呪詛
「……雫を、抱くことにした。明日、彼女を儂の寝所に呼ぶ」
兄上(隆元)の口から出たその言葉が、私の鼓膜を突き破り、心臓を直接凍りつかせた。
手に持っていた扇子を、パシリと音を立てて閉じる。そうでもしなければ、指先の震えを抑えられなかった。
……またか。また、私は一歩遅いのか。
次兄(元春)の怒号が私の中の怒りの輪郭を意識づける。
「春兄上、離してください。」兄上(隆元)の胸ぐらを掴む春兄上に声をかける。
一目見たあの時から、私は彼女をこの濁った世から救い出したかった。
高山城へ、誰の目も届かぬ場所へ。父上の冷徹な計算からも、兄上の甘い独占欲からも引き離し、彼女が「未来」へ帰れるその日まで、私のすべてを懸けて守り抜きたかった。
だが、私の指先が彼女の衣の端に触れることさえ叶わぬうちに、彼女はまた、自ら「歴史」という名の檻の奥へと歩んでいく。
「……兄上。私は、兄上が大内義隆公を失い、心折れかけていたのを雫殿が支えていたのを見ていました。」
私の声は、自分でも驚くほど冷たく、鋭かった。
「彼女はきっと大内義隆公がここで死ぬ未来を知っていたのでしょう。それを言わずに兄上を支えるという辛い選択をした。」
大内義隆公が死ぬ未来を知りながら、あえて言わずに兄上を支える道を選んだ雫殿。その「沈黙の重み」を理解しているからこそ、怒りが湧く。
「……ですが兄上は、そんな彼女の献身を『欲』で返すというのですか。」
それは兄への怒りではない。彼女を「逃がす」ことができなかった、自分自身の無力さに対する呪詛だ。
「あの方は、ここの人間ではない。守るべき家も、果たすべき義理も、本来はないはずの方だ。」
どんどん感情が声に乗ってくる。
「…兄上が彼女を逃がさぬのであれば、せめて一人の人間として、平穏に過ごさせるのが、拾った者の責任ではないのか! 父上といい兄上といい、貴方たちは彼女をなんだと思っているのですか!」
叫び出したくなるのを、知略という名の仮面で必死に抑えつける。
春兄上に掴み掛かられている兄上から語られたのは、彼女自身の「覚悟」だった。
歴史を守るために、未来を作るために。
死を賭してでも、この毛利に命を繋ぐ。
それが彼女の出した答えなのだと。
……ああ。貴方は、どこまで残酷なほどに強いのですか、雫殿。
貴方が豆だらけの手を隠して微笑むたび、私はその手を、素振り用の木刀ではなく、私の温もりで包んでやりたいと願ってきた。
貴方が読み慣れぬ書状に目を凝らしているとき、私はその肩を抱き寄せ、もう頑張らなくていいと囁きたかった。
貴方が涙に濡れる時は私の全てをもって貴方を泣かすものを排除したかった。
ただ笑っていて欲しかった。それだけなのだ。
だが、貴方が選ぶのはいつも、私ではなく「毛利」なのだ。
そして、その「毛利」の象徴として貴方がその身を委ねるのは、いつも……兄上なのだ。
「……兄上。私は、兄上を許したわけではありません」
立ち上がったとき、視界がわずかに歪んだ。
許せないのは、彼女を「抱く」兄上ではない。
彼女に「抱かれたい」と思わせることさえできなかった、自分自身の存在だ。
「ですが、彼女がそこまでの覚悟を……『器』ではなく一人の人間として、兄上と共に歩む道を選んだというのであれば。……私は、その命が芽吹くための世を、知略の限りを尽くして作ってみせます」
それが、私に許された唯一の、彼女への愛の形。
彼女の責任感が、彼女を死に至らしめることがないよう、私はこの世の理をすべて書き換えてでも、盤石の土台を作ってみせる。
「……ですが、兄上。……あの方を、二度と泣かせないでください。私が雫殿に誓った『この人生で良かったと思える世』には、彼女が健やかに笑っている必要があるのですから」
廊下へ出ると、夜の冷気が頬を打つ。
私は、届かなかった自分の右手を、暗闇の中で強く握りしめた。
嫉妬などという浅ましい感情は、知略の底に沈めて殺す。
雫殿。貴方が命をかけて産むその子は、私がなにがあっても守ります。……貴方の代わりに、私がその子の盾となり、矛となろう。……それが、何も持たぬ私にできること。
足音を忍ばせ、私は独り、闇の中へと消えていった。




