ここがお主の生きる世界
行灯の火を背に、筆を置いた。
備後からの戦況報告も、家臣への下知も、今はただの紙切れにしか見えぬ。
隣の「奥の間」から、微かな、だが確かに魂を削るような嗚咽が聞こえてきたからだ。
私は吸い寄せられるように立ち上がり、音もなく襖を引いた。
「……雫? まだ起きて――」
言葉が凍りついた。
暗がりの中、雫が膳を前にして、肩を激しく震わせていた。盆に載ったままの重湯はとうに冷め、手つかずのまま。
床に落ちる涙の音が、静寂の中で残酷なほど大きく聞こえる。
「雫! どうした、どこが痛む! 医者を、すぐに医者を――」
慌てて駆け寄り、その細すぎる体を腕の中に囲い込む。
抱き上げた瞬間、私は戦慄した。彼女の体は、抱いている手応えさえないほどに軽くなり、ただ、胸の奥で心臓だけが、壊れかけの早鐘のように暴れ狂っている。
「……ちが、……違うんです……たかもと様……」
雫が私の胸に顔を埋め、堰を切ったように泣き叫んだ。
その泣き声は、死への恐怖というより、生きることへの「飢え」そのものだった。
「……お腹、……空いてるのに……食べられないんです……。……食べないと、……死んじゃうのに……。……私、……まだ、ここにいたい……。……たかもと様と、……みんなと……春まで……生きていたいよ……っ!」
雫の小さな拳が、私の狩衣を必死に掴む。
彼女の背中に回した私の手までが、その激しすぎる鼓動に共鳴して震え始めた。
苦しいだろう。痛いだろう。泣けば心臓が悲鳴を上げることも、未来の知識を持つこの子は誰よりも分かっているはずなのに。
それでも、彼女は「生きたい」と叫ぶことを選んだ。
「分かっておる。分かっておるから、もう泣くな。これ以上は心臓に障る、雫、私を見ろ!」
私は彼女を座らせたまま、自分の体を支柱にしてその体を支えた。
逃げてはならぬ。この子の絶望も、弱音も、すべて私が引き受けねば。
私は彼女の耳元で、自分自身の呼吸を整えながら、深く、静かに導いた。
「……吸え。……吐け。……私と一緒にだ。……そうだ、上手いぞ、雫……」
一呼吸、一呼吸。
彼女の肺が、命を繋ぎ止めるための空気を必死に追いかけるのを、肌で感じる。
長い時間をかけて、ようやく嵐が凪いでいった。
雫の顔は涙でぐちゃぐちゃになり、唇は紫色に沈んでいる。それでも、彼女の瞳にはまだ、消えぬ光が宿っていた。
「……ごめんなさい。……格好悪いですよね……。私が選んだ道でもあるのに。」
掠れた声で、雫が自嘲気味に呟く。
何を言う。この過酷な乱世に迷い込み、死の縁に立ちながら、それでもなお「誰かの成長を見たい」「誰かを悲しませたくない」と願う。これほど尊い強さが他にあるものか。
私は雫の濡れた頬を両手で包み、額を合わせた。
「……いいや。……世界で一番、……生に対して誠実な女子だ。……お主のその『生きたい』という欲こそが、……私の、……毛利の光なのだから」
雫の冷え切った指先が、私の腕に重なる。
彼女がもう一度、枕元のお守りを握りしめるのを見て、私は決意した。
この子が命を懸けて「明日」を願うなら、私は当主としての冷徹さなど捨てよう。
元春にも、隆景にも、なりふり構わず伝えねばならぬ。
……見よ、雫。お主はまだ、ここに居る。……春も景も、お主の帰りを待っておるのだ。……儂も、……一秒だってお主を離しはせぬ。
彼女の意識が微睡みに落ちるまで、私はその小さな鼓動を、この腕の中で守り続けた。




