厳島の戦い―慣れ
雨は上がり、湿った霧が厳島の険しい山肌を這うように流れていた。
敗走する陶軍を追い、私たちは大元神社の裏手からさらに西の険路へと踏み込んでいた。
「……殿、下がってください」
雫の声が、昨日よりもずっと低く、平坦に響く。
彼女の背中は、泥と返り血に汚れ、もはや小姓の瑞々しさなど微塵もなかった。
茂みの奥から、死に物欲しげに突っ込んできた敵の残党を、彼女は一切の無駄なく、流れるような動きで斬り伏せる。
確かに、元春が吉田郡山城にいた頃は、彼女も良く稽古をつけてもらっていた。
春が「雫が男子であればかなり腕の立つ者になったであろうに。女子ゆえの力の弱さが勿体ない」と語っていたのを思い出す。
……そんな才能など、彼女本人も含めて、誰も気が付かなくて良かったのに。
昨日、私の腕の中で子供のように泣きじゃくったあの少女は、どこへ行ったのか。
今の彼女は、返り血を浴びても眉ひとつ動かさない。
小太刀を抜く手も、納める動作も、まるで長年戦場で生きてきた老兵のように淀みがない。
それが、私にはたまらなく恐ろしかった。
「……雫、もういい。無理をするな。あとは春や景たちの手勢に任せればよい」
声をかけても、彼女は振り返らない。
ただ、次の「獲物」を探すように、冷徹な目で霧の奥を見据えている。
「……いえ。隆元様の周りには、私が一歩も寄せ付けません。……大丈夫です。もう、感触には慣れましたから」
さらりと言ってのけたその言葉が、私の胸を抉る。
慣れた、というのか。あの、生きている人間の肉を断つ「ずるり」とした感触に。命を奪うことへの、あの耐え難い拒絶感に。
争いのない世から来た、女子であるお主が。私の心の痛みに共感し、寄り添うことができる、繊細で優しいお主が……。
彼女は、私を守るという目的のために、自分の「心」を殺す術を、このわずか一日で身につけてしまったのだ。
雫は一人、また一人と斬り倒していく。
確実に弱点を狙うその身のこなしは、この世の武士とは全く異なり、まるで死神が舞を舞うようでもあった。
武の師匠である元春ですら、こんな動きはしない。おそらくは未来の世で身につけた「技術」なのだろう。本来は、こんな場所で発揮するために磨いたものではないはずなのに。
ふとした瞬間に、彼女が自分の右手を見つめる。
そこにはもう血などついていないはずなのに、彼女は時折、その手を強く握り締め、何かを振り払うように顔を歪める。無表情な仮面の下で、彼女の魂が悲鳴を上げているのがわかる。
だが、私が歩み寄ろうとすると、彼女は再び、凛とした「道具」の顔を作って背筋を伸ばすのだ。
このままでは、戦が終わる頃には、この子の心は枯れ果ててしまうのではないか。
彼女が小姓として存在するため、周りの家臣の目もあり、毛利の一大事であるこの戦に吉田郡山城へ置いていくことはできなかった。本人の強い希望でもあった。
だが、今の姿を見れば、本人が何を言おうと、周りに何を思われようと、置いてくればよかったと後悔が募る。
体調が悪いことなんて周知の事実であったのだから吉田郡山に残すと伝えても良かったはずだ。
つい雫の首根っこを掴んで、自分の背後に庇ってしまいたくなる。
……だが、それは雫のこの覚悟に対して、あまりにも残酷な仕打ちだ。
彼女を戦わせ、その背に守られている、何も出来ない無器量の自分が情けない。
霧の向こうでまた、小太刀が鈍い音を立てた。
私はただ、祈るような心地で、返り血に染まる彼女の背中を追い続けるしかなかった。




