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鼓星  作者: 吉川元景
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許されない道

大寧寺の変から半年余り。

義隆公を失った喪失感と、陶家との神経を削る外交。泥を啜るような日々の中で、儂の心を繋ぎ止めていたのは、まだ顔色の戻らぬまま小姓として寄り添い続ける雫の存在だった。

だが、今夜、儂は彼女にさらなる地獄を強いる決断をした。

「……春、景。話がある」

重苦しい空気の中、儂は二人を呼び出した。

火を灯したばかりの行灯が、二人の弟の鋭い眼光を浮き彫りにする。

「……雫を、抱くことにした。明日、彼女を儂の寝所に呼ぶ」

一瞬、時が止まった。

そして、春が床を蹴って立ち上がった。

「――正気か、兄上!!」

その怒号は、障子を震わせ、儂の鼓膜を打った。元春は儂の胸ぐらを掴み、その太い指先を震わせる。

「兄上は忘れたのか! 去年の五月、雫があいつの身体は雪のように白くなって、今にも消えそうなほど血を失って死にかけた状態だったじゃろ! まだ血虚で眩暈がすると言ってふらついているあいつを、またあの地獄へ戻すつもりか!」

「春兄上、離してください。」

冷たい、刃のような声が割り込んだ。

隆景だ。彼は立ち上がることさえせず、ただ暗闇の中で氷のような瞳を儂に向けていた。

「……兄上。私は、兄上が大内義隆公を失い、心折れかけていたのを雫殿が支えていたのを見ていました。彼女はきっと大内義隆公がここで死ぬ未来を知っていたのでしょう。それを言わずに傷ついた兄上を支えるという辛い選択をした。……ですが兄上は、そんな彼女の献身を『欲』で返すというのですか。」

隆景の声には、怒りを超えた絶望が混じっていた。

「あの方は、ここ(戦国)の人間ではない。守るべき家も、果たすべき義理も、本来はないはずの方だ。……兄上が彼女を逃がさぬのであれば、せめて一人の人間として、平穏に過ごさせるのが、拾った者の責任ではないのか!父上といい兄上といい貴方達は彼女をなんだと思っているのですか。」

弟たちの言葉は、一言一句が儂の胸を抉った。

儂は、胸ぐらを掴まれたまま、逃げずに二人を見据えた。

「……欲ではない。いや、そう見えるのなら、儂を斬れ。……だがな、これは雫自身が、そして尾崎が、命を懸けて儂に突きつけた『覚悟』なのだ。」

儂は、雫が「歴史を、未来を作るために来た」と、震える声で微笑んだことを話した。

尾崎の腹の傷のことは弟達には流石に言えぬ。

「……あの子は、儂らが思うよりもずっと深く、この毛利の行く末や本来来るはずの歴史が変わってしまうことを案じている。儂が抱かねば、あの子はいつか、歴史を守るために、再び独りで父上の元へ向かってしまうだろう。もしかしたら自らの死を持って歴史の"正しい流れ"とやらを作ろうとするかもしれない。……儂は、それが耐えられぬのだ。笑っていて欲しい。戻れるか分からぬが戻れる日までずっと。」

元春の力が、ゆっくりと抜けていった。

元春は苦しげに顔を歪め、吐き捨てるように言った。

「……クソっ、なんであいつは、そうまでして自分を削るんじゃろうな。……おい、兄上。約束してくれ。もし次にあいつを死なせかけたら、儂はあんたを絶対に許さん。兄上じゃろうが何じゃろうが、儂がこの手で引導を渡すけぇの。」

「……ああ。構わぬ。」

隆景が、静かに扇子を閉じ、立ち上がった。

「……兄上。私は、兄上を許したわけではありません。ですが、彼女がそこまでの覚悟を……『道具』ではなく一人の人間として、兄上と共に歩む道を選んだというのであれば。……私は、その命が芽吹くための世を、知略の限りを尽くして作ってみせます。」

隆景は出口へ向かいながら、一度だけ立ち止まった。

「……ですが、兄上。……あの方を、二度と泣かせないでください。……私が雫殿に誓った『この人生で良かったと思える世』には、彼女が健やかに笑っている必要があるのですから。」

弟たちが去った後の静寂の中で、儂は自分の手の震えを見つめていた。

明日、儂は彼女を抱く。

それは地獄への一歩であった。

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