表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鼓星  作者: 吉川元景
90/134

徳鶴丸

1555年1月――

吉田郡山城を包む雪は、音もなく降り積もっていた。

あまりにも冷え込む今日は寒いを通り越して痛いほどだった。

産屋の中は、焚かれた香の匂いと、重苦しい静寂に支配されている。

「……雫様、しっかりなさい! 目を開けて!」

尾崎様の鋭い声が、遠のいていく雫の意識をわずかに引き戻した。

私の身体は、もう自身の重みにさえ耐えられないほどに衰弱していた。陣痛は来ている。腹の底を抉るような痛みはある。けれど、それを押し出すための「力」が、枯れ果てた大地のように一滴も残っていなかった。

微弱陣痛――

身体が「これ以上は死ぬ」と拒絶している。

私の視界は白く霞み、ただ、冷たくなっていく指先と、浅い呼吸を繰り返すだけだった。

「……あ、あ……」

声にならない喘ぎが漏れる。唇は血の気が失せ、紫に沈んでいる。

双子の時のような溢れる血はない。代わりに、内側から生命力がじわじわと吸い取られていくような、静かな死の予感があった。

その時、襖の向こうから、押し殺した、けれど震える声が響いた。

「雫……聞こえるか。私は、ここにいる」

隆元様の声だった。

本来なら産屋に近づくことさえ許されない主君が、雪の中に立ち尽くし、ただ彼女の名を呼んでいる。その声に含まれた絶望的なまでの「孤独」を感じた瞬間、雫の心臓がドクンと大きく跳ねた。

私が……いなくなったら……あの方は、本当にお一人になってしまう……。

毛利家を背負い、家臣を説得し、父に背いてまで決断を下した主君。その重圧を共に背負うと決めたのは、他ならぬ自分ではないか。

「……雫様! 赤子の頭が見えたわ! あと一度、あと一度だけ、私に命を預けなさい!」

尾崎様が、汗に濡れた雫の手を、骨が軋むほど強く握りしめた。

私は、残された全細胞に命令を下した。動悸で破裂しそうな心臓も、悲鳴を上げる産道も、すべてを無視して、ただ隆元様への「執着」だけをガソリンにして、最後の一歩を踏み出す。

「ーーっっ!!」

声にならない叫びと共に、熱い塊が滑り落ちた。

直後、私の視界からすべての光が消えた。

……静寂。

産声さえ聞こえない。

雫は、暗闇の中で「ああ、終わったのだ」と思った。これで、ようやく休める。隆元様、ごめんなさい。そんな思いが、涙となって目尻から一筋こぼれ落ちた時。

「……おぎゃ……ぁ……」

細く、今にも消え入りそうな、けれど確かな産声が闇を切り裂いた。

「産まれた……産まれましたわよ、雫! 男の子です!」

尾崎様の泣き声が聞こえる。

けれど、私に応える力はない。徳鶴丸の微かな体温が胸元に置かれたのを感じた瞬間、雫の意識は、底のない深い深い眠りへと堕ちていった。


生まれた子は弱々しく、今にも命が着きそうなほど血色が悪かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