備後の嘘
深夜の備後の陣。
野営の焚き火が爆ぜる音だけが、重苦しい静寂を切り裂いていた。
強行軍で郡山から戻った儂は、馬を降りるなり、火の傍で一人座り込む景の姿を見つけた。
「――戻ったぞ、景。……なんや、寝とらんかったんか。」
儂はあえて快活な声を出し、どっかと景の隣に腰を下ろした。
だが、景は手にした書状に目を落としたまま、微動だにしない。
「……春兄上。……雫殿は、いかがでしたか。……隅々まで、見てこられましたか」
その静かな問いに、心臓が跳ねた。
小指に残る、あの冷たい感触が蘇る。……「本当に生きとるんか?」と疑うほどに儚かった、あの指先の温度が。
「おう、見てきたわ! 相変わらず、あやつは生意気じゃったぞ。……儂の足音がうるさい言うてな、寝たふりもせんと起きてきよったわ。……お前のことも案じとったぞ。『またゆっくり話そう』とな。……ガハハ、相変わらずじゃ!」
自分の声が上擦っていないか、必死に喉を締め直した。
だが、景はゆっくりと顔を上げ、儂の目を真っ直ぐに見据えた。その瞳は、瀬戸内の夜の海のように冷徹なまでに闇を吸うほど深く澄んでいる。
「……嘘ですね、兄上。」
「……なんじゃと。」
「貴方は、嘘をつく時に、決まって拳を強く握りしめる。そして、声が一段と大きくなる。……雫殿は、……そんなに、お元気だったのですか。」
景の言葉は、冷たい刃のように胸を切り裂いた。そして隠していた右手の拳を、さらに強く握りしめた。雫と指切りをした、あの小指が痛むほどに。
「……景。……儂は嘘などついとらん。……あやつは、……雫は、笑うとったわ。……春になったら、儂の領地の山を一緒に馬で駆ける言うて、約束までしたんじゃ。……針千本飲む指切りまでしてな!」
「……そうですか。……馬の、約束を」
景は、ふっと視線を焚き火へと戻した。
その横顔に、一瞬だけ、耐え難いほどの悲哀が滲む。
まるで泣きそうな子供のような顔だ。
儂がこれほどまでに必死に嘘をつき通そうとしている理由。それは、雫が「もう長くはない」ことを、儂自身が誰よりも肌で感じてしまったからだと、景には痛いほど分かった。
「……兄上。貴方は残酷だ。……そんな、叶わぬ約束を、あの子にさせて。そして私にまで、その夢を見ろと言うのですか。」
「景! 叶わぬとは何事じゃ! 儂が、……儂らが、……あやつを死なせんと決めれば、それでええんじゃ。神様にも無理やりお守り出させたけぇ、あやつは、必ず生きる。」
怒りからかそれとも不安な自分をさらけ出さないためか分からない。声は強く揺れていた。
それはきっと景を納得させるためではなく、自分の中にある「絶望」を追い払うための叫びだった。
景は、しばらく黙って火を見つめていたが、やがて静かに立ち上がった。
「……分かりました、兄上。……今の報告、……信じましょう。……雫殿は笑い、春に馬へ乗る約束をした。……そういうことに、しておきましょう」
景は儂の肩を一度だけ、そっと叩いた。
そこには、兄の「下手な嘘」を丸ごと飲み込んだことが丸わかりだった。
「お休みください、兄上。明日からは、……あの子が春に山を駆けるための、平和な『明日』を、私たちが作らねばなりませんから」
景が去った後、儂は一人焚き火の前に残された。
握りしめた小指の震えが、ようやく止まる。
……済まぬ、景。儂はお前にまで嘘をつかせてしもうた。
爆ぜる火の粉が、夜空へと消えていく。
「本当に儂は無力じゃな…。」
この声はきっと夜空へ溶けてしまった。




