優しさと無理
兄上の居室の前に立つと、筆の音がふっ、と止まった。
俺が声を出すより先に、中から静かな、けれど通る声が響く。
「……春、どうした。そんな顔をして」
襖を開ける前から、兄上は俺の「殺気」にも似た焦りを感じ取っていた。
促されて中へ入ると、兄上は机に向かったまま、穏やかな眼差しをこちらへ向けた。その横には、雫が活けたのであろう、凛とした秋の花が、静かに生を主張している。
「尼子との戦で備後へ発つ前に、雫のことについて申し上げたく」
「……雫のことか」
兄上は筆を置き、わずかに眉を寄せた。
「あの子なら、近頃はようやく顔色も戻ってきた。今日も四郎や紡と元気に遊んでいたから……。ようやく回復してきたものと、信じたかったのだが……」
兄上はそこで言葉を切り、視線を落とした。その指先が、わずかに震えているのを俺は見逃さなかった。
「……やはり、無理をしていたか。実は私も、時折あの子が胸を押さえるのを見て、声をかけようとしたのだ。だが、そのたびに雛(雫)は、私を安心させるような見事な笑みを浮かべる。……私が案ずれば、あの子は余計に気を張ってしまうのではないかと、そう思うと、強くは言えなかったのだ」
「兄上、それは間違ってるぞ。あやつは……半分は、まだあの日から、向こう側の住人のままじゃ。」
俺は、先ほど庭で掴んだ雫の、あの消え入りそうな細い肩の感触を兄上に叩きつけるように語った。
「視界が暗くなるほど血が足りず、心臓が冷たくなるとさえ言っておった。あやつは、兄上の優しさに甘えているのではなく、その優しさに応えようとして、己を削っておる。」
兄上は、視線を落とし、雫が活けた花をじっと見つめた。
その沈黙が、後悔と共に重く室内に満ちる。
「……そうか。私の遠慮が、あの子をさらに追い詰めていたのか。……元春。お前がそこまで言うのなら、私に止める権利はないな。私は、あの子の献身に……甘えすぎていたのかもしれない」
兄上の声は、自責を噛み締めるように低かった。
「……備後は、わしにお任せを。その代わり、雫が豊平で泥のように眠ることを、どうかお許しくだされ。」
俺は深く頭を下げた。
兄上の「静かな心配」を、俺が「強引な決断」で肩代わりする。それが、今の毛利の家にとっても、雫自身にとっても、正しい道なのだと確信しながら。




