未来への約束
備後の陣から馬を飛ばし、一刻も早くこの目で確かめたかった。
湯殿で泥を落とし、身なりを整えても、胸の奥のざわつきは消えない。景に「隅々まで見てこい」言われなくても儂自身が、あのおてんばな未来っ子のツラを見んと気が済まなかった。兄上も察したのか先に顔を見せてこいと
奥の間の襖を、指一本分ずつ引く。
……静かすぎる。戦場の静寂とは違う、命が薄うなっていくような不気味な静けさ。
……雫、寝とるんか……。
月明かりの中に、雫の影が見えた。
壁に寄りかかり、肩で細う息をしているその姿を見た瞬間、儂の心臓がどくんと一際大きく脈打った。
細い。あまりに細くて、今すぐ消えてしまいそうだ。儂は、自分の足音が鳴らないよう、抜き足差し足で這い寄った。雫を起こさないよう、ただ、その呼吸が止まってないか確かめるために。
「……ん、……はる……様……?」
「――っ、……起こしてしもうたか。……すまぬ、雫。……儂の足音が、うるさかったのぉ」
バツが悪くて、膝をついた。
間近で見る雫の顔は、湯殿で洗ったばかりの儂の掌よりも白い。暗がりのせいでそう見えると、自分に言い聞かせなければやってられなかった。
「……ふふ。……はる様、……あんなに、……一生懸命……静かに、してたのに。……なんか、……一生懸命すぎて……逆に、目が……覚めちゃいました。」
掠れた声で「はる様」と呼ぶ響きが、いつもより弱々しくて、胸が締め付けられる。
「やかましいわ。お主に『泥臭い』言われんよう、湯にも入ってきたんじゃ。……ほれ、これを持ってきたけぇ。しっかり持っとけ」
震えそうになる手を隠して、懐から守り袋を出した。
宮司の胸ぐら掴まんばかりの勢いで分捕ってきた、この時代の神様の力だ。儂が無理やりにでもこっちの世界へ繋ぎ止めてやる。
雫の細い手に、お守りを握らせる。
触れた指先が、信じられないほど冷たい。……こいつ、本当に生きとるんか?
そう疑いそうになる心を、儂は必死に塗りつぶした。
「……はい。……ありがとうございます。……私、……未来から来たから、……あんまり神様とか、信じてなかったけど……。……元春様が、……こんなに、……一生懸命……持ってきてくれたなら、……効きそうな、気がします」
「……おう。効く。儂が効く言うたら、効くんじゃ。景にも『雫殿の顔色を、隅々まで見てこい』言われて戻ったんじゃけぇ。……お主が笑うとった言わんと、あやつに後で何言われるか分からんのよ」
おどけて見せると、雫が無理に笑った。
あやつ、泣きそうなのを堪えとる。未来から来て本当は今も神様のことも信じてないくせに、儂の持ってきた気休めに縋ろうとしている。
それが堪らなく愛おしくて、同時に、どうしようもなく怖かった。
「……かげ…様、……元気ですか? ……私、……大丈夫だって。……ちゃんと、……またゆっくり話そうって約束……覚えてるって、伝えて……ください。……嘘、ついてません……って」
あやつの口から出る「約束」という言葉が、今の儂にはどんな刃よりも鋭い。
未来の話を、また話そうと言う。その約束を守る力が、今のこの子のどこに残っているのか。
「おう。伝えちゃる。じゃけぇ、お主も、絶対、絶対、嘘つくんじゃないぞ。……春になったら、お主を馬に乗せて、儂の領地の山並みを全部見せてやるんじゃけぇ。……約束じゃぞ、雫」
声が沈んだのを自分でも分かった。
春。……桜が咲く頃、お前は本当にここに居るんか。
儂は、自分の吐いた言葉が空っぽにならんよう、拳を握りしめた。
「……はい! ……指切り、します? ……未来では嘘ついたら、針千本飲ますんですよ?」
「針千本か。お主の未来の罰は、えらい物騒じゃのう! ええわ、飲んでやる。……じゃけぇ、生きて笑え」
指切りをした、その小指が折れそうなほど頼りない。
儂は、再び雫が眠りにつくのを見届けた。本当はずっとこうしていたい。
だがここで立ち止まったら、儂まで「絶望」という泥に飲み込まれそうじゃったから。
雫を置いて、襖を閉める。
手に残った雫の体温を、消えぬよう握りしめたまま、儂はまた泥の戦場へと駆け出した。
……嘘でもええ。
針千本でもなんでも飲んでやる。
だからあの小指の温もりを、春まで消さないでいてくれ。




