 漠然とだが、そのような念がずっと心にこびり付いていたからだ。


 そうした”念”と比べてしまえば。

 まだ、どこの誰とも知らぬ何者かのために()確かに「命の反対のもの(えはいけつ)」を引き受けていたとしても――同時に、リシュリーは眼の前で苦痛に苛まれ、今にも死に瀕している人達を――【癒やしの乙女】の加護者の元に担ぎ込まれてくるのは()()()()者ばかり――救って()いる。

 それが彼女の世界であり、役割であり、丁重に育てられ不自由なく『末子国』で暮らすことを許される理由でもあった。


 その多くは寡黙で無骨だが、実直で正直な者が多い【具足院】の「武僧兵」達である。

 常日頃、英雄王アイケルが守り抜いた『神の似姿(エレ=セーナ)』達の生活・文明圏である東オルゼ地域や、時にその周辺で【闇世】とそこから湧きいづる瘴気や魔獣の類との戦いの最前線に立つ彼らは、その苛烈にして過酷な任務の中でいつ死ぬとも知れぬ。


 まして相手は、魔法学の理屈が完全には通じぬ異質・異形・異端の超常をまとう存在。


 故に、リシュリーの元に担ぎ込まれてくることとなるのは、常の(わざ)でも(すべ)でも救うこと能わず、もはや神の憐れみに頼る他は手立てが無いとされるほどがないまでに破壊(こわ)された武僧達が大きな割合を占めていたのである。


 だから、リシュリーは彼らを傷つけ、死に近づける因果そのものとも言うべき「命と反対のもの」をその身に吸い取り続けた。その行為が【癒やしの乙女】の”聖女”として記録される在り様と()()()()()()()という矛盾を、養父イセットを含めた聖職者達がうっすらと感じ取りつつも、しかし、それが献身の徳と消極的自己犠牲のどちらに寄るべきものであるのかを自ら判断する知識も持たぬまま、リシュリーは黒い血を吐き続けてきた。


 少なくとも、彼らや、彼らの縁者達はリシュリーに心からの謝意と尊意を示してくれていたから……と、そう言えばまるでそのためにそうしていると思われるかもしれないが、リシュリーにとってそれはもっと純粋な意味だった。


 つまり、相互作用なのだ。

 【聖女】が黒く吐血す(そうす)る。

 彼らの生老病死が遠ざけられ(そうな)る。

 そこに、空っぽで空虚でうつろなる、ぽっかりとあいたどこまでも無限に魂が落ちていくような感覚が心にこびり付き続けてきたリシュリーにとっての、現世に留まっている……あるいは留められている、そのような理由があるように、感ぜられる。


 だから、生きて、呼吸をして、食べ、寝るならば、リシュリーは相互作用(そう)しなければならないのである――それが、吸血種(ヴァンパイア)の少年ユーリルに攫われる以前のリシュリーの世界であった。



『どうして、あなたは私を、助けてくれるの?』



 いつ、どこで養父イセットがユーリルと知り合ったのかをリシュリーは知らない。

 だが、しかし、彼との出会いは今も彼女の心に最も鮮烈に刻まれた記憶の一つである。


 その日。

 ついに、吐き出すことで体外に排出し続けてきた【穢廃血】が血肉・毛先・髪の先にまで充満し、染み渡り、全身が爛れて崩れ落ちてしまう――そのような真っ黒な塊とでも呼ぶべき黒ずんだ醜悪な塊となり果て、それでも、リシュリーは動けぬ体に鞭を打って、斃れ、何日も昏睡した果てに目覚めてなお、自らの働くべき場所である小さな『聖所』に這ってでも向かおうとしていた。


