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鼓星  作者: 吉川元景
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神仏との結び目

産後、三十日。

ようやく寝床を畳み、雫が一ヶ月ぶりに「自分自身の足」で畳を踏み締めた。

私は、彼女の薄くなった腰を支え、一歩、また一歩と、冬の柔らかな日差しが差し込む縁側へと導く。

……この足が、再び大地を踏む日を、どれほど待ち侘びたことか。

その時だった。廊下の向こうから、愛らしい声と、弾むような足音が響いてくる。

「……ひな! ひなおにーちゃん!」

紡姫だ。侍女たちが止める間もなく、小さな体で一生懸命に駆けてくる。

「つむぎ、さま……」

雫が、その名を呼ぶ。

一ヶ月前、死の淵で聞いたあの幼い声。それが今は、はっきりとした輪郭を持って迫ってくる。紡姫は雛の目の前でピタリと止まると、弾けるような笑顔で両手を広げた。

「ひな! だっこ! つむぎ、だっこして!」

いつものように、大好きなお兄ちゃんの胸に飛び込もうとする無邪気な願い。

雛がそれに応えようと、細くなった腕を差し出した瞬間、私は二人の間に割り込み、紡姫の小さな肩を優しく、けれど断固とした強さで抱き寄せた。

「いけません、姫。……今は、なりませぬ」

「お母様、なんで……? つむぎ、ひなと、ぎゅー、したいの」

紡姫が今にも泣き出しそうな顔で私を見上げる。その瞳に胸が締め付けられたが、私は膝を折り、娘の瞳を正面から見据えて言い聞かせた。

「つむぎ。よくお聞きなさい。雛はね、この一ヶ月、神仏のところへ行っていたのですよ。それを、皆で一生懸命にお願いして、ようやくこの世界に身体を返してもらったばかりなのです」

「……かみさま? ひな、かみさまのところに、いってたの?」

「そうです。だからね、今の雛は、まだ神仏との結び目がとても解けやすいのですよ。もし今、貴女が無理に抱きついたりして、雛の身体が壊れてしまったら……。神仏は『やはり返さなければよかった』と言って、雛をまた遠いところへ連れ戻してしまいます」

紡姫の瞳が、不安で大きく揺れた。「連れ戻される」という言葉が、小さな胸に突き刺さったのだろう。彼女は広げていた両手を、慌てて自分の胸元でぎゅっと握りしめた。

「……ひな、いっちゃうの? つむぎ、だっこ、がまんする。雛を、だいじだいじ、する……!」

「ええ、賢い子ですね。雛を大切に扱うことが、今の貴女にできる、一番の『魔法』なのですよ」

私がそう言って紡姫の頭を撫でると、彼女は震える指先で、雛の着物の裾を、壊れ物に触れるようにそっと摘んだ。

雛は、そのいじらしい姿に目元を潤ませ、「ありがとうございます、姫。私はどこへも行きませんよ」と、静かに誓うように微笑んだ。

私はそれを見て、ようやく肺から深く息を吐き出した。

……そうだ。この子は神仏から返してもらった、奇跡の預かりものなのだ。

蘇生の時に折ってしまった彼女の骨の軋みが、まだ私の掌に残っている。その痛みを忘れないことこそが、私に課せられた「責任」なのだと、改めて神仏に誓った。

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