3度目はない
1554年3月
深夜、凍てつくような静寂の中で、私はただ一心に筆を動かしていた。
宛先は山口の竺雲和尚。父上にも、弟たちにも、家臣にさえも決して見せられぬ、私のなかの「泥」を吐き出せる唯一の御方。
『……今の私を見れば、和尚様はさぞ嘆かれることでしょう。家運は尽きました。私は無才覚、無器量。ただこの家を滅ぼすためだけに生まれてきたような気がしてなりませぬ。……いっそ、このままひと思いに……』
死を願う言葉が、墨となって紙に染み込んでいく。
書き記すほどに、自分が毛利の家を食いつぶす害虫のように思えて、視界が滲んだ。
その時、傍らで静かに控えていた雫が、私の震える手に、そっと己の掌を重ねた。壬生の地で得たという、微かな、けれど確実な生命の熱。
「……雫、見ておれ。これが、お前の主君の正体だ」
自嘲気味に、書きかけの文を指し示す。和尚様へ送るこの醜い告白を、彼女はどう思うだろうか。
「これが毛利の終わりの始まりだ。私は……ただ、この家を滅ぼすためだけに生まれてきたような気がしてならぬのだ」
だが、雫は動じなかった。それどころか、私の瞳を真っ直ぐに射抜き、この戦国ではあり得ぬ「予言」を口にした。
「……毛利隆元という男は、遥か未来において、吉川元春、小早川隆景と並び立ち、『毛利三兄弟』としてその名を轟かせることになります」
「三兄弟」……?
元春や隆景と、私が「並び立つ」というのか。
父上の影を追い、弟たちの眩しさに目を細めて生きてきた私が、未来ではあの方たちと同じ高みに置かれているというのか。
「あなたが劣っているなど、未来の誰も思いません。あなたがいたからこそ、毛利家は一つにまとまれたのです。……あなたが、毛利の終わりの始まりであるはずがない」
雫の言葉は、和尚様の説法よりも残酷なほどに、私の魂を現世へと引き戻した。
彼女もまた、何かに怯えている。自分の価値を「出産」という、あまりに危うい命のやり取りに捧げることでしか、己の居場所を見出せない孤独な瞳。
けれど、その震える指先は、絶望の淵にいる私を懸命に繋ぎ止めていた。
「……雫。お前は、いつも私に過ぎた夢を見せる」
私は筆を置いた。
和尚様への文は、このまま送ろう。私の弱さは、この紙の中に閉じ込めておく。
そして、雫が語る「未来」を信じるための力を、今はこの娘から分けてもらいたい。
「……下がれ、雫。これ以上はならぬ」
私は彼女の肩を、震える手で押し戻した。
未来など、私には見えない。ただ一つ分かっているのは、雫がこれまで二度も、出産という嵐に飲み込まれて死にかけたという事実だけだ。
「私は……お前を殺したくない。三度目はないのだ、雫。私はもう、お前を失う恐怖に耐えられるほど、強くはないのだ」
私の拒絶は、彼女を守るための、そして私自身が正気でいるための「最後の盾」だった。
だが、雫は冷たい夜の空気の中に、静かに、けれど揺るぎない声で言い放った。
「……隆元様。あなたは、明日も、その次も、死にません。毛利は滅びない。あなたは、この家を支え、未来に繋ぐ英雄として歴史に残るのです。私は、それを知っているのです」
雫の瞳に、迷いはなかった。
それは「願い」ではなく、未来から来たという彼女だけが見ている、確定した景色の響き。
その言葉は、私の理性を粉々に打ち砕いた。私がどれほど己を無能だと呪っても、彼女が見ている未来の私は、堂々とこの家を背負っているというのか。
「……私が、生き残るというのか。この泥濘の中で」
「はい。ですから……」
雫が、私の首に細い腕を回した。
その掌が、私の背中を優しく、強く、抱きしめる。
けれど、密着した彼女の体が、微かに震えていることに気づいた。私を励ますその声とは裏腹に、彼女自身が、自らの「死」を予感しているかのように。
「隆元様。あなたが生きる未来に、どうか、私との証を残させてください。……次は、私がどうなるか分かりません。でも、あなたに絶望したまま戦へ行ってほしくないのです」
彼女の覚悟が、私の心に冷水を浴びせ、同時に火をつけた。
自分一人が「傷つきたくない」から、彼女を遠ざけていたのではないか。
彼女は、自分が死ぬかもしれないと分かっていながら、私に「希望」を与えるために、その身を投げ出そうとしている。
……この女を、守るためにも、私は生きねばならぬ
「……雫。お前は、どこまで強いのだ」
私は、もう彼女を押し戻せなかった。
死の恐怖に怯えて逃げるのではなく、彼女が命懸けで指し示した「滅びぬ未来」を、今この掌の中に抱きしめるために。
「……分かった。お前が信じる未来を、私も共に歩もう。……お前を、二度と離さぬ」
私は彼女を布団へと導いた。
和尚様への文に綴った「死」の匂いを、雫の温もりで、一つひとつ上書きしていくように。