 苦痛は堪えた。

 しかし、死という名の彼女にとって最も身近でありながら最も遠い存在であった概念そのものへの恐怖は無かった。

 そんなものよりも、リシュリーにとっては、虚無の中で意味を持たぬまま散り散りに消え散ってしまうことを()()()()()()、ずっと、遥かに、怖かったのだ。


 無論、己が発話と発声に神の奇跡を降ろすべき【聖言士(イリセリナ)】としては、とても、とても、そのような想いは間違っても”口にする”事など許されぬが。


 ……だからこそ、ユーリルという少年が【闇】の(あわい)から現れ、まるで肥溜めに顔を突っ込まされているかのような凄まじく不愉快で苦悶にすら満ちた怒りの形相で、三白眼を見開きながら、短刀を握りしめて近づいてきた時に、リシュリーは安堵すべきか恐怖すべきかもわからなかったのだ。


 ちょうど『末子国』の、ごく限られた上層部――【聖人会議】内でもごく一部――に、『長女国』で猛威を振るい対峙し続ける吸血種(ヴァンパイア)達が、一部、搦め手を選んで『末子国』に忍び込もうとしている、と、そのような噂が引退した枢機卿である養父イセットの耳元にも届き始めていた折のことである。

 リシュリーにそのような事実は伝えられてなどいなかったが、だが、しかし。


 公然と【闇】属性の禁術を自在に操り、血相と血の気配を漂わせる典型的な暗殺者然とした少年が迫りくる意味など、それしか想像することはできぬであろう。


 だが。

 しかし。


 全身を【穢廃血】に呑まれそうになっていたが故のことであったか。

 リシュリーは、ユーリルの、いや、吸血種(ヴァンパイア)という”種族”の――【生命の紅(アスラヒム)】を宿すという――本質をその瞬間に身体感覚レベルで察し、識ってしまった。



『あなたの”(いのち)”は、とても、綺麗なんだね』



 と、迫りくるユーリルに黒く崩れ落ちかけていたリシュリー(だった何かになりかけていた彼女)は、そう自然に浮かんだ言葉を語り聞かせてしまっていたのだ。



『まるで、()()()()()()()()()。そう言っているみたいに』



 綺麗だけれども、どこか、変。

 変だけれども、おかしいとも感じない。


 ――【聖言士(イリセリナ)】としては非常に不用意で、かつ、知られれば物議を招く言葉であったろう。だが、しかし、彼を相手に発されたその言葉が神威(イリセナ)を発することは無い。

 このような予感めいた確信が、虚無に崩れ散り落ちかけていたその境界で、リシュリーの心には浮かんでいたのである。


 果たして、その「言葉」がユーリルに影響を与えたのか、はたまた、彼は元から”そう”するつもりだったのかはリシュリーには定かではない。

 表面的にはユーリルは怒りと苦悶の表情を保ったまま、リシュリーの元まで近づき、短刀を振りかぶり、そのまま自身の腕を一切の躊躇も無く切り裂いたのであった。


 ――それが、二人が最初に行った邂逅(ろ過)である。


 養父イセットが何を思ったのかをリシュリーは知らない。

 彼がユーリルとどのようなことを話したのかを、リシュリーは、知らない。


 だが、この日からリシュリーにとって、ユーリルに”ろ過(そう)”されることが日常となった。


 死に瀕した誰か達から「命と反対のもの」を受け取り、それを黒い血の形に昇華して、そして、それを今度はリシュリーが「命そのもの」を宿す吸血種(ヴァンパイア)ユーリルのそれと入れ替えるのである。


 それはリシュリーにとっては新しい「相互作用」であった。

 ただの「相互作用」であった。


 ……ただ、同時に、少なくとも生老病死(苦痛)とは真反対の位置に座した「相互作用」では、あったのだ。


 だが、己の虚無と過去の空白までをも含めて養父イセットが全てを受け止めて慈しんでくれたというならば、それは同時に、自分が何かを本当の意味で知ろうとしていたことから目を背け続ける理由にしてしまった。


