ここが私の生きる世界
目の前の小さな塗りの盆が、今は何よりも恐ろしい。
尾崎様が運んでくれた、温かいはずの重湯。かつては大好きだった、春様が届けてくれた猪の香り。
……一口。たった一口が、どうしても喉を通らない。
……なんで。お腹は、空いてるのに…。
脳は「食べろ」と命令しているのに、体がそれを拒絶する。無理に流し込もうとすれば、心臓がバクバクと肋骨を突き破らんばかりに暴れ出し、肺が溺れるように喘ぐ。
ああ、分かってしまう。私の体はもう、未来へ繋がるための「燃料」を受け付けないんだ。
このまま私はきっと…。
「……やだ。……やだよ……」
一度こぼれた言葉は、もう止められなかった。
視界が急激に歪み、熱い涙がポタポタと床の上に落ちる。
泣いたら苦しくなる。心臓に負担がかかる。そんなの、嫌というほど分かっているのに。
まだ、死にたくない。……この時代から、消えたくない……っ。
未来にいた頃の自分なら、「運命だから」なんて悟ったふりをしたかもしれない。ここ(戦国)に来たばかりの時なら「未来へ帰るための死なんだ。」なんて希望にすら思えたのかもしれない。
でも、今は違う。
隆元様の温もりを知ってしまった。
春様と指切りをしてしまった。
景様とはまたゆっくり話そうって約束してしまった。
四郎(少輔四郎)と紡が成長する姿を見たい。
ここで私が死んでしまえば尾崎様が壊れてしまう。
この愛おしい乱世で、私は本当に「生きたい」んだ。
その時、襖が静かに開いた。
「……雫? まだ起きて――」
隆元様の声。
慌てて涙を拭おうとしたけれど、指先に力が入らない。
駆け寄ってきた彼の気配。そして、私を壊れ物のように包み込む、大きな腕。
「雫! どうした、どこが痛む! 医者を、すぐに医者を――」
「……ちが、……違うんです……たかもと様……」
彼の胸に顔を埋めた瞬間、堤防が決壊した。
嗚咽のたびに胸が焼け付くように痛む。呼吸がうまくできなくて、視界がチカチカする。苦しい。痛い。怖い。私は彼の狩衣を必死に掴んで、子供みたいに声を上げて泣いた。
「……お腹、……空いてるのに……食べられないんです……。……食べないと、……死んじゃうのに……。……私、……まだ、ここにいたい……。……たかもと様と、……みんなと……春まで……生きていたいよ……っ!」
「雫……」
たかもと様の腕に、ぐっと力がこもる。
私の背中に回された彼の手が、激しく打ち付ける私の鼓動に驚いて、微かに震えているのが分かった。
「分かっておる。分かっておるから、もう泣くな。これ以上は心臓に障る、雫、私を見ろ!」
耳元で響く、必死な声。
彼は私を座らせたまま、自分の体を支柱にするようにして、私の背中をゆっくりと撫でた。
「……吸え。……吐け。……私と一緒にだ。……そうだ、上手いぞ、雫……」
彼の深い呼吸に合わせて、必死に空気を追いかける。
吸って、吐いて。彼の心音のリズムをなぞるように。
長い時間をかけて、ようやく嵐のような動悸が、少しずつ、凪いでいく。
「……ごめんなさい。……格好悪いですよね……。私が選んだ道でもあるのに。」
掠れた声でそう言うと、たかもと様は私の濡れた頬を大きな手で包み込み、額をこつんと合わせてくれた。
「……いいや。……世界で一番、……生に対して誠実な女子だ。……お主のその『生きたい』という欲こそが、……私の、……毛利の光なのだから」
彼の瞳に、私の泣き腫らした顔が映っている。
情けなくて、無様で、でも「生きている」私。
隆元様の体温が、冷え切った指先まで伝わってきて、私はようやく、明日もこの場所で目覚める勇気をもらった気がした。
……春様。……針千本は、まだ飲ませないですよ……。……私、まだ……頑張るから……。
景様…きっと心配してくれているだろうな…大丈夫…またいろんなお話したいな…。
私は彼の腕の中で、消え入りそうな意識を繋ぎ止めながら、枕元のお守りを、もう一度だけ強く握りしめた。




