↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鼓星  作者: 吉川元景
PR
92/185

四郎のお熱(雫目線)

静かな執務室に、さらさらと紙をめくる音だけが響いている。

一年前、幸鶴丸様を産んだ時に一度止まった私の鼓動は、今も時折、思い出したように不規則に跳ねる。

重いものを運ぶことも、長く歩くこともまだ辛い時がある私に、隆元様は「側にいてくれるだけでいい」と、座ったままできる書類整理の仕事を預けてくださっていた。

家中がヒリついている中、活躍出来ないのはなんだか辛いところがある。

「……雫。あまり根を詰めるな。顔色が白い」

隆元様の優しい声に顔を上げ、無理に微笑んで見せたその時。

廊下を激しく駆けてくる足音が、静寂を切り裂いた。

「申し上げます! 乃美の方様よりお使いです! 四郎様が……四郎様が高熱に浮かされ、雛殿をとお呼びになっておられます!」

「……っ!」

心臓が、ドクンと大きく波打った。

四郎……。私があの日、命を削って産み落とした、私の息子。

けれど今は、乃美の方様の大切な子として育てられている。

その子が、私を呼んでいる?

「四郎が……。雫……。行けるか。」

「はい。でも私は隆元様の小姓として……」流石に小姓ごときが行くのは良くないのではないかと迷った私に隆元様は

「よい。四郎が『雛が良い』と言っておるのじゃ。」

隆元様の言葉に、私は立ち上がろうとして、足の震えに膝をついた。

情けない。本丸から四郎のいる邸までは、凍てつく石段が続いている。今の私の足では、辿り着く前に倒れてしまうかもしれない。

迷う私を、隆元様が強い力で抱き留めた。

「行け、雫。……いや、私が行かせてやりたいのだ。あの子は今、お主にしか救えぬ場所にいる」

隆元様の胸の温もりが、私の震えを止めてくれる。

「……輿(こし)を用意させる。お主はただ、四郎のことだけを考えろ。……これは、私の『命(めい)』だ」

雪が視界を白く染める中、私は半ば担ぎ上げられるようにして四郎様の邸へと急いだ。

冷たい風が肺に刺さり、心臓が悲鳴を上げる。

四郎……。貴方は大きくなって穂井田元清になって毛利家を支える人になる。だからここで死んではだめ。

そんな歴史の知識以上に、何か私を突き動かす感情があった。

……これを母性というのかな。

母なのに母ではない私にそんなものは贅沢なのかもしれない。

そんな自問自答を繰り返しながら、私は激しく跳ねる心臓を抑え、四郎の部屋の障子を開けた。

部屋の中は、炭の匂いと、重苦しい熱気に満ちている。

「……ひな……?」

熱に浮かされ、焦点の合わない瞳で私を探していた四郎が、私の姿を認めた瞬間、その小さな体を震わせた。

私は乃美の方様に深く一礼するのももどかしく、四郎の枕元へと膝をついた。

「四郎様……。雫、参りました」

その小さな、火のように熱い手を握りしめると、四郎は私の指をぎゅっと掴み返し、それまでこらえていたものを吐き出すように、弱々しく泣き始めた。

「……ひな……。あいたかった……。ひな、ひな……」

「はい……ここに、ここに居りますよ」

四郎を抱き上げると、その小さな重みが、私の腕を通して、失われかけたはずの私の「生」を呼び覚ます。

この子は、私が産んだ子。

毛利家を守る偉大な武将になる前に、今はただ、私を必要としてくれている、たった四歳の私の息子。

乃美の方様が静かに部屋を去り、二人きりになった静寂の中で、四郎は私の胸に顔を埋め、微かに囁いた。

「ひな……今日だけは、僕だけのひなでいてね」

その言葉は、私の胸の奥に刺さっていた「母ではない」という自責を、優しく溶かしてくれた。

今日だけは。

この雪の夜が明けるまでは。

私は、毛利家の小姓であることを忘れ、未来の歴史を忘れ、ただ一人の母親として、この子を守ろう。

「ええ……。約束します。今夜は、ずっとあなたの側でお守りします」

私は四郎の背中を、ゆっくり、ゆっくりとさすり続けた。

外の雪が、すべての境界線を消し去っていくように。

私の心臓の鼓動が、四郎の熱を少しずつ、優しく鎮めていくのを感じていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。