 それが、リシュリーの後悔である。


 毎度ではないが、ろ過の度に、ユーリルはその後に二人でイセットと何かを話し込んでいた。

 時にユーリルは、彼のその”(いのち)”の状態の変化への敏感性を獲得してしまったリシュリーの目からも明らかなほどに傷つけられ――まるで「武僧」達のように、魔法だけでは説明のつかぬ()()によって――た状態で、しかし、それをリシュリーに見せぬように現れることが増えていたのであった。


 ――そんなことをせずとも、神に頼らずとも在ることのできる生命紅(アスラヒム)を持つ吸血種(ヴァンパイア)は、本質的には、【癒やしの乙女】の聖女たる自分による癒やしの奇跡を必要としないということを、お互い、わかっていたというのに。


 だが、今にして思えばそれもまたあまりにもわかりやすい兆しなのであった。


 ある日、『聖所』が襲撃された。

 リシュリーをかばった養父イセットが殺され、遅れて、遅かったのか、と叫ぶユーリルが現れる。


 そしてリシュリーを、ただじっとそれぞれの”色”を宿した眼差しの向こう側から、付かずとも離れぬ距離で見つめる襲撃者達――【秘色機関】と呼ばれる聖守(アルシル)直属の工作員達――から彼女をかばうように、そのまま、更にさらに()らに多くの異質・異形・異端なる魔法に非ぬ超常の傷跡を受けながら、遂にユーリルはリシュリーを(さら)ったのであった。


   ***


「それで、貴女はここでまた、同じことをしているんですか? リシュリーさん」


 未だ目が覚めた自覚は無い。

 だが、同時に、夢からは醒めている。


 そのような意識が半覚醒したような心地の中、うっすらと青灰色色の燐光が淡く瞬く霧のような、まさに夢と(うつつ)の狭間のような空間で、リシュリーは、懐かしい人物の声を聞いた。

 そう知覚した瞬間、霧の中から、白けたように透き通る金髪か、はたまた透明な水晶に黄金の薄液を少しだけ混ぜ込んだかのような白髪か、その中間のような髪色が印象的な少年が歩み出てくるのを見た。


「あぁ、話さなくていいんです。これは現実じゃないけれど、夢、でもありません。心配になったので僕から貴女に一方的に話しかけているだけ、ですよ」


 少年である。はっきりと、リシュリーよりもさらに数歳は年の離れた、まだ齢10とわずか1年か2年を過ぎた程度としか言えぬ、()()()()()まだあどけないであろう――たとえ貴人といえども――その少年をリシュリーは知っていた。

 少年でありながら、不思議なことに、まるで家中で最も老齢の大人が着るかのような、大きすぎて身の丈に合わない豪奢な礼装を、その両手両足がだぼだぼになっていることも厭わずに、届かない裾をそのままずるずる引きずるように、透金の髪の少年がリシュリーに微笑みかけた。


 ――ヴォーシェ。


 とリシュリーの口が記憶にあった彼の名を動く。

 だが、()()()()()()場所であるこの空間では、音は出ず、声は自分自身にすらも届かなかった。ヴォーシェという名前であるはずのその少年が言うように、彼が本当に「一方的」に話しかけるためだけに拓かれた”道”であるかのように。


 リシュリーは彼を知っていて、だからこそ、知らなかった。


「驚くのも無理はありませんよね。だって、ほら、まさかこの僕がここまで『喋っている』姿なんて……現実(あっち)の方では見せてませんから」


 己の困惑の様子が伝わているのであろう。ヴォーシェは目を伏せ、困ったように軽く肩をすくめてから、だぼだぼの袖をいたずらっぽく横に振って微笑む。


「まぁ、そんなことは今はいいんです、リシュリーさん」


 その時、ヴォーシェの周りで目には視えない何か波紋のような。

 まるで空気が水中に代わってそこを透明な小魚が泳いだかのように揺らぐのをリシュリーは感じた。


 幾条も、幾条も。

 もしもそこに本当に透明の”何か”がいるとしたら、それはさながら花園に群がる色とりどりの蝶の群体であるかのように、その波紋や揺らぎは軌跡となって、ヴォーシェという名の――リシュリーとは異なる理由で、しかし、リシュリーと同じく、まともに言葉を発することができず、または許されない――そんな少年の全身を取り囲んでいるかのように、リシュリーは感じ取っていた。


