まだここにいる
奥の間の空気は、氷のように冷え切っている。
行灯の火が今にも消えそうなほど細く揺れ、机の上には、未だ目を通すべき備後からの戦況報告や兵糧の算段が、山をなしていた。
だが、今の私には、それらに筆を走らせる力は残っていない。
「……たか、もと……様……。……まだ、お仕事……終わって、ないんじゃ……」
背後から抱きすくめた腕の中で、雫が掠れた声で私を気遣う。
その肩は、以前に増して細くなり、抱いているはずの私の方が、彼女の儚さに怯えていた。
「……案ずるな。……今、一番大事な『仕事』をしておるところだ」
自分の声が、自分でも驚くほど掠れていた。
連日の政務、父上や弟たちとの文のやり取り、そして何より、夜通し座ったまま眠る雫の体を支え続ける毎日。私の肉体も限界に近いことは分かっている。
だが、この腕を解けば、彼女がそのままどこか遠い世界へ消えてしまいそうで、どうしても離せなかった。
雫の背中から、彼女の心臓の音が伝わってくる。
「ドクドク」と、あまりに速く、あまりに必死な、壊れかけの時計のような音だ。
それに引き換え、自分の鼓動は酷く重く、鈍い。
まるで、死に向かおうとする彼女の裾を、必死にこの現世へ繋ぎ止めようとするようだ。
「……たかもと様。……私の、……心臓の音……うるさくない、ですか?」
「……いや。……これほど愛おしい音はない。……お主が、今、ここに居るという……証だからな」
私は雫の細い肩に、深く顔を埋めた。
今はただ、苦い薬草の匂いと、そして、認めがたい「死」の予感を含んだ、甘く切ない匂いが鼻を突く。
それでも、これこそが、私が毛利の命運を賭けてでも守り抜かねばならない、家族の匂いだった。
「……少しだけ、……このまま目を閉じさせてくれ。……お主の温もりが、……一番の薬だ」
「……はい。……おやすみなさい、……たかもと様」
雫の冷たい手が、私の腕に重なった。
座ったままの不安定な姿勢。背中や腰は悲鳴を上げている。だが、こうして互いの体温を分け合っている間だけ、私は「毛利隆元」という重荷を脱ぎ捨て、ただの男として「無」に帰ることができた。
微睡みの中で、雫の背中が、肺が、空気を求めて激しく震えるのを感じる。
そのたびに、私の心臓は恐怖で冷たく縮み上がる。
……行くな、雫。まだ、私を置いていかないでくれ。
父上は偉大すぎ、弟たちはあまりに鋭い。無才覚の儂にはお主がいなくなれば、私はこの家を、一人で背負う自信がないのだ……。
疲れているのか瞼の裏が熱くなり、堪えていた涙が一筋、雫の小袖を濡らした。
情けない当主だと、自分を嘲笑う。だが、雫はそれを察したかのように、私の腕を弱々しい力でぎゅっと握り返してくれた。
「……はる様と……指切り、……しましたから。……まだ、……ここに……いますよ」
その囁きは、私にとってどんな神仏の祈りよりも尊かった。
過労死寸前の私と、命を削り続ける彼女。
私たちは、どちらからともなく深い闇の底へ、寄り添うように落ちていった。
せめてこの夢の中だけは、戦も、生死も、毛利という名さえも届かない場所であってほしいと願いながら。




