堕ちるなら共に地獄へ
その夜、儂が部屋を訪れたとき、異様な光景に足を止めた。
部屋の隅々には、煮詰めた薬草の重苦しい匂いが立ち込め、行灯の火が今にも消えそうに揺れている。
そこには、正室である尾崎と、産後の肥立ちもままならぬほど青白い顔をした雫が、並んで座っていた。
「……二人して、どうしたのだ。雫、お主は顔色も悪いしまだ横になっていなくては……。」
案じる儂の言葉を遮ったのは、尾崎の少し震えた声だった。
彼女は震える手で自らの帯を解き、夫である儂の前に晒した。
「……尾崎! どうしたのだ。」
何度も抱いているからお腹に傷があるのを知っていた。だが、新しい傷が増えているように見える。
「お灸の跡にございます。そして、私が己を呪い、爪を立てた跡にございます……。殿、ご覧ください。これが、子を成せぬ女の成れの果てにございます」
いつか子は出来ると言い続けていた。その言葉がこれほどまでに愛する妻を追い詰めていたのか…。
その場に崩れるように膝をつく。尾崎はそんな不甲斐ない儂の頬を、泣きそうな、けれど狂おしいほどに澄んだ瞳で見つめた。
「私は『毛利の女』でありたいのです。けれど、私の胎は枯れ果て、もう二度と芽吹くことはありませぬ。……殿、お願いにございます。雫殿を、……雫殿を抱いてくださいませ。」
「……何を、馬鹿なことを!」
目の前が真っ白になり、自分でも驚くほどの怒号が響く。
「雫が、あの夜どれほどの血を流したか、お主はその場で見ていたはずだ! (少輔)四郎と紡を産み落とし、死の淵を彷徨った彼女を、再びあの地獄へ送れというのか! 儂は……儂は、彼女を死なせたくないのだ!」
初七日を過ぎて部屋に入った時、今にも消えそうな雪の如く白く細くなっていた姿を今でも忘れられない。
今なおあの時に失った血を補えず、血虚で苦しんでいるというのに。
けれど、その震える手を、冷たい手が包んだ。
「雫…?」
「……隆元様。……聞いてください。
私は、怖いです。セックスなんて、今でも気持ち悪いし、吐き気がします。……またあの血の海に沈むのかと思うと、足が震えて止まりません」
「ならば……!」
「……けれど、隆元様。私は、この時代にただ来ただけではありません。……貴方様と共に、歴史を、未来を作るために来たのです。貴方が夢見る義隆公が目指していた平和な未来を掴むために。」
雫の瞳に宿る、鋭く、そして悲しいほどの「責任感」。
ああ、儂は知っている。
雫はこういう子だ。
だからこそちゃんと未来へ返してやりたい。お主を探しているものがいるだろう。
お主は争いのない平和な世界で生まれ育ったのであろう。
この時代に踏みとどまり、果たさなければならない責任なんて無いのだ。
「私の知っている歴史では、貴方様と尾崎様の間に、そろそろ子が出来産まれるはずです。……けれど今、尾崎様のお腹がそれを拒むのであれば、私がその役目を引き受けます。……それが、私がこの世に来てやらなければならない事なのです。」
「雫……お主は、また命を捨てる気か……。」
「捨てません。大丈夫です。だって隆元様が、支えてくださるのでしょう? 春様や景様が、守ってくださるのでしょう?」
雫は無理に微笑んでみせた。その笑顔は、手を豆だらけにして素振りをして春と稽古をし、読みなれない書状を読み書きできるまで努力している際にも見せていた笑顔だった。
なんでここまで覚悟を決めてしまうのか。
怖いとか嫌だと言っても許されるだろうに。
黙り込んだ儂に尾崎が
「殿……この雫殿の覚悟を、どうか無下にしないでくださいませ。……私と、雫殿と、そして毛利の未来のために。……貴方様の命を、お分けくださいませ」と泣きそうな顔で伝えてくる。
沈黙が、永遠のように部屋を支配した。
当主としての責任。妻(尾崎局)にここまで思い詰めさせた不甲斐なさ。そして、目の前で命を削る覚悟を決めている雫への申し訳なさ。
それらすべてが混ざり合い、儂の心の中で音を立てて崩れていく。
「……分かった。すまぬな。本当に、儂が不甲斐ないばかりに……もしも地獄へ行くなら、三人で行こう。」
儂は、雫を、そして尾崎様を、両腕で力一杯に抱きしめた。
「死なせぬ。二度と、お主らの心も体も死なせはせぬ。……我が命に代えても、お主らを、私がこの世で守り続ける。」
窓の外では、夜の風が冷たく吹き抜けていく。
けれどその部屋の中には、二人の女性の凄まじい「覚悟」と、一人の男の悲壮な「誓い」が、新しい歴史の鼓動となって響き始めていた。