 そのような、リシュリーの困惑の質の変化に気づいたように目を薄く開きながら、しかし、残念そうにヴォーシェがため息をつくのであった。



「――今すぐ、目を醒ましてください」



 と、ヴォーシェの声がその存在感ごと周囲を包む淡い青灰色の燐光を孕んだ霧の空間ごと急に急激にまるで何かとても巨大な力によって引き剥がされるように遠ざかっていき。

 それでも最後まで消滅せずに残っていた彼の唇が、


『とても危険なことが起きようとしています』


 と告げるのを知覚した瞬間、リシュリーは、はっと、跳ね起きるように『救貧院』の一室、【空間】魔法によって隠された自身とユーリルのための休息の部屋で目を醒ましたのであった。


   ***


 あの二人のあれは、リシュリーの生命維持のためには必要かつ不可避なことだったかもしれないが、だが、同時に酷く(いびつ)な関係だ。


 ……そのように【エイリアン使い】オーマが、明らかに自分に聞かせるように呟いたことが、ナリッソ=ハーバマイスの耳朶と心に残り続けている。


 恐るべき【魔人】の中でもさらに恐るべく『迷宮領主(ダンジョンマスター)』などという化身の如き力を持つ存在でありながら、その正体(せいたい)は、にわかには信じられぬことではあったが、この世界(シースーア)と【闇世】をも含めたさらに()()()世界から来たのだ――という。


 外見の特徴だけ見れば、己の10ほど下の見えるオーマという青年。

 ナリッソは半ば強制的に彼の従徒(協力者)にさせられた身ではある。

 だが、この畏れ、怖れるべき超越上位者(オーバーロード)であるはずの青年を、しかし、落ちぶれた左遷教父に過ぎぬ自分は「君」付けでどうしても呼びたくなってしまう。


『あれはな、ほとんど「共依存」状態だな。吸血種(ヴァンパイア)の”使命人格”とやらもそうだが、リシュリーの……「離人感覚」、いや……「生存罪悪観(サバイバーズ・ギルト)」と「学習性無力感」の併せ技か? 「アイデンティティ拡散」が起きてるじゃないか』


 ――彼が自らの年少者、特に社会的に少年や少女、あるいは”子供”と見なされる年代の者に対し、非常に特別な、どこか、切迫したかのような関心を片鱗的に抱いている有り様が垣間見えたからだ。


 ナリッソに、彼の語る「外なる世界」の”知識”にあるのであろう言葉の意味は正確にはわからない。

 『()()りかかり斃す』などいう言葉は――オーマ曰く、それは彼の知る概念が『オルゼンシア語』に翻訳された結果だという――ついぞ、その意味を測りかねざるを得ない。


 何故なら、素晴らしいことではないか。

 人種に仇なす吸血種(ヴァンパイア)であることに目を瞑れば、ユーリルがリシュリーに対して行っているものは献身の美徳そのものである。いかな吸血種(ヴァンパイア)頑丈(死ににくい)とはいえ、彼は、その生命も、そして自らの種族に対する忠誠さえも差し置いて、リシュリーに深い情愛を抱いているのである。


 だが、とオーマはナリッソの疑念を――ナリッソ自身も感じていた違和感に、的確な、相応しい言葉を与えるような形で、その『共依』なる語の含意を述べるのである。

 それはリシュリーの根本的な問題や苦難を解決するものではなく、むしろ、彼女にユーリルの犠牲を前提とした仮初の歪んだ安定を与えてきたのではないのか、と。


 彼がその直後に、そればかりは自分に聞かせるつもりがなかった、とでも言うように、こう呟いてからはっと口をつぐんだのを、ナリッソは確かに聞き取ってしまっている。


『……まるで■■と■ナの二人みたいだ。いや、あそこまではまだ悪化していない、か?』


 ナリッソを睨めつけるように、しかし、その本当の苛立ちが自らに向いている八つ当たりに過ぎないことを自覚しているように、すぐにオーマは「忘れろ」とナリッソに告げているのである。

 その瞳の奥には、深い深い後悔と、何かに対して力が足りない己を恥じるような苛立ちと、しかし、どこまでも深い慈しみが宿っているのを、ナリッソは見逃すことができなかった。


 彼は、触れてしまったのだ。

 そして、どうして己がこの迷宮領主(ダンジョンマスター)の青年を「君」付けで、まるで弟か弟子の類のように感じてしまうのかを自覚する。


 酷く、オーマの指摘はナリッソにとって腑に落ちるものだからである。

 彼は、かつての――あるいは今の――己と()()違和感を抱いている。


 ナリッソには、それがわかってしまう。


 神の名のもとに、あるいは君侯か、はたまた何らか、何でもいい、とにかく何か”畏るべき”何者かのために利用されてしまう宿命を背負わされたる少年や少女への、深い深い同情と憐憫と、慈しみの念を、この青年は強大なる超常を駆使する迷宮領主(ダンジョンマスター)としての貼り付けたる仮面の裏側に隠している。

 そして、それを己の未熟さと不明であるとして、強く、強く、それこそ彼こそがその『生き残りし者の罪(サバイバーズ・ギルト)』とかいう言葉(翻訳語)を体現しているのではと突っ込んでやりたくなるほどに、抑え込んでいるのである。


 ……だが、それを指摘する勇気はナリッソにはない。


 同じような違和感を抱いていたのだ、という意味での同類性は、なるほど、あるのかもしれない。

 だが、一度諦め、逃げた自分と異なり――オーマは、否、彼が「オーマ」という迷宮領主(ダンジョンマスター)に変貌する以前の存在であったその青年は、きっと、諦めていないのだ。


 ――今も(・・)


 己の素性は従徒(スクワイア)達に語り聞かせて共有して聞かせたものの、しかし、その”探しもの”の詳細や、因縁などについては、その本当に正確なところを知らされている人間の(・・・)配下達はいないようにナリッソの目には写っている。


 だが、きっとそれは、きっと”そういうこと”に関わる何かなのかもしれない。

 それが教父ナリッソ=ハーバマイスの感じていることであった。


 だからこそ、半強制的に配下とされた挙げ句に、他言すれば間違いなく粛清されるべき”秘密(ふところ)”を共有されてしまった己であったが――命がいくつあってもショック死していてもおかしくない目に短期間で何度も遭わされた身でありながら、それでも、彼はオーマを憎む気持ちが湧かなかったのである。


 『救貧院』の主回廊。

 割れた窓は全て取り替えられ、夕暮れかけた西日が、遠景に沈みかける最後の横陽を窓越しに薙ぎつけてきている。その眩しさを横顔に感じながら、ふと足を止めて窓の向こうの橙色に燃ゆるような空を仰ぎ見る。


 先日、工事を終えてできたばかりの小さな『礼拝所』兼『説教壇』に歩む己の足取りは、こころなしか軽やか……は言い過ぎではあっても、かつてヘレンセル村での酔い崩れ続けていた日々にまとわりついたような”重さ”は不思議と感じられなかったから。


 この日の”説教”は、ナリッソにとっては実に久しぶりの「教父」としての活動となるべきものであった(”ナーレフ付き”としての正式な着任に向けた調整は、臨時代官エリスの最後の仕事の1つ)。

 

『”共依存”は、さらに外側からコミュニティの中に抱え込んで、新しい人間関係を作ってから融かしてやるしかないんだよ――だから、あなたには期待しているからな? ――ナリッソ「教父」先生』


 無理だ、と喉元まで出かかった反射的な否定を、あの時の己は恐れから呑み込んだ。

 それが、【魔人】と対峙する『末子国』の、末端ながらも教父となった自分が、よりにもよってその【魔人】の青年の軍門に降らされ、今このようにして『救貧院』の院長を預かることとなってしまった経緯(いきさつ)なのである。


 無論、そこに彼の迷宮領主(ダンジョンマスター)という”君侯”的立場からの、統治・政治的側面における各種の打算と思惑に気づかぬほどナリッソは純朴でもない。

 オーマが【人世】で、可能な限りその正体の露見を遅らせながら浸透を図り、勢力を築こうとするならば、リシュリーもそうだが、末席といえども内部事情の知り方を知らないわけではない自分のような存在を取り込むことはその利益なのである。


 どう考えても彼と相容れることのない『末子国』への対策のために、己は利用されることとなるであろう。


 ……だが、それでも、ナリッソは自らの信仰心と心の狭間での自問の中で、リシュリーという【聖女】の境遇を知ってなお、それでも彼女を救う一助となることを拒絶できるほど、己が頑迷(狂信的)でもないと自覚していた。


 故に、その命を請けたのである。


 『救貧院』を手伝うようになった街の住民達――元は”炊き出し”に何度か訪れていただけの貧者達――と、数名、主回廊で会釈と声掛け・挨拶を交えながらすれ違う。正式な奉公というわけでもないが、自発的に、手伝うようになって足繁く通ってくる者達であり、ナリッソにとっても「普通の」話し相手となってくれる者達でもある。


 皆、ナリッソが何を教壇で語るのかに、意外なことにも関心を持っているようであった。

 それが、酒に浸り落ちていた”不良”教父であった己を自覚するだけに、過大な期待を浴びているかのように酷く居心地が悪い気がする。

 足取りは重くはなくなったものの……それとはまた別種の不安が、情けなさが、直前になってナリッソの心に幾度も浮かんでは消え、また浮かんでくるのである。


「あぁ、あぁ、あぁ! なんだいそのしけた顔は、ナリッソ坊や」


 ――そして衝動的に逃げ出したくなる度に、一体どこかで監視していたとでもいうのだろうか、このように彼に檄を飛ばしに来る老媼が現れるのもまた、幾度、繰り返されたことであったか。


 バツが悪い気持ちで声がした方を向き、今や実質この『救貧院』の実働部隊の1つとなっていた元密輸組織【霜露の薬売り】の頭目ヴィアッドを、おっかなびっくりに見やる。

 つい、半刻だか一刻だかの直前にも、彼女は、既にこの世にはいないナリッソの遠い田舎の故郷の祖母その人を思い出させるかのように、厳しく、ガミガミと叱咤し、彼の「教父」としての衣装を徹底的に()()()、尻を蹴飛ばすような勢いで居室から追い出したばかりであるというのに。


「自信を持ちな。あんたはね、上手くやっておるよ」


 ここしばらくの『救貧院』での忙しなさすぎる日々の中、ヴィアッドの腰は目に見えてさらに曲がったようにも見受けられる。だが、その眼光と意思の強さはしわくちゃの顔貌の中に埋もれることなく、ナリッソを射抜いていたのである。


 ははは、と力無く苦笑して、ナリッソは指で頬を掻いた。


 ――彼の指には、もう、教父であるという事を誇示するかのような、末端の教父であるという立場にすら見合わなかった無駄に装飾過多であった指輪も、その他の装身具の類も、今は1つもない。


 確かに、自信、のようなものは前よりは、ある。

 そう言わないことは、確かに彼の中で嘘ではあると腹落ちはしていた。


 己は、信仰心を持ち、そして【聖人】達には遥かに及ばぬかもしれぬが、それでも”教父”として最低限求められる程度の祈り(奇跡)を引き起こすことを許されたのだから――恐るべく皮肉として、それが迷宮領主(ダンジョンマスター)従徒(スクワイア)となったことによるものだと理解してはいたものの。


