ふたつき後の話-隆元目線
肌にねっとりとまとわりつく夏の熱気が、広間の空気を重く沈ませている。
目の前の地図を囲み、赤川、国司、粟屋たちが備中・備後への兵糧差配について、険しい顔で議論を交わしていた。陶方からの無理難題、尼子の不穏な動き……。日々、胃の腑を焼くような心労が絶えない。
「……此度の尼子の動き、尋常ではありませんな。兵糧の道、一つでも断たれれば離反する者も出ましょう。大殿(元就)たちも干上がってしまいますぞ」
赤川元保が、岩のような巨躯をどっしりと落ち着け、地響きのような低い声で念を押す。その鋭い眼光は、毛利の行く末を案じる忠義に満ちていた。
だが、儂の意識は、その傍らで必死に筆を走らせる雫に釘付けになっていた。
あの決意から2ヶ月少し。血虚である雫の体調を優先にして夜の仕事をしていた。
……だがおかしい。
墨を摺る音が、力なく滑っている。書状を持つ指先が、微かに、けれど規則的に震えているのを、儂は見逃さなかった。
雫……もう、限界なのだろう。なぜ、そうまでして……。
彼女の顔色は、もはや白を通り越して土色に近い。
五月のあの夜、彼女をこの戦国の泥沼に繋ぎ止めたのは儂だ。彼女の「責任感」を、儂の「欲」で利用したのだという罪悪感が、喉元までせり上がる。
「雫……。雫、もうよい。あとは儂が書く。……下がれ。」
短く、拒絶を許さぬ声で命じた。
だが、雫は顔を上げない。
いつも澄んだ綺麗な目をしているというのに、今はその目も濁っているように見える。
「……っ、いえ……あと、少し……書かねば……」
「雫!」
儂が座を蹴って手を伸ばした瞬間、彼女の手から筆が滑り落ちた。
糸の切れた人形のように、雫の体が前へ崩れる。
「――っ!」
畳に叩きつけられる寸前、儂はなりふり構わずその体を抱きとめた。
腕の中に収まった雫は、夏の盛りだというのに、驚くほど冷え切っていた。
「……雛……殿……?」
国司が、持っていた書状を落とし、震える手で口元を覆うのが見えた。
男子にしては高めの声でよく笑い、この濃い面々に囲まれて調整役に奔走する国司の心を、いつもその笑顔で癒やしていた雫。国司が子や孫のように可愛がっているのも知っていた。その「雛」が、今は死人のように動かない。
「……殿。早く、奥へ。雛殿の顔色、尋常ではございませぬぞ」
粟屋の声が、低く震えている。
雫はいつもあまり多くを語らない粟屋にはお茶を持っていったり、静かに一緒に書状の整理をしていた。
粟屋はそんな自分に合わせてくれる雫を信頼してか雫の前では少しだけ言葉数が増えていたように感じる。
赤川は、決して取り乱しはしない。武士としてどっしりと構えてはいるが、その大きな掌が畳をミシリと鳴らし、白くなるほど握りしめられているのが、彼の静かな動揺を物語っていた。
「……赤川、国司、粟屋。……この場は任せた!」
儂は雫を、この世で最も脆く尊い宝物を扱うように、力一杯抱き上げた。
雫の指先は、最後まで職務を全うしようとした証として、墨で真っ黒に汚れている。
すまぬ、雫。儂の、儂のせいだ……。お主をこんなに追い詰めて……!
やはり体はまだ子を作るのに耐えられないのだ。
「まったく、あの意地っ張りが。……死に損なうまで書いておったのじゃな」
背後で、赤川が絞り出すように呟くのが聞こえた。その射抜くような視線が、儂の背中に突き刺さる。
「ああ、なんと。殿の厄を、またこの子が独りで……」
国司の、涙に濡れた声が遠ざかる。
粟屋が、雫の落とした筆を拾い、汚れた畳を自分の袖で拭いながら深く頭を下げる気配がした。
「儂らも負けてはおれぬな。」
赤川の独り言のような決意を背に、儂は一目散に奥へと走った。
腕の中の雫は、あまりに軽く、あまりに冷たい。雪のように溶けて居なくなってしまいそうだ。
……お願いだからいつものように笑っていてくれ。
廊下を抜ける熱い風が、彼女の墨の匂いを運んでくる。無理をしてしまうこの子をどうすれば守ってやれるのだろうか。




