表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鼓星  作者: 吉川元景
74/134

ただいま

窓の隙間から差し込む光が、ほこりを白く輝かせながら、雫の寝床を静かに照らしていた。

私の手は、何度も水桶に浸したせいで赤黒く腫れ上がり、指先はもう自分のものとは思えないほど感覚が鈍っている。けれど、雫の額に置いた手拭いから伝わる熱が、昨日までとは明らかに違う「穏やかさ」を帯びていることに、私は震えるような思いで気づいた。

「……あ、……」

ふっ、と。

ずっと虚空を泳いでいた雫の瞳が、力を持って動き、私の顔を捉えた。

「……おざき、さま……」

ひび割れた唇が、かすかに動く。

それは、熱に浮かされたうわ言ではない。私の姿を、私の存在を、はっきりと認識した瞳だった。

「……雫……! 分かりますか、雫。私ですよ、尾崎ですよ」

私はたまらず、彼女の冷たい手を握りしめた。

雫は、折れた肋骨をいたわるように小さく、けれど深い呼吸を一度つき、そして、泣き出しそうな私を見て、ふっと子供のように微笑んだのだ。

「……ただ、いま……。……おざきさま、……戻って、きました……」

「ただいま」——。

その一言が、私の胸の奥に、数日間溜め込んできた冷たいおりをすべて流し去るように響いた。

ああ、この子はあちら側から、自分の足で、私の呼び声に応えて戻ってきてくれたのだ。

その瞬間、糸が切れたように全身の力が抜けていくのを感じた。

「毛利の未来」も、「身代わりとしての責任」も、何一つ考えられない。

ただ、目の前にいるこの子が生きている。その事実だけが、泥のように重い安堵となって私を押し潰した。

「……おかえりなさい、……雫。……よく、よく戻ってきてくれました……」

私は、雫の手を握ったまま、彼女の枕元に崩れ落ちるように額を預けた。

嗚咽さえ出ない。ただ、どっと押し寄せる疲労と、温かな安心感に身を任せ、私は数日ぶりに、雫の規則正しい呼吸の音を聞きながら、深い、深い微睡まどろみの中へと沈んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