 それすらも疑ってしまっては、流石に、かつて奢侈なる装身具(そうしたガラクタ)にでも頼らねば己がまだ教父であるという実感すら持つことのできなかった、ついこの間の己自身が絞め殺しに来てしまうであろうから。


 そう考えると、不思議と、ふっとした笑みが浮かぶのである。

 満足そうにそれを見て鼻を鳴らすヴィアッドだが……彼女の()()は、そのまま、これまたいつものように次の対象に移ることとなる。


「リシュリーにもちゃんと聞かせてやるんだよ。可哀想に、【聖女】様が、まさか【聖人】としての”説教”だってまともに聞いたことが無い、だなんてねぇ。何事にも裏があるにしたって、それでも、あのこの娘の()()は、ね」


「……そうですね。【聖人】に、いや、オーマ君の言う【加護者】にされた年齢があまりにも幼かった、というのはそこまで珍しいことでもないのですが。それでも、彼女の立場は特殊すぎるとしか思えませんから」


 同感を返し、ナリッソは、まだ眠っているリシュリーを『救貧院』に手伝いに来るようになった子供達が数名、呼びに行ったことを思い出していた。

 元より、自分が緊張のあまり、逆に予定の時刻よりもかなり早めに礼拝所兼教壇へ向かおうとしていた折なのであったから。



 ――さらに外側から――新しい人間関係を作ってから――融かしてやるしかない。



 冷酷めいた確信と共に、この世界ですらないどこか遠い中空を睨みつけていた迷宮領主(ダンジョンマスター)オーマの言葉が、再び耳に蘇る。

 それはナリッソにとって、己が何を諦め、そして、一度諦めたからこそ改めて与えられ、あるいは指し示された、何をどうすれば……其れをもう一度手にすることができる資格を得られるのか、その方策と道のりを教えられたような、そんな囁きであるようにも感じられたのだった。


(私に何ができるのだろうか)


 内省の心話と共に、教父ナリッソ=ハーバマイスは、ヴィアッドにどやされるように歩みを再開する。リシュリーの様子を見てくる、と言ったヴィアッドと別れ――。


 ――そしてその方から、血相を喪ったかのような、上気していながら青白く、しかし、初めて見るほどの感情を露わにした様子の、まさに今話題となっていた少女リシュリーが駆けてくるのを二人は目にしたのである。


 何が、であるだとか。

 どうした、であるだとか。


 声を発したりであるだとか、転びそうな危険な勢いであるのを止めるために反射的にこちらも駆け出すであるだとか。



 そのような猶予が与えられることはなかったのだ。



 ぞわりと全身を抉るかのように、生存本能ごと貫いて泡立たせるような、刺すような鋭い悪寒が背筋から指先と爪先を冷たく激しく波打った、かと感じるや。


 【闇世】の迷宮(ダンジョン)を移動する際に幾度となく体験することとなった――【空間】を【転移】するが如き、銀色の光の膜が幾条も幾条も幾条も、まるで狂った剣士にずたずたに切り裂かれた緞帳(カーテン)のように乱れ千々(ちぢ)に濫線の軌跡が入り乱れるが如く、ぶわり、むわり、ざわり、ぞわり、と『救貧院』の主回廊に満ち満ちて。


 ――酷く噎せ返るような()()()()のにおいが、警報のように、鼻はおろか全身の皮膚という皮膚を生存本能と脅かすかのように逆撫でるように(つんざ)くかのような衝撃に、ナリッソは吹き飛ばされるように尻もちをついてしまい――。

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― 新着の感想 ―
逆に何故このタイミングで吸血種(推定)が聖女を狙ったかの背景に意外な鍵がありそう。
明けましておめでとうございます。(前回書き忘れた) リシュリー視点って前回は「廃血」だった気がするのですが今回「生穢」なのは何故ですか? リシュリーって守護神系や死穢系以外の【才能発現;巫覡】とか【聖…
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